第4話 逃走(2)

 8歳の妹の手は、こんなにも小さかった。


 無我夢中で手を取った瞬間には、人形みたいに壊れやすいものに思えて、背筋がゾッとした。ただ、ほぼ同時に感じたのは確かに生きている者のぬくもりで、結局は情けなくも、俺はさらに力強くその手を握り締めていた。


 もちろん、小さな手が壊れるなんてことはなかった。


 灰になって崩れ落ちるなんて馬鹿らしい想像も、当然ながら。


「お兄ちゃん、ち、血が、すごい……し、死んじゃう……」


 妹のユーリシェラは、琥珀の瞳に涙を潤ませている。美しい銀色の髪はボサボサに乱れており、馬車が横転させられた時にぶつけたのか、手足には擦り傷などが見受けられた。


 うわずった声。平静でいられないのは当然だろう。ワーワーと泣きださないあたり、むしろ良くがんばって耐えている。


「お、お兄ちゃんが、死んじゃうよお……」


「大丈夫だから。泣かなくて偉いぞ。さあ、立って」


 ほとんど引き摺るみたいな、乱暴な手の引き方で可哀想だが、優しく振る舞えるほどの余裕はない。


 それに、ルールシェイドは貴族様だけど、俺は普通のサラリーマンである。女子の華麗なエスコートのやり方なんて知らなくて当然だ。


 脇腹の痛みを無視して、とにかく、力いっぱいに、妹を無理やり立ち上がらせた。


「ごめん。ゆっくり話している時間はない。走れるか? ケガは大丈夫?」


「……お兄ちゃん?」


 ユーリシェラの瞳が揺れて、当惑の感情が浮かび上がる。


 まるで、「誰?」と問いかけられているようだ。


 ゲームでは、ルールシェイドとユーリシェラの兄妹が仲良く描かれる場面は存在しない。そもそも、二人の交流する様子や会話シーンがほとんどなかった。


 まさに、今、ユーリシェラを見捨ててルールシェイドが逃げ出してしまうシーンと、もうひとつの重要な転換点の……。ああ、いや……。こんな所で詳しく説明している場合ではないか。


 とにかく。


 兄妹の関係性がどんなものだったかは、ゲームの内容からは読み取れない。


 だから、あくまで推測になる。


 家臣や取り巻きなどの味方をしてくれる人々に対しても、悪態や皮肉をバンバン叩き付けるルールシェイドの性格からして、この大人しくて優しい妹から好かれていたとは考えづらい。一方でまた、互いに憎しみ合い、罵り合うような関係でもないだろう。


 家族に大した興味がなく、思いやりもない兄。


 どんな風に接して良いのか、戸惑ってばかりの妹。


 まあ、こんな感じだろうか?


 ユーリシェラからすれば、驚きだろう。護衛の騎士たちが無残に殺されていき、自分自身もいったんは敵に捕まってしまい、これまでの人生で一番の恐怖と絶望を感じていたら、まさかの兄である。


 ヒロイックな行動を取るルールシェイドというのは、ゲームをやり込んだ俺にとっても、違和感が凄くて笑えるものだ。わかりやすい具体例を出すならば、キレイなジャイアンである。ユーリシェラが微妙な反応を見せるのも、まあ、当然だろうな。


「大事な妹を守って、なにが悪い?」


 演技なんて出来る器ではないけれど、この場をスムーズに進行させるため、ルールシェイドらしく尊大なもの云いを試してみる。


 上手くやれたかは知らないが、妹はびっくりしたような顔で、それ以上は何も云わなくなった。


「さあ、行くぞ」


 目くらましの魔法なんて、不意打ちの一度しか効果はない。


 ゲームならばランダムエンカウントのバトルに対して、確定で逃げられる魔法だが、これはリアルである。確実に儲かるおいしい話みたいなもので、現実はそんなに都合良く出来ていない。確定とか確実とか、そんなことが約束できるのは神様ぐらいだろう。


 逃げるために、全力を尽くす。


 敵の包囲を抜けて、森の奥深いところに走り込み、なんとか身を隠すことができれば……幸運が積み重なれば、二人で生き延びられる。妹を助けるためには無茶を押し通すしかない。


 敵は閃光に目がくらみ、一時的に視界を失って右往左往している。


 妹の手を引きながら、やつらの隙間を走り抜けていく。俺一人だったならば、敵も大体の当たりだけで刃を振り回しただろう。だが、ユーリシェラが一緒にいるため、うかつには手が出せないようだった。やはりラッキーである。このまま行くしかない。


 森の中に飛び込んだ。

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