第7話 時をかける

 ふっ、と目を覚ました時、光乃ははじめて寝落ちしていたことに気づいた。

 起きた瞬間から焦る。まだ生きている。特に物音もしない。遠くのほうで梟がホォゥ、ホォゥと鳴いているくらいである。


 いったいいまは何刻ごろなんだろうか。

 何も変わったところはなさそうだ。

 やっぱりあれは狐の妖術であって、信乃に襲われるなんてことはないのかしら。


 いや、でもやっぱり気になる。


 物音を立てぬように、ゆっくりと立ち上がると、摺り足で歩く。

 信乃の寝ているほうに向かう。


 信乃の寝所は、他の家族からはすこし離れたところにある。というのも、彼女のいびきが、その小柄な体からは想像もつかないほどうるさいためである。


 ◇


 館は静寂に包まれている。


 

 信乃の寝所に近づくにつれて違和感が膨れ上がる。


 

 地を揺るがすほどのいびきが聞こえてきてもいいはずだ。


 几帳の隙間から覗いてみる。よく見えない。

 そろり、そろりと几帳(仕切り布)をよける。


 寝台は空だ! いない!

 いや、厠に行っているのか?


 その瞬間、首筋に、雪を押し付けられたようなピリピリとした気配を感じた。

 光乃がとっさに身を翻した瞬間、顔のすぐ横を白銀の線が走る。

 几帳が真っ二つに切り裂かれる。


 太刀だ!


「……信乃?」


 太刀から漏れる神力の光に照らされたのは、信乃の姿だった。

 しかし、その表情は、光乃の知る信乃のものとは似ても似つかぬ。

 完全に無表情で、姿かたちや顔のつくりはおなじでも、一見、信乃には見えない。

 あふれだした神力だろうか、目は爛々と輝いている。

 神力の制御もできていないようだ。


 声も上げずに、信乃が踏み込む。太刀を喉元に突き出してくる。


「っく……!」

 光乃はすんでのところで鞘でいなし、はじきのける。


 二撃目、三撃目と連撃が続く。

 太刀を抜く間も神力を通す間もない。

 このままだと太刀ごと斬られる!


 四撃目、大きくふり抜かれた一撃を、側転してかわす。

 距離をとれた。


 光乃は太刀を抜き払うと、神力を通した。

 ろうそくが「ふっ」と灯るように、光乃の神力をうけた刀身が、夜の闇に輝く。


 これでまともに打ち合えるようになる。

 光乃は一息ついた。

 信乃も警戒したのであろう。

 二人の間に一瞬の間が生まれる。


「信乃、どうしたの。いきなり襲ってくるなんて。いつものあなたと様子が違う」

 信乃はこたえない。機をうかがうように、切っ先を揺らしている。


 ――ホォゥ、ホォゥ

 梟が鳴いた。


 瞬間、ふたたび信乃が踏み込んでくる。

 が、光乃は軽くいなす。

 一撃、二撃。


 ――ぐぉん、ぐぉん

 太刀と、そこに籠められた神力同士がぶつかり合う低い、鈍い音。


 三撃目。

 信乃は、光乃の喉元をめがけて一直線に太刀を突き出す。


「稚拙ね」


 光乃は、突き出された太刀を巻き取るように跳ね上げた。


 ――ぐぉん

 信乃の太刀が吹き飛ばされる。


 開いた信乃の体幹を軽く蹴り飛ばす。

 尻もちをついた信乃の喉元に太刀の切っ先を突き付ける。


 一呼吸にも満たぬ間に、光乃は信乃を無力化した。


 わざと空けた喉元を狙うなんて。

 こんな見え見えの誘いに乗るなんて。


 いつもの信乃だったらありえないはずだ。

 そう考える余裕すら光乃にはあった。


 だが光乃は忘れていた。これは人との戦いではもはやない、ということを。


 ――ゴァブリ

 信乃が喉元に突き付けられた切っ先にかみつく。


「……っ!」

 信乃を傷つけまい、と咄嗟に切っ先を引いてしまう。


 嚙みついたその勢いのまま信乃がとびかかってくる。

 とっさに、弓手ゆんでで受け流そうとするも。


 ”籠手、着けてないっ!”


 信乃の爪で前腕の肉をえぐり取られる。

 大口を開けて首筋に信乃が噛みついてくる。

 獣のように、首筋をかじり取りながら光乃を蹴り飛ばす。


 吹き飛ばされながらも、不思議と光乃の目に映る景色はゆっくりと流れていく。


 四つん這いで着地する信乃の、らんらんと光る眼。

 己の首元から噴き出す血。

 はためく袖口。


 吹き飛ばされた体が屏風にぶつかる鈍い音。

 はじけ飛ぶ破片。

 床にたたきつけられた衝撃。


 そして、母親の寝台に転がる、母、乃理香の生首。

 信乃の太刀についていた血痕がなんだったのか、その時光乃は理解した。


 ――母上!

 叫びたかったがすでに声すら出せず、こひゅこひゅ、と血泡を吹くのみであった。



 ◇


 木漏れ日のまぶしさに、目が覚める。枝葉のあいだからは、青空。

 川のせせらぎ、ひばりのさえずりが聞こえる。


「っはあっ!」


 がばり、と身を起こす。

 はっ、と首筋を抑える。傷はない。

 手を見る。狩衣に包まれた腕。めくる。傷はない。


 ……。


「おうおう、気が付いたか。ずいぶんな起きようだな」

 モレイも信乃も、籠手と脛あてをつけた身軽な服装である。


 ……。


「お姉ちゃん、何をそんなに驚いてるの。大丈夫ですかー?」

 信乃は、光乃の顔の前に手をかざして、ひらひらとふる。


 ……のか?


「おーい、光乃ぉ。大丈夫か…?」


 モレイや信乃が心配する声がだんだん遠ざかっていく。

 もう、何が何やらわからない。

 混乱の極致に達した光乃は再び気を失った。



 ◇


 くねくねとしたあぜ道を馬で歩む。


「お姉ちゃん、どうしたんだろう」


「ウーム。狐に叩き落されたのが効いているのだろうか。外傷はないし、少し放っておくしかないだろうなあ」


 モレイと信乃の会話を片耳で聞きながら、光乃は考える。


 おそらくは予知夢ではない。こんな入子仕掛けのような予知夢は聞いた事がない。


 また狐だとか別の怨霊だとかが光乃に攻撃してきている、というのでもないように思える。繰り返し戻ってくる、などということがあるだろうか。だとしたら、いくら何でもあやかしにしては強力すぎる。


 思うに、時を戻っているのではないか。

 やり直しをしているのではないか。

 信乃を救え、母上をお救いになれ、そのようになんとか大権現とか大明神とかの、神仏が光乃を導いているのではないか。


 そして信乃は妖にとりつかれているに違いないと、光乃は思った。

 夜の信乃は尋常の様子ではなかった。

 制御できない神力が目からこぼれていたし、太刀運びも稚拙だった。加えて、獣のように四つ足になって噛み付いてくるなど、人間の所業ではない。


 きっとそうに違いない、と興奮したのも束の間、疑念が頭を持ち上げて来る。

 信乃が妖にとりつかれているであろう事はほぼ間違いない。断言できる。神仏やら妖やら怨霊に詳しくない光乃にとってすら、明白に思える。


 だが、やり直しの方はどうだろうか。時を戻ってやり直しをする、とかお伽話でさえ聞いた事がない。

 もしやり直しができるのだとして、それは何回できるのだろうか。

 少なくとも二回はやりなおせた。

 でも三回目は?

 やり直すこともできず、浄土に行くとか、あるいは心残りで霊として留まるとか、そうならないと、誰が言い切れるだろうか。


 光乃はそこまで思い至ったところで、鞭をくれて黒毛の馬を走らせた。


「え、お、お姉ちゃん、いきなりどうしたの!」


「モレイ姉、信乃、ちょっと先にいくわ!」


 源建法師に相談するのが一番いい、そう気づいたからである。

 何かくにで、似たような事があるのを知っているかもしれないし、適切な対応方法も知っているかもしれない。

 あまり仏法に詳しくないとは言っていたが、それでも光乃やモレイよりは遥かに知悉しているだろう。


 今日の夜までになんとかしなくては。時間はほとんどない。



 ◇


 源建がいた。

 有力な百姓の屋敷だろうか、それなりに立派な門を出たところで民と話し込んでいる。


「源建法師様!」


「おや、光乃さん、どうしたんですかそんなに慌てて」


「急ぎの相談が。お力をお借りしたく」


 息を切らしながらいう光乃に、ただ事ではないと源建もおもったのであろう。


「申し訳ないのですが、屋敷の一角をお借りしてもよいでしょうか? 織路の姫どのが、急な相談があるとのことで……」

 と、さきほどまで話し込んでいた民に許可をもらう。


 ◇


 源建は、光乃から一通りの説明を受ける。

「ふむ、状況は分かりましたが、にわかには信じがたい話ですね……。時を戻る、ですか……」


「法師殿の師匠、円仁師は、法師殿にこう言いましたね。『意思こそが道を指し示す明かりなのだ』と」


「えっ、いや、その通りですが……。なぜそれを……」


「この話は前々回のときに、法師殿に『私は武者になるべきなのでしょうか』と相談した際にでたお言葉です」


「ふむ……。たしかに私であればその言葉を持ち出すでしょうね」


「これが証明にはなりませんか?」


「……わかりました。信じましょう」


 よし!と喜ぶ光乃を制するように、源建は言葉を続ける。


「ただ、時を戻る、という事象は寡聞にして存じ上げません。都の北嶺寺に戻れば、なにかわかるかもしれませんが、今は何とも言えませんね……。複雑な予知夢の可能性もある。あるいは神仏のお告げか。今回死んでも4回目以降がある、という前提で動くのはやめておいたほうがいいでしょう」


「はい、私もそう思います。そのうえで、信乃についたあやかしを打ち払う、というのはどうすればいいのでしょうか」


 源建は、人差し指で額をたたきながら考え込む。

「まず、大前提として、あやかし憑きとは言い切れない、と考えています。たしかにおっしゃる通り、信乃様が四つ足で噛みつくように襲い掛かってきたのだとしたら、怨霊ではないでしょう。でも神懸かりの可能性もあるのでは?」


「それは……。どうなんでしょう、あまり詳しくないもので……」

 

 武門の姫とはいえ、まだ成人前である。そもそも武人というものは、現に目の前に存在するあやかしに対してはめっぽう強いが、精神に攻撃を仕掛けてくるだとか、とりついてくるような存在には弱いものであって光乃もその例に漏れない。


「光乃さん。最大の問題はですね。あやかし憑きと、神懸かりでは、対処法が正反対だ、ということなのです。あやかしは、何か悪さをしようとして人間にとりつきます。一方で、神々の場合は、人間の過ちを正すだとか、なんらかの意図をもって懸かるのです」


「はあ、確かに言われてみるとそんな気がしてきました。」


「あやかしの場合は調伏してしまってよい。ただ、もし神懸かりだった場合、それをあやかしのように扱って調伏しようとしたらどうなると思いますか? 人間に何か伝えたいだとか、過ちを正したくて懸かっている神々なのですよ?」


「激怒、されますかね……?」


「まさにその通り。その昔、都できっての大大貴族、南家の氏長者うじのちょうじゃであられた堂長どうちょう公が姫、嬉子様が赤斑瘡あかもがさをお患いになられた折、あやかし憑きではないかとのことで加持・調伏に及んだところ、あにはからんや神がかりであったということがありました。神罰が下り、残念なことに嬉子様はお亡くなりになられた、ということです」


 信乃が神罰で死ぬところなど見たくもない。光乃はぶるりと震える。


「それ以来、まず、あやかし憑きなのか怨霊の祟りなのか、はたまた神懸かりなのか、その道に通じた陰陽師か密教僧が判断する、ということが徹底されるようになったのですよ」


「法師殿にはそれができるのでしょうか。……つまり、神懸かりかあやかし憑きかをみわけることが」


「それが……、私にはできないのです。大変申し上げにくいのですが、私は仏法や法力よりは、荘園の開墾・管理ですとか、新しい寺院の立ち上げですとか、そういった領域を得手としておりまして……。それもあって今回赤名荘あがなのしょうの寺院立ち上げに呼ばれたのです」


 駄目じゃないですか、そう叫ぶのを抑えながらも、光乃は落胆を隠せなかった。


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