第6話 予知夢
◇
木漏れ日のまぶしさに、目が覚める。枝葉のあいだからは、青空。
川のせせらぎ、ひばりのさえずりが聞こえる。
「おうおう、気が付いたか。ずいぶん寝ていたな」
モレイが声をかけてくる。
「信乃はっ!」
「ん? どうした? 信乃なら、そこにいるぞ」
「どうしたの、お姉ちゃん」
ずぶぬれの信乃が不思議そうに言う。
さきほど、血の滴る太刀を片手にさげていた信乃の姿はもはやない。
いつもの信乃である。
「ここは…? いったい何が?」
一体どういうことなのか、これは。
「む。外傷はなかったが、脳天をやられたか……?」
「狐の妖術……?」
モレイと信乃は顔を見合わせる。
◇
田んぼと草っぱらの間の小道を馬で行く。
どうやら、自分は狐に吹き飛ばされたばかりのところらしい。
”あれは夢だったのだろう”と光乃は得心するに至った。
あるいは、やけに具体的で鮮明だったことを思うと、狐の見せた幻か。
満月に照らされた信乃の朦朧としたような表情も、庭にぼたぼたと垂れる血も、現実のことではない、と思えば、先ほどの狼狽が恥ずかしくなる。
ぽく、ぽく、と馬を歩ませながらモレイが言う。
「討ち損ねてはしまったが、あれだけ脅しつければ当分は襲ってこないだろう。成功か失敗かで言えば、まずまず成功だ」
おかしい。
しかし、とモレイは続ける。
「しかしなあ、信乃、お前は全く話を聞いていなかっただろう。お前が鏑矢をはなってどうするんだ。話を聞いていないのはまあ、まだいい。だが、話を聞いていないのに、聞いていたようなそぶりをするのは一番よくないぞ」
この会話は、ついさっき夢の中でした会話ではないか?
光乃の中で疑問が膨れ上がる。
あの時、信乃はこういった。話、聞いていたと思ったんだけどなあ。
「うん……。話、聞いていたと思ったんだけどなあ」
ほら、さっきの夢の通りだ。
光乃の心臓が激しく脈打つ。
額から、とめどなく汗が流れ落ちる。
混乱する頭で必死に記憶を辿る。
次にモレイ姉はこう言ったはずだ。それに光乃、お前もお前だ。
「それに光乃、お前もお前だ」
「……あれ?お姉ちゃん?」
信乃が心配そうに光乃の顔を覗き込んでいる。
「急に汗びっしょりになって、どうしたの?」
「ひぃっ」
真夜中に見た妹の姿が脳裏をかすめ、落馬しそうになる。
「お姉ちゃん!」
信乃が、ぐいっと手を引っ張って支えてくれる。
いつもの信乃だ。すこしおつむは弱いけど、姉思いで、優しい信乃。
「大丈夫か、光乃。やっぱり狐にやられたのか……?少し休んでからいこうか」
そのあとも夢で見たとおりだった。
あぜ道でモレイが武勇伝を熱く語り、館のすぐ近くで源建に出くわす。信乃が獣の肉を坊主に進めるが、断られる。
むしろ、今見ているこれが夢なんじゃないかしら。
光乃は、いま、自身が目でみて耳で聞いているものと、感じているものとの間に、なにか薄い透明な衣のようなものが一枚挟まっていて、どうにもとらえられない、そんな気分になっていた。
光乃が呆然としているあいだにも時は流れ、気が付けば夕暮れである。
日課の荒々丸のお世話をする気にならない。
誰かに相談しなければ。誰に相談すれば?
最初に思い浮かんだのはモレイだった。
光乃は幽鬼のようにふらりと立ち上がると、モレイの家に向かった。
◇
モレイは家の前で見知らぬ男と話しこんでいた。
ずいぶん深刻な顔をしている。
はげかけた頭の、小柄な男である。
光乃に背を向けているから、顔はよく見えない。
麻織の水干は土埃でくすんでいて、朽葉色に見える。もとはそれなりに色鮮やかだったのかもしれないがわからない。
足には歩きやすいようにきつく
旅をしてきたのだ、ということが一目でわかるみなりである。それも一日とか二日ではない長旅だ。
モレイは歩み寄ってくる光乃に気づいて、眉をくいっとあげた。
ちょっと待っててくれ、という程度の意味合いだろうか。
モレイのしぐさに、小男も後ろからだれかがくるというのに気づいたのだろう。
ひょいっと光乃のほうに振り返ると、人好きのする笑みを浮かべて会釈をひとつ。
そして二言、三言、モレイに話すと、もう一回光乃のほうに会釈をして立ち去って行った。
「モレイ姉、いまの人は……?」
「ああ、砂金売りの吉太というやつだ。やつはあきないであちこちにいくからな。織路氏の拠点間の連絡役もお願いしている」
「ふーん。ずいぶん深刻な顔していたけど、なにかあったの?」
「いや、大したことじゃないさ。いずれ機会があったら話そう。それより光乃はどうしたんだ?」
「あ、実は、モレイ姉に相談があって……。」
「光乃、お前が相談とは珍しいな。どうしたんだ」
「あ、信乃には内緒なんだけど」
モレイは「そうか、こんなとこじゃなんだ、なかにはいるか」とつぶやいて立ち上がった。
◇
家にはいると、モレイは円座(藁の座布団)を引っ張り出してきて、縁側に並べる。
「まあ適当なところにかけてくれ。館みたいなたいそうな作りじゃないけど、くつろいでくれ」
「ありがとう」
「それで、どうしたんだ。お前が、信乃にも聞かれたくない話、とはな。珍しい」
光乃は、言葉を選びながらゆっくりと話しはじめる。
「モレイ姉、気が触れたと思わないで聞いて欲しいのだけれど、何かが変なの」
「ふむ。聞こうか」
「私、もしかしたら予知夢を見たのかもしれない。さっき狐に吹き飛ばされた後、夢か何かを見ていたの。それがね……」
光乃は、ここまでにあったことを吐き出すように喋る。
夢の中と同じように信乃が川に入って濡れていたこと。
あぜ道でモレイ姉に言われたこと。
源建法師と出くわしたこと。
そして。
真夜中、信乃に殺されたこと。
一通り光乃が話し終わり、部屋は静寂に包まれる。
モレイの顔はちょうど
あきれているのだろうか。それとも困惑しているのだろうか。光乃は不安になる。
「まずは、そうだな……。話してくれてありがとう」
モレイはゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「正直にいうと、私には今の話をどう扱っていいかわかりかねるところがある。まず光乃のみたのが夢なのか、そうじゃないのかもよくわからない。もしかしたら夢かもしれない。あるいは狐のやつが光乃の魂にゆさぶりをかけるために見せた幻惑かもしれない。そもそも、全く別の怨霊のしわざということもありうる」
「そうだよね、よくわからないよね……。」
光乃の声が、しりすぼみに弱弱しくなっていく。
「いずれにしても、一回陰陽師にみてもらうべきだ。都の屋敷にいる陰陽師を呼んでもらうよう、殿にたのんでみるのがよいだろうな」
「うん、そうだね。」
「ただ、これが夢だったとすると、陰陽師を呼ぶまでは人にはあまり話さないほうがいいかもしれない。吉兆であれ凶兆であれ、自分の夢をみだりに他人に話すのはよくない、と都の陰陽師から聞いたことがあるから」
「うん、わかったよ」
一瞬の静寂の後、でも、と光乃は続ける。
「もし予知夢だとすると、今晩、信乃が大変なことになっちゃうんじゃないかな……。どうしようかと思っちゃって」
「うーん。だいたい予知夢、というと、なんかこう、『カラスが西の方角で鳴く夢をみたから吉兆だ』とか、『なんとか大明神がでてきて神々しい光を放った。おそらく怨霊からわが身を守護してくれたのだろう』とか、そういうものだぞ。正直、夢がそこまで明確にあらわれる、というのは聞いたことがない」
「うーん、言われてみればそうかもしれない」
「だいいちそんな簡単に夢の指し示している内容がわかるんだったら陰陽師なんかいらないじゃないか、という気もするがなあ」
ずいぶんと心が軽くなったのを光乃は感じた。
まあ考えてみれば、本当にただの夢だったのかもしれない。
夢というのは起きたそばから内容を忘れていくものだから、夢の中で見てきたように感じただけで、実際には違ったのかもしれない。
うーん、とモレイは首をひねる。
「しかし、私も夢については完全に門外漢だ。もしかしたら本当に今晩、信乃に異変が現れるのかもしれない。あるいは、信乃じゃないにしても、今晩なにかがおきるという前触れなのかもしれない」
だから、念のためこうしよう、とモレイは光乃に提案した。
「まず、光乃は、厠にたつときとか寝るときに、太刀をすぐそばに置いておくのだ。そしてなにかあったらすぐに私を呼ぶんだ。運がいいことに、今晩の不寝番は私だ。館の
門外漢が二人集まって相談したところで、なにもわからないのは当たり前なのだから、割り切ってしまえ、ということなのであろう。
◇
太刀をぐっと握りしめて、光乃はまんじりともせずに宙空をみつめている。
横になったら寝てしまいそうだから、寝台の上で膝立ちになって待っている。
モレイに話して、ぐっと心は軽くなった。
とはいえ、夜がふけていくにつれて緊張していく。
あのあとも信乃はいつもの信乃だった。
夕餉のときも、自分が兎を如何に巧みに捕らえたか、姉妹の母、乃理香や源建法師に熱弁していた。
あの夕焼け空の下で源建法師からきいた話も、夢だったのだろうか、光乃はそう思う。
"意思こそが、行くべき道を指し示す明かりなのだ。"
自らの意思が何か、などという悩みはきっととても贅沢なものなのだろう。
その証拠に、自分は今、自分の意思が何か、なんてことで悩んじゃいない。
現実問題として、自分の間に起きたことが一体何なのか、今晩何が起きるのか、無事に朝を迎えることができるのか。
そうまんじりともせずに悩んでいる時、自分がなにがしたいのか、とか、なにになりたいのか、とかはひどくどうでもいい問いにすぎないように思えた。
夜がふけていく。
明かりもつけずにいると酷く眠い。
睡魔が襲ってくるたびにふとももを強くつねって自らを起こす。
端的にいうと、暇である。だから、考えても仕方のない思念がぐるぐると頭を駆け回る。
もしもこれが本当の予知夢だったとしたら、いったいどうすればいいのだろう。
もしも本当に信乃が襲ってきたら……。
きっとあやかしか怨霊に取り憑かれているのだろうから、万が一にも信乃を傷つけるわけにはいかない。どうにか取り押さえて、陰陽師か、僧侶か、あるいはその両方かに見てもらわなくては。
いや、まずは源建法師に見てもらおう。法力は苦手と言っていたけれども、仮にも国随一、北嶺寺の僧侶だから、並の僧侶よりはずっと法力が使えるはず。
…でもあれはただの予兆で、もしかしたらなんぞ妖が夜更けに館を襲ってくるということなのかもしれない。
あるいは、狐の火の玉がみせた幻覚なのかもしれない。あやかしのなかにはそういう術を使うものもあるときく。人の最も見たくない景色をみせるような術を使うものもいると。
だとしたら、狐のやつは私のことをよくわかってる、と光乃は思った。
よりにもよって、愛する信乃に殺されるだなんて、夢にすら見たくもない。
そう思ううちに、太ももをつねる努力もむなしく、光乃はうつらうつらと眠りに落ちていった。
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