増進された記憶力

 妹ソフィアの甘え方が、前よりひどくなった。毎夜、ベッドに潜り込んでくる。

 

 メイドから耳打ちされたところだと、毎夜、ひっそりと泣き濡れていたという。僕は、彼女につらく当たることができない。もしや、これも母さんの作戦なのか?

 

 夜着の布地は薄いので、体のラインがよくわかる。一一歳になったソフィアは、一年前より、ずっと女らしさが増していた。

 正式な定めはないが、世間だと、女は一二歳頃が成人年齢。もう来年だ。そんなお年頃なのだ。


 血がつながっていないこともあって、気分は複雑だ。だが、妹という認識に大きな変化はない。妹として愛おしい気持ちはあれど、ふしだらな欲望はちっとも湧かない。兄妹とは、そういうものなのか? 思い直してみると、不思議な感覚だ。

 

「ねえ……兄さま。ちょっとだけ、腕枕して」

「えーっ。腕が痺れるから、たいへんなんだよ」


「ちょっとだけでいいから……ねえ……」と、ソフィアは、一段と高い甘え声でねだる。

「もう、しょうがないなあ……」

 

 腕を差し出すと、ソフィアは、二の腕の上に、そっと頬を乗せた。


「えへっ。兄さまの臭い……」


「ソフィアさん。いいかげんに自立できないと、お嫁にいけないよ」

「いいの。あたしは、絶対に兄さまのお嫁さんになるんだから」


「また、そういうことを言う……」

「だって、本当だもん」


 すねた顔が可愛い。僕は、それ以上キツい言葉をはけなかった。

 



 ◆



 

 養父アレッサンドロの許しもあったので、僕は、大学へ行くことにした。目指すは、帝都ギーデにある帝国叡智アカデミーインペリアリス・サピエンティ・アカデミア。帝国内の最高学府として名高い。

 はっきり決めたわけではないが、養父の示唆もあり、卒業後は、神官を目指そうと思っている。


 入学年齢は規制されていないが、おおよそ一四歳程度が目安とされている。その後、二〇歳頃まで基礎科目を、その後に専門科目を学ぶ。


 入学は秋。聖エレシア山で一三歳を迎えた僕に残された期間は、一年半弱だ。

 

 入学試験は、大学の教養科目で学ぶ文法、修辞学、弁論学、算術、天文学、幾何学、音楽の七科目。まずは、どの程度の準備が必要か、めどを立てておかねばならない。


「ミーナ」

「はっ! 若様」


 黒い髪と瞳を持つ少女が、どこからか影のように姿を現わした。歳は一〇代後半くらいで、東方系のエキゾチックな顔立ちだ。紺色の頭巾を被り、忍び装束を着ている。


 ミーナ・エスポジートは、奥深い森林に根拠を持つ「影の一族ジェンスムブラルム」という少数部族の出身。影の一族は、諜報ちょうほう活動、情報かく乱から破壊活動、暗殺まで、裏で秘密裏に行う。エスポジート家は、代々墓戸の一族に仕えている家門だ。


帝国叡智アカデミーインペリアリス・サピエンティ・アカデミアの過去の入試問題を集めてくれないか」

「若様の仰せのままに」


 ミーナは優秀だ。翌々日には、過去一〇年分の入試問題と模範解答を入手してきた。


「さすがに、仕事が早いね。ありがとう」

「お誉めにあずかり光栄に存じます」


 仕事柄、感情を表情に出さないミーナが顔を伏せた――照れているのか?


「これからも、よろしく頼むね」

「はっ! 身命を賭しまして!」


 問題を眺めて拍子抜けした。想像していたよりも、だいぶ難易度が低い。これなら、受験勉強をするまでもないな。

 

 コミモテノス聡明法を完遂して、記憶力が極限まで増進された僕は、ぜひやってみたいことがあった。陵墓附属図書館の蔵書の読破だ。入学前に集中して取り組むことにする。




 図書館の重厚な扉を開けると、古びた木の香りが漂ってきた。

 僕は一歩踏み入れ、静寂の中で本を手に取った。ページをめくるたびに、情報が脳内に流れ込んでくる。その勢いは驚くべきもので、慣れるにつれて加速度的に速くなっていった。ページをめくる手が忙しくなるほどだ。


 次々と本を読み進めるうちに、フッと気づいた。入ってくる情報が、見ているページを追い越している⁉


 僕は、思いついて、本を閉じた。その状態のまま意識を本に集中する……。

 やはりだ! 本を見なくても、情報が入ってくる。


 ――これが、コミモテノス聡明法の威力なのか?

 

 さらには、書架に入ったままの状態で、本の情報を読み込んでいく。しかし、見上げる高さの書架を一列終わったところで、頭に熱を感じ、少しふらついた。情報量に脳がつ いていけなくなったのだろう。こどもの知恵熱みたいなものか?


 椅子を並べると、その上へ横になり、二〇分ほど仮眠すると落ち着いた。

 そんなことを繰り返していく。


「兄さま。遅いよー。もう夕ご飯だよ。みんな待ってるんだから」


 ソフィアが呼びに来た。もうそんな時間か……。


 それからも、毎日午後は図書館へ入り浸った。慣れてくると、情報を取り入れる速度は日増しに速くなっていく。

 そして一週間後。一フロアの蔵書を完読した。伝承によると、下の階へ行けるようになるはずだが……。


 ガコンと音が響き、下の階への扉が開いた。その先に螺旋らせん階段があり、降りていくと下の階へたどり着いた。大量の蔵書の洪水が目に映る。

 また、同じ作業の再開だ。これがいつまで続くのか?

 

 次第に鈍化はしているものの、情報を取り入れるスピードは上がっていく。三日で一フロア、一日で一フロアとなり、一日で二~三フロア進めるようになった。このくらいで、限界に近づいているようだ。


 我ながら、膨大な記憶力には呆れる。苦労したかいがあったというものだ。

 だが、記憶することと、内容を吟味・理解することは別物だ。これはゆっくりやることにして、差し当たり記憶に専念する。






 

 一カ月ほど過ぎて、イリスが家を訪ねて来た。


「ルカ。ちっとも村に顔を見せないなんて、ひどいんじゃない。私を放っておいて、何してるの?」


 言われてみて、反省した。図書館へ夢中になって、他のことが、ないがしろになっていた。

 

「大学に入る準備もしなくちゃいけないからさ。図書館で勉強しているんだ」と、適当な言い訳をする。


「聡明法を完遂したから、それっきりなんて、冷たいのね」


 彼女の顔に寂寥せきりょう感が出ている。良心がうずく。


「悪かったよ。じゃあ、明日はプロテクテレシエの町を案内するね」

「うん。お願いね。放っておかれたら、寂しくて泣いちゃうから」


 アレッサンドロから突き刺さる視線が痛い。普段のイリスは穏やかだし、外見も可憐かれんはかなげだ。そんなかそけき少女に慕われているのに、放置するとは――男の風上にも置けない! 視線が物語っている。


 対して、養母のエレナの表情は固い。心中で、まだイリスの評価が定まっていないのだろう。差し当たり、ポジティブではない、といったところか?

 そもそも息子を奪われる母親に、ネガティブ以外の感情はあり得るのか? しかも、養母かあさんの場合、特殊だからなあ……。


 イリスとは関係なく、僕は帝都ギーデの大学へ行くことを決めてしまった。そうしたら、また長く家を空けることになるわけで……考え始めると憂鬱ゆううつだ。

 

「はは……」

 答えを見いだせない僕は、意味不明な愛想笑いを浮かべるしかなかった。


 翌日。イリスを案内して、プロテクテレシエの町を巡る。

 大きな町ではないが、聖エレシア神殿を詣でる巡礼者が立ち寄るため、ゆかりの土産みやげ物屋や宿屋があって、それなりの賑わいがある。


 金色の髪と緑の瞳を持つ美しい少女イリスは、明らかに目立っていた。衣装は質素だし、化粧も何もしていないが、美しさの格が違う。エルフだけあって、美の妖精のようだ。周囲の誰も彼もが注目した。


 町の住人は、違った意味でイリスへの好奇心に目を輝かせている。

 養子の事実は伏せられていて、住人にしてみれば、僕は領主の長男で若様だ。それが、見知らぬ妙齢の女性と連れ立って、町を散策している。それも、とびきりの美少女ときた。


 ――んんっ! 若様の婚約者候補なのか?


 そんな心の声が胸に刺し込む。が、それにかまっていては気疲れしてしまう。これに蓋をするのも一つの経験だ。


 イリスは、人間の町への物珍しさから、あちらこちらを興味深く眺めている。

 イリスが目を留めたのは、アクセサリーの店。よりによって、リリア因縁の店だった。


「ねえ。ルカ。可愛いアクセサリーがいっぱいだよ。迷っちゃうなあ」

「イリスの髪は月の光ように輝いていて、神秘的だから、お月様の形の髪留めが、きっと似合うよ」


 イリスは、うつむき加減に視線をそらした。


「そう……かなあ。お月様みたいなんて、おおげさじゃない?」

「そんなことは、ないよ」


 ちょっと意外だった。感じたままを素で言っただけなのに、イリスは、口説き文句のように感じたようだ。なんだか、きまりが悪い。

 

「おう! ルカじゃねえか」


 突然、大声をかけられたと思ったら、レオンだった。一年見ない間に、さらにたくましくなっていて、うらやましい。

 

「なんだ、レオンか。驚かせないでくれよ」

「なんだじゃねえよ。久しぶりなのに、つれないな」


 そう言う間も、レオンは、イリスを値踏みするように、横目でチラッと視線を投げている。


「ルカ。どちら様かしら?」

「ああ。こいつはレオン。僕の鳩子だ」


「まあ。親戚の方なのね」

「……といっても、遠い親戚だよ。レオンのおばあちゃんが、おじいちゃんの妹なんだ」


「私、イリスといいます。よろしくね」

 と言いながら、イリスは、花が咲くように優雅なほほ笑みを浮かべる。

 

「あ、ああ……こちらこそ……よろしくお願いします」

 レオンは、イリスの閑雅かんがな品格に圧倒されている。

 

 その後、イリスのうわさは、瞬く間に町中を駆け巡った。


 ――優雅なエルフの美少女を射止めるとは! さすがに、墓戸の若様は違う。

 

 そのまま、イリスは僕の将来の妻ということが、町の暗黙の了解となった。


 町の住民は、イリスのことを、こう影で呼び始めた。

「若夫人」と。


 僕は、そのことを全く知らない。

 イリスは、いつのまにやら、すっかり町になじんでいる。

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