帰還

 エレシアは、僕が知恵を得る手助けもしてくれた。

 神コミモテノスから無限の知恵を切り開く扉を開ける力の鍵は得たが、そのは未知の領域で、どうやって知恵を得るか見当がつかない。


 彼女は、単純に僕に知恵を授けることはしない。

 問いを発し、僕に考えさせるのだ、正解へ至れるよう誘導はしてくれるが、決して正解は言わない。あくまで、僕が正解と認めた答えが正解。これが彼女の信念だった。


 この思考ゲームは、僕の知的好奇心をおおいに刺激した。これが習慣づけられ、身に付いていく。

 気づけば、千鳥足ではあるが、未知の領域を探索できるようになっていた。途方に暮れていた僕にとって、この第一歩は、大きいと思う。この先、歩みを早めていくことこそ、自己責任だ。



 

 ◆




 光陰矢の如し。春が近づいてきた。


 ある日。エレシアに言われた。

 

「そろそろ潮時かな。これより上続けばヴェラが嫉妬に狂ひぬ。やつ怒鳴り込みくるうたてしもしれん」


「えっ! それは、どういう? ヴェラとは、戦争と知恵の女神ヴェラ様のことですか?」

「さらなり。さうじみに自覚なしとは、ヴェラも哀れかな。其方には、山ほど祝福与へられたらずや」


 確かに、他人へ付与された精霊の加護や神の祝福はわかりやすいが、自分のこととなると客観的に見ることが難しい。だが、エレシアが言うなら真実に違いない。


 そろそろ下山も可能な気候になりつつある。

 半年足らずの短い期間であったが、アストラリス宮殿で過ごした日々は、とても有益だった。将来の基盤固めができたと言ってもいい。


 僕は、下山することを決断した。


 いよいよ出立の日。

 戦乙女ヴァルキーエたち、英雄エロイカたち、宮殿の使用人たち、そしてエレシア本人までもが見送りに来てくれた。


「皆さん。お世話になりました」

 言った途端、故郷を去るような言いようのない淋しさに襲われ、目が潤んだ。


 それが切っ掛けになったのか、レベッカが声をあげて号泣した。うつむいた顔から、涙がポタポタと落ちている。

 戦乙女ヴァルキーエたち、英雄エロイカたち、宮殿の使用人たちにも伝染し、グスリと涙ぐむ音がこだまする。

 

「レベッカ。山を降るるは自在なり。降らまほしくば、己の意思にて降りたまへ」


 エレシアが、いつになく慈愛の満ちた声で語りかけた。レベッカは、とたんに当惑顔になった。助けを求めて姉たちを見渡すが、誰も応えない。彼女は、オロオロするばかりだ。


 見ていた僕は、気の毒になった。僕が、もし人竜だったら、どうするか?

 求婚するのは雄の方だ。雌は、気に入らなければ全力で抵抗するしかない。少しでも躊躇ちゅうちょしてすきが生じれば、雄はそこに付け入る。


 レベッカ一人で決断させるのは酷だと思った。ここは、人竜方式で行かせてもらおう。


「僕は、レベッカが欲しい。だから、アストラリス宮殿からさらっていく。嫌なら全力で抵抗してくれないか」と、人竜方式の求婚の言葉を吐いた。


 この一言に彼女は驚倒し、瞳孔散大した。

 彼女に近づくが、硬直したように立ちすくんでいる。頭へポカリと軽く拳骨げんこつを落とした。


「ルカ。痛いよー」と言いながら、彼女は僕の胸にヘロヘロなパンチを放った。ちっとも痛くない。


 ――本気で戦ったら、まだレベッカの方が強いと思うんだけど……。


 僕は、レベッカを強引に抱きしめる。レベッカは、まだ戸惑っている。


「母さん。私、ルカに攫われちゃうけど……いいのかな?」と、レベッカは、自信なさそうにエレシアに問う。


「其方拒まざらば、此方は止めず。そは人竜の掟なり」


 エレシアの言葉は厳しいが、情愛の温もりが込められている。

 レベッカは、泣きべそをかきながら、微苦笑した。


「強い雄に攫われちゃうのは、弱い雌の宿命だよね……」


 母エレシアに対する言い訳なのか、自分に言い聞かせているのか……。


 レベッカは、唇をかみしめると、武装姿に転じた。身にまとう銀色の甲冑には、太陽の模様がちりばめられ、その輝きは、金髪で金の瞳の彼女の優雅な雰囲気を一層際立たせている。


「ルカ。私に勝って」

「ああ。なんとかやってみるよ」

 

 レベッカは、全力で光の剣を振るった。僕は、これに合わせるので精いっぱい。あまりの威力に、受け流すこともかなわない。

 二撃目、三撃目……いいところが全くないまま、体勢を崩され、僕は片膝をついた。


 レベッカは、構えを解いた。最後まで勝負をつけなくとも、結果は見えている。


「ごめん……レベッカ……」


 エレシアの娘たちは、いわば半神だ。僕が数カ月修練したところで、かなうはずがなかったのだ。増長して醜態をさらした自分が、情けない。

 

「いいの……ルカは強くなるわ。絶対に……。そうしたら、私を攫いに来てくれる?」

「ああ。いつになるか見当もつかないけど、精進するよ」


 結局のところ、戦乙女ヴァルキーエとしての彼女たちの強さは、遥か高みにあることを思い知った。稽古をつけてもらっていたときは、よほど加減してくれていたのだ。


「ルカ。待っているから……」


 レベッカの顔が憂愁をたたえている。自責に心が耐えられない。

 

「わかった。じゃあ、レベッカ。僕は行くよ」

「うん……」


「アストラリス宮殿は、常に開かれたり。ときじく恋しきに来べし」

「ありがとうございます」


 エレシアの言葉が、胸に響いた。彼女は、恋人であり、母であり……男にとっての女の原型なのだろう。彼女の慈悲が、無償の愛が……その鮮烈な印象は僕の心に刷り込まれ、忘れようがない。


 ――別に、永遠の別れというわけじゃない……。


 アストラリス宮殿が、第二の故郷に思えた。いつか、胸を張って戻って来られる存在になりたい。

 

 僕は、アストラリス宮殿を後にする。一度も振り返らずに。

 



 ◆




 僕は、欲をかくことにした。

 天馬ペガサスのゼファーに騎乗して行けば、あっという間に下山できるが、あえて徒歩で山を下る。せっかく聖エレシア山の上まで登ったからには、帰りがけの駄賃だちんとして、使えそうな怪物たちを従魔にするのだ。


 グリフォン、サイクロプス、マンティコア、フェニックス、キマイラ、サラマンダー、バジリスク、ヒュドラ、アラクネ、ティラコレオ、サーベルタイガー、ニグルムジャガー、エラスモテリウム、セラティスヴァイパー、そしギガントサーペント……など。


 苦しめられた怪物の数々だが、瞬殺とまではいかないまでも、楽勝だった。

 アストラリス宮殿での修行の成果を確認できた。僕の生命エネルギーが強まったことで、マグナスとフェロックスの強さも、格段に増していた。体格も一回り大きくなっている。

 

 道中で、ナンフと出くわした。


「あらっ! あなた生きていたの」

「おかげさまで、なんとかね」


「私なんか、何もしていないけど?」

「君と会話できたことは、僕にとって、かけがえのない癒しだったから」


「それもそうね。私みたいな高貴な妖精にしてみれば、当然のことよ」

 鼻息を荒くしながら、小さな胸を張っている姿が微笑ましい。思わず口角が緩んだ。


 さらに山を下ると、何者かが翠緑すいりょくの森をこちへ向けて突進してくる。

 正体はすぐにわかった。ルナリアだ。


 ルナリアは、頭や鼻を摺り寄せてくる。狂ったように何度も、何度も……。


「ごめん、ごめん。悪かったよ。心配をかけたね。寂しかったんだよね」


 僕は、ルナリアの頭や首など、あちこちを撫でてあげた。ルナリアが満足するまで、小一時間かかった。


 そこからは、ルナリアに騎乗して、イリスの村へ向かう。


 仮の修行小屋が見えた。小屋に手を突いて、項垂うなだれながら、黄昏たそがれている少女がいた。イリスだ。

 物音に気付いて僕を発見すると、こちらへめがけて走ってくる。


「ルカ……ルカ……」


 僕もルナリアから降りて、イリスに駆け寄る。

 イリスは、勢いよく僕に抱きついてきた。それを受け止め、こちらからも抱き返す。

 彼女は、僕の胸に顔を埋め、声をあげて啼泣ていきゅうした。


「心配したんだからぁ! 冬になっても帰ってこないから、死んじゃったのかと……毎日、毎日、胸が苦しくて……もうっ! ルカのバカぁぁーっ!」

「とにかく、聡明法は完遂したから。これもイリスさんのおかげだよ。心配かけて、ごめんね」

 

「本当……なの? じゃあ……何で……すぐ帰ってこなかったの?」

 イリスは、すすり泣きながら聞いてくる。


「それが……完遂したものの、死にそうになっちゃって……そこを山の上にある村の人が助けてくれて……。でも、冬になって下山できなくなったから、村でお世話になっていたんだよ」


「本当に? そんな山の上に村があるなんて、信じられないわ」

「あったからこそ、僕は生きているわけなんだけど……」

 

 イリスは、小首を傾げている。ゴクリと唾を飲みこみながら、これを見守った。


「まあいいわ。ここで言い争いをしても不毛だし……とにかく、伯父さんの家で休むといいよ」

「ありがとう。すまない」

「水臭いわよ。今さら」


 それから、イリスの伯父さんのアルヴィンと叔母さんのミーリエや村の人々に謝り倒した。

 アルヴィンの好意で村へ一泊する。

 プロテクテレシエの僕の家へは、村の人が一報を入れてくれることになった。


 夜は宴会となり、根掘り葉掘り聞かれた。


 翌日。ルナリアに騎乗して、プロテクテレシエの自宅へ向かう。


 例の花園で、難しい顔をしたノアが、仁王立ちで僕を射すくめた。

 急いでルナリアから降りて、ノアのもとへ向かう。


「黙っていなくなるなんて、酷いわね。私の気持ちなんて、どうでもいいのかしら?」

「いや……ノアに心配をかけたくなくて……」


「黙っていなくなる方が、よほど心配よ」

 冷静な言いぶりが、かえって迫真的だった。


「ごめなさい。心配をかけました……」


 すると、ノアは、いつもの気高い雰囲気をまとった。僕を、優しく抱きしめてくれる。


「いいのよ。こうして戻ってきてくれたのだから……」


 ノアから解放されると、それまで遠慮していたカリーナが僕のところへ飛んできた。


「ルカ様のバカあぁぁっ!」


 グズグズと泣いている。やはり、落ち着くまで小一時間かかった。

 

 そうして、ようやく自宅にたどり着いた。

 とにかく、会う人会う人に謝り続ける。たいへんな労力だが、自業自得だ。


 母エレナと妹のソフィア、ジュリア、クララと弟のマルコは、瞼を泣き腫らしていた。父のアレッサンドロまでもが涙ぐんでいた。

 自分は養子だが、こんなにも愛されていたのかと痛感した。

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