人竜エレシア

「起きなさい……このまま落ちたら、死んでしまうわ……目を開けるのよ……」


 りんとして高く澄んだ少女の声が、かすかに聞こえる。

 だが、周りには一点の光もない漆黒の暗闇が広がっている。宙に浮いているようで、上下左右もわからない。そもそも、僕は目を開けているのか……。


 意識が混濁して、はっきりしない。あの声も、幻聴なのでは?


「死んではダメよ……目を覚まして……」


 本能的に死の淵にあることを悟り、戦慄せんりつで背筋が寒くなった。同時に、生への執着を覚え、意識が少しはっきりした。


 頼みの綱は、少女の声しかない。ひらすら声に意識を集中させる……声は、次第にクリアになっていく……。


「目を開けなさい!」


 ひときわ大きい少女の声。僕の体は、それにビクリと反応した。ようやく覚醒したようだ。

 おっくうだが、やっとの思いでゆっくりとまぶたを開けた。


「よかった! 目が覚めたのね」

 

 金色の髪と瞳を持つ美しい少女が、僕の顔をのぞき込んでいた。歳の頃は、一四歳くらいだろうか……リリアといい、少し年上の少女に縁があるな、僕は。


「君は……?」

「私は、レベッカ」


「僕は……ルカだ。助けてくれてありがとう」

「私は、母さんに様子を見てこいって言われて、来ただけだから」


「それでも、君の助けがなかったら、僕は死んでいた」

「そんな、おおげさなことじゃないよ」


 少し会話をして、正気に戻った。だが、状況を把握した僕は、思わず飛び起きた。


 レベッカは、神秘的な光沢のある銀白のシンプルなワンピースを着ていた。スカート丈は膝上でかなり短い。僕は膝枕をされていたが、スカートがたくし上がっている。頭を乗せられていた部分は、生足だった。心地よい人肌の温もりの正体だ。

 フォンターナにいたずらして後悔したことを思い出す。さすがに、初対面の美少女に、それはできない。


「どうしたのよ? 急に」と、レベッカはキョトンとした顔をしている。

「いや。何でもない……」


 答えに詰まり、お茶を濁した。

 

 帝国人女性が、ここまで足をさらすことはふしだらとされている。男の悲しいさがで、無防備にさらされている生足に、チラチラと目が行ってしまう。悟られて好色だと思われるのも不本意で、気が気でない。


「まあいいわ。その元気があれば、お母様のところへいけるわね」

「その……お母さまって?」


「エレシアっていうの。名前くらいは聞いたことがあるでしょう」

「は? というと、人竜の?」

「そうとも言うわね」


 思わぬ展開に、僕は呆気あっけにとられた。しかし、この幸運には感謝せねばなるまい。


「面倒だから、空を飛んでいくわよ」


 レベッカがピューッと口笛を吹くと、純白の毛並みの天馬ペガサスが舞い降りてきた。

 彼女は、僕を抱えると、あっという間に天馬ペガサスへ乗せた。かなりの力持ちだ。


 レベッカが僕の前に騎乗し、空へ飛び立つ。落馬しないよう、背後から彼女にしがみつく――男女逆だな……かなり恥ずかしい。


 空から見ると地形がよくわかった。

 山頂付近は外輪山に囲まれている。内部の窪地には、大小の山が不規則に点在している。聖エレシア山は、古いカルデラ火山だったのだ。


 外輪山の内側に入ると、突然、気候が変わった。春のような程よい暖かさで、空気も地上と同様に濃い。呼吸が楽になり、人心地ついた。


 外輪山内部の窪地くぼちに広がる平原には、色とりどりの花が咲き誇る。木は灌木かんぼくがポツポツと生えているが、高木も混ざっている。天国のような光景だ。


 ふと気づくと、中央に想像を絶する太さと高さの気が生えていた。遠近感が狂ってしまったような奇妙な感じだ。あれはトネリコの木……おそらく世界樹というやつに違いない。


 レベッカは、唯一の人工物と思われる建築物の前で、僕を降ろした。

 伝承にあるアストラリス宮殿なのだろう。宮殿というよりは、神殿によく見られる尖塔せんとうの形をしている。いなか町しか知らない僕は、その壮大さに圧倒された。


「ここが、私のおうちよ。さあ、母さんへ会いに行きましょう」

「は、はい……」


 事がとんとん拍子に進み、心の準備が追い付かない。

 おかまいなしに、レベッカは、宮殿の中をどんどん歩いていく。僕は、離されないように、これを追った。


 途中、エレシアに仕えているらしき、女性たちとすれ違う。女性たちは、白いローブに包まれ、シンプルな花冠が頭に輝いている。清らかな雰囲気を醸し出す巫女みこのような装いだ。優雅で清楚せいそたたずまいで、いかにも聖なる場所で奉仕している感じだ。


 彼女たちは、好奇の視線を向けてくるが、悪意は微塵みじんも感じられない。しかし、注目されているには違いなく、気恥ずかしさが先に立つ。胸を張って見つめ返すくらいできたらいいのだが、今の僕では無理だ。


 ひときわ大きな部屋に通される。真正面で艶然えんぜんとほほ笑む女性が、幅広く豪華なデザインの椅子で雅やかに座っている。聖エレシアなのだと思うと感無量だ。


 王様のように、高いところから見下ろすのではなく、椅子は、フラットな位置にある。少し意外だが、権威主義とは無縁なのだろう。


 彼女は、透明感あふれる白いドレスに身を包み、金の髪が優雅にたなびく。あおい瞳は清らかな光を放ち、周りには花々や輝く星々が宿っている。体は極彩色のオーラに包まれ、後光までさしている。


 何より、エレシアの容姿に見惚れて我を忘れた。僕は、そこに理想的な大人の女性像を見た。彼女は、僕が勝手に想像していた実母アリアや養母エレナの面影があり、そして僕自身にも似ているようにも感じる。

 マザコンでナルシストのような気もするが、理想の女性像は人それぞれ。しょせんは、そんなものなのではないか?


 なによりも一番印象的だったのは、彼女の額にオウムの表徴シンボルがくっきりと浮かび上がっていたことだ。僕のような薄ボケた赤ではなく、灼熱しゃくねつ色をした情熱的な赤だ。彼女の桁違いの生命力を、嫌というほど感じる。


「母さん。今、戻りました」

「ご苦労じゃった。ともかくも、生きたらむにはのう」


 いきなりの古語には面食らったものの、エレシアの声はアルトボイスで、まるで歌っているかのように豊かな響きがある。何物にも動かしがたい安定感があって、頼れる感じだ。

 

「命を救っていただき。心から感謝申し上げます」

 

「礼は無用ぞ。アストラリス宮殿は、等しく誰にも開かれたり」

「それは、恐れ入ります」


「さるほどに、其方は、とにもかくにも、ここへたどり着きき。ここへ来し雄には、此方と交はる権利あり」

「は? それは、どういう……」


「なにぞと! 其方は、此方に種付けしに来ずや?」

「雄というのは、人竜のことですよね。僕は、人間ですが……」


「人竜の多きは確かなれど、種族は縁なし。千年前にも一人、人と交はりしところぞ」

「そうですか……」


 帝国の初代皇帝の父親ということか……まさか、それも事実だったとは!

 それにしても、人竜の性的な倫理観は、人間とは全く異なるようだ。しかし、それを一概に否定し、忌避するのもいかがなものか……?


「よも、其方は此方に欲情せずといふことか?」


 どうやら、こうなってしまった以上、僕に拒否権はないようだ。そもそも、僕に、そういう欲望がないと言えば嘘になる。これは、いつかは経験にしなければならないこと。ここは、素直に彼女の慈愛に甘え、無償の愛に従うべきか。

 

「いえ! 決してそのようなことは……」


「そは重畳ちょうじょう。其方はらうのなからむにはし、此方が男にせむぞ」

「それは光栄の至りに存じます。感謝の言葉もございません」


 そして、その夜。僕は男になった。

 だが、不覚にも、僕は、エレシアに溺れた。未熟で、欲望をコントロールできなかったこともある。


 交わったことで、僕の欲望が増した。それは、あらゆる欲望に及んでいく。僕の霊力=生命エネルギーが格段に増した結果のようだ。

 その疑問をぶつけてみる。


「エレシア様。僕は、エレシア様から霊力を与えられているのですか?」

「何もわかれるまじきにはぞ。天下は、陰陽の理に支配されたり。雌は陰に雄は陽。雄の種は霊力の塊ぞ。もらへるは此方の方ぞ」


「そんなことが! しかし、それでは僕の霊力なんて、あっという間に枯れてしまうのでは?」

「其方の体は、此方に種付けするために、天より懸命に霊力を集めたるにはろう。此方と交はり通じ、その才が底上げせられしぞ」


「本当に、そんなことが?」

「其方は皇帝の血筋。人は階級とやら作り、皇帝の血の入りし上位貴族はそれどうしのほかに交はらぬ。此方が一人目の人と交はりたりより千年より上経れど、その間、すがらに近親婚続けおったわけぞ。先祖返りはあやしくはあれど、起こるべくし起こりきとひふかむと。其方の額のオウムがそのしるしぞ」


「それは、認めざるを得ませんが……」

「種付けは肉体やうに種を注ぐばかりならず。魂のつながり伴ひ、かたみの霊格高め合ふものぞ。それに、其方は此方の心ばへ濃く受け継ぎて資質ありしのう」


「そうですか……」

「並の雄は、此方の霊力に忍ばれず、一晩に去にゆく。其方は、此方の霊力によほどならはむには。其方の一物も凶悪なるにはし、此方も飽けり。ここまで多く交はりしこそ初めてなれ」


 そのまま冬に突入し、下山は難しくなった。

 皆の心配を思うと心苦しいが、下山は雪解けの時期まで待つしかあるまい。

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