その日、僕は海にいた。月のような少女との逢瀬の場所に鬼灯とともにいた。あの日の通知にはポストを見てとだけ書かれていた。予想していた文言はどこにもなかった。虚をつかれた僕は家のポストに走った、そこには一通の手紙が置いてあった。彼女がどうやって僕の家を知ったのかはわからないが僕は丁寧に糊付けされた封筒を乱雑に破って、手紙を読んだ。数えられないほどの枚数の便箋に綴られた彼女の全てを。その後、その手紙たちを燃やして、彼女の通知に会いたいですと返した。この場所を指定したのは僕だった。

「顔色が良くなったね。」

「そうかもしれません。」

「最近どう?」

「普通ですよ。あの時から何も変わっていません。」

「君はやっぱり嘘が下手だ。」

「何が言いたいんですか。」

「これ、やったの君でしょ。」

 そうして見せてきた画面には校長たちの裏垢を晒すために立ち上げたアカウント、急に流行になったバンド、いつかに貶めた女子高生のXアカウント、監視カメラの映像を晒すアカウント、自殺サイト、スキャンダルの記事、僕がやってきた罪が次々と現れた。彼女には全てお見通しだった。

「僕じゃないです。」

 僕はきっと笑顔だった。取り繕った笑みを無意識に浮かべていたのだと思う。そして、それが彼女の琴線に触れたのだと思う。

「君は私にもそんな顔をするようになったんだね。嘘が下手だよ。なんで、こんなことしたの。私が知る君はそんな覚悟ある人じゃなかった。君はどうしてそんなに変わったの。どうして、私に何も言ってくれなかったの。」

「関係ないでしょう。」

「君は何がしたいの。」

「分からないんですか。」

「分からないよ。私には何も分からないよ。」

 僕のやった事に気づいたのは確かに彼女だけだったのに、彼女にも僕が理解できないみたいだった。あんな手紙を送りつけてきた人と、同一人物だと思えなかった。誰にも理解されないらしい。この叫びもこの衝動もこの寂しさも。

 愛されなかった人が犯罪を犯すのはきっと愛されなかったから。僕が犯罪をする理由は間違いなく寂しさからだった。

「僕は、僕がいなくても回る世界を恨んだだけです。そんな世界だったから、世界が僕を無視できないようにしたかっただけです。」

「それで、君は救われたの?何かを変えられたの?世界に構って貰えるようになったの?」

 僕は彼女の問いに何も答えられなかった。僕が答えないのをいいことに彼女は続けた。

「校長の裏垢を晒すことは私とのデートより楽しかった?」

 うるさい。

「転売で稼いだ金で食べたご飯は私と食べたお昼より美味しかった?」

 うるさい。

「誰かの人生を壊すことは、私と一緒にいることより大切だった?」

 うるさい。気づいたら、僕は護身用に持ち歩くようになっていたナイフを彼女の首に当てていた。耳に聞こえる自分のモノのはずの息遣いがまるで威嚇する獣のようだった。何も知らないくせに。僕の気持ちも知らないくせに。

「ねえ、私の事好きだった?私、君にまだ好きだって言ってもらってない。」

「好きでしたよ。ずっと好きでしたよ。僕だって隣にあなたがいれば充分でしたよ。あなたが僕だけをみてくれれば充分でしたよ。」

「そっか、良かった。」

 彼女の安心したような笑いが、彼女の力の抜けた声が僕の理性という理性を飛ばした。僕はナイフを捨てて彼女を抱きしめた。骨が軋むほどに抱きしめた。彼女は困ったように笑っていたのだと思う。そして、僕の頬に手を当てて、僕の心から消えることのない鬼灯で僕にキスをした。僕は幸せだった。全ての誤解が解けて、あの頃の穏やかな気持ちが蘇ってきた。未来のことなんてどうでもよかった。罪なんてものは問題じゃなかった。彼女がいれば幸せだった。

 彼女も同じ気持ちだと思った。僕たちは罪の意識にずっと苛まれていた。やっと仲間を見つけたのだ。僕の願いは叶ったような気がした。この気持ちは愛で、求めていたものは彼女だ。僕はそれを理解できたから、彼女と共にこの人生をこれから生きていくのだと思った。

「どうして、手紙をくれたんですか。」

「君になら話してもいいと思った。裏垢に君からのいいねが来た時、私は君になら本音を話しても大丈夫だと思った。君の罪を見つけた時、きっと私たちは同じだと思った。これが理由になるかな。」

「僕はあなたの救いになれますか。」

「もう、なってるよ。」

「僕の救いもあなたです。」

「それはよかった。」

 僕は何も考えていなかった。彼女が僕に会った理由を、確かに僕は知っていたはずなのに、何も考えていなかった。あの手紙の彼女と目の前の鬼灯が一致していなかった。僕が彼女の存在で満たされたように、彼女もまた僕の存在に満たされ、死にたい理由なんて忘れただろうと思ったのだ。僕が救いになるというなら、彼女を明るい世界に連れていくヒーロになれると漠然と思っていたのだ。彼女にとっての救いはそんな、平凡で複雑なものではなかった。もっと簡単で単純な解放だった。そんなことにも気がつけない僕は、ただ、幸せな気分で満ち足りた気持ちで彼女をみていた。何も出来ない阿呆としてそこに存在していた。

「ねえ、希望ってなんだと思う?」

「今日この瞬間ですかね。」

「そうだね。ほんとに。」

 落ちていたナイフは彼女が拾った。そして彼女は笑顔のままそれを僕に持たせて、そして刺した。彼女自身の腹部に。

「な、え、なんで。」

 僕は動けなかった。咄嗟に出たありきたりな言葉によって、僕は僕自身に失望した。時間の流れが遅い。思考ができない。そう思っているうちに生暖かい何かで僕の左手が濡れていく。流れていく。彼女の一部だった何かが。溶け出していく。僕をすり抜けて、砂浜に染み込んでいく。僕のアホみたいな問いに苦痛に悶えて、息が絶え絶えになりながら、彼女は必死に答えた。

「あた、しをすくっ、てくれる、っでしょ。」

「だからって、そんな。」

「へへ。」

 笑ったであろう彼女の顔は見えない。いつかみたいな幸せそうな笑い声ではない、力の入らない引き攣った笑みを感じた。僕の触覚も嗅覚も聴覚も、手を伝う液体の滑り、鉄を含んだ匂い、彼女の呼吸音、その全てで危機を知らせているのに、僕の視覚はいまだに穏やかな夜の海岸を映し出していた。僕は嫌だった。やっと手に入れた平穏なのだ。僕の犯した罪だって、彼女がいれば許されるはずだった。彼女が犯した罪だって、僕がいれば許されるはずだ。これは許されない。こんなとこで彼女だけが死ぬなんて許されない。彼女を助けなければ。

「離れてください。まだ、間に合うでしょ。病院行きましょう。ねえ。」

「や、、だ。っふ、なん、で、慌ててんの。」

 永遠のようなひと呼吸を終えて、彼女はこう続けた。

「好きだよ、君が、ほん、とに。」

 彼女がいうはずがない言葉だった。このまま死んでしまう彼女が言ってはならない言葉だった。あの日々の中で変わってしまった僕に向けて、彼女が発していい言葉ではなかった。そんな言葉を聞いてしまったら、僕は、僕は、僕は?僕の目からは涙が溢れていた。それは僕の腕にすっぽりと収まり、しがみついている彼女の頭に落ち、そして髪を伝って、そして彼女に沁みた。

「なんか、話してよ。ねえ。」

 僕は考えるのをやめた。考えるのをやめて、しがみつく彼女に、思いついた言葉を、彼女をまだ今世にくくりつけられるほどの力を持った鎖のような言葉を投げ続けた。

「っなんで、僕の名前すら知らないでしょ。なんで。ねえ、ねえ。僕も好きだから。なんで。死なないでよ。待ってって。」

 途中から、気づけばあの日から何度も見返した、彼女から投げられた鎖を約束を、今度は僕から投げ返しはじめた。

「横浜もウユニ塩湖も行ってない。来年も遊ぼうって、ずっと一緒に帰ろうって言ったじゃん。文化祭もスポーツデイも修学旅行も二人でいるって。卒業式は第二ボタンあげるから。卒業してからも、旅行行って、お酒飲んでって話したじゃん。なんで。約束だって言ったのはそっちでしょう。」

「ごめん。」

 たった一言、はっきりと発せられたそれが、僕の投げた鎖が彼女にかすりもしなかったことを暗示していた。僕からそれ以上、彼女に対してできる足掻きはなかった。彼女はそこから無言で僕を抱きしめ続けた。ナイフが彼女により深く刺さるように抱きしめ続けた。離れようとしても、離れてくれなかった。泣き叫ぶ僕に構わず、彼女は僕にしがみつき続けた。痛みなんて感じていないのかというほど、彼女は落ち着いていた。彼女の体に力が入らなくなるまで、彼女は僕を抱きしめていた。僕の体温を感じようとしてるようだった。最後の言葉はありがとうだった。何も出来なかった僕にありがとうと確かに彼女は言った。

 冷たくなった彼女を僕は抱きしめたままだった。何も理解できなかった。喪失感だけだった。彼女の行動の何も理解できなかった。彼女はなんで僕をここに呼び出したのだろう。なんで、僕にこんなことをさせたのだろう。なんで、僕にキスをしたのだろう。なんで、僕を抱きしめたのだろう。なんでこんなにも涙が止まらないんだろう。悲しい?寂しい?悔しい?辛い?苦しい?恐ろしい?どれも合っててどれも違う。叫びたいのに、叫べなかった。出る息は全て嗚咽に変わった。

 彼女が僕にキスをした時、彼女の心は変わったのだと思ったのだ。僕の気持ちを聞いて、お互いにお互いを求めていることを知ったから。これから二人で満たし合っていけると。二人で罪の意識を分け合って、縋りあっていけると。そう思ったのは僕だけだったのだ。彼女はやっと解放されると思ったに違いない。

 僕はあの日つないだ手の体温よりもずっと冷たくなった彼女を抱きしめ続けた。体温を分け続ければ、満足そうに笑いながらからかい口調で心配した?なんて言って、鬼灯が起きるんじゃないかと期待した。地平線が明るくなっても、彼女はまだ僕の腕の中に収まっていた。

 血まみれでそこにただあった僕は朝日をみて本能的に逃げようとした。そしてやっと彼女を離して、彼女の顔をみた。笑っていた。満たされたように笑っていた。朝日に照らされた彼女は死んでいるはずなのにとても美しかった。けれど、出会ったその日に僕の記憶に鮮明に刻みついた鬼灯は昨日触れ合った鬼灯は萎んでしまっていた。僕は動けなかった。動こうと思えなかった。早朝に散歩に出たであろう人が僕をみて電話をかけてるのがみえた。救急車が来た。そこで彼女に刺さったナイフを見受けた救急隊員がまた何かを呼んでいるのがみえた。警察が来た。僕を警戒しながら歩いてくる警官を横目に見ながら、僕は美しい彼女の萎んでしまった鬼灯にキスをした。彼女は起きなかった。だから、僕は手首のブレスレットに隠していた薬を口に入れて飲み込んだ。その様子をみた警官が焦ったように僕の方に走ってくるのがスローモーションにみえた。その奥に月のような少女がこちらをみているのもみえた。僕は世界を壊せましたか。約束を守れましたか。そんなことを思った。

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