約束

 日記で埋められない分、ギターを弾きすぎて指の皮が切れた頃、また本を読むことにした。自分の本棚の本は全て三周し終えて、タイトルを読むだけで内容もそこに書かれた表現も頭に浮かぶようになったから、両親の本棚を漁った。そこで僕は先生に出会う。斜陽と書かれた背表紙には授業で聞いた事のある文豪の名前があった。文豪が書いたと言うだけでなんだか気に食わない気持ちになったからまともに読んだこともなかった。何がとは言えない。それほどに刺してくる話であった。新しかった、僕にとって、その話はその言葉は新しかった。先生の話を読みふけった。ネットでも読めることを知っていたが、僕はわざわざ家の近くの本屋に行って毎週のように先生の本を買った。救いのような気がした。孤独な僕への救いだと。先生の残したものの中には友人か誰かに宛てた手紙もいくつかあった。僕は先生の真似をして手紙を書くことにした。死者であっても、初めて人に宛てた文章を書いた。満たされた気分にもなったし、自分の心の捻れが前より解けていっているのも感じた。これを良い変化だと僕は理解した。

 読書を好まない彼女にも話していた。誰かに話したかった。この本がいいんだと、ここの表現がすごいんだと、ただ話せれば誰でもよかったのかもしれないが、話したいと思った相手は斜陽の持ち主だった両親ではなく、彼女だった。一ミリも興味が無いけれど、君が楽しそうで私も楽しいと彼女は言った。僕はその言葉に甘えてずっと喋っていた。楽しかったのだと思う。なんだか無敵な気分だったのだ。自分が舞い上がっているのも浮かれているのもわかっていたが、久しぶりに自分に生じた前向きな気分に嬉しくなった。歩きながら上を見上げるようになった。空が眩しくなかった、空を見上げる度に感じていた自己嫌悪は生じる気配もなかった。こんなにも雲は風は美しかったのかと思った。ずっとそこにあったものにいちいち感動を抱いた。僕は自分の変化を楽しんでいた。


「ねえ、今度ここ行かない?」

 彼女は新国立美術館で行われているテート美術館展についての詳細が書かれた画面を見せてきた。そこには光の芸術が溢れているという。昔の僕だったら、そんなのを見た日には一日中暗い曲を聴くことで中和しようとしていたことだろう。そして、人混みの東京なんて行きたがらなかったことだろう。けれど、そんなことはどうでも良かった。彼女が僕なんかをまた誘ってくれた。それがまた一つ僕の中で希望になった。

「いいですよ。行きましょう。行きたいです。」

「そう、今度の日曜でいい?」

「はい。」

「楽しみだなあ。」

「そうですね。」

 穏やかで楽しくて、彼女と僕の関係に名前をつけなくたって、このまま消えることなく続いていくような気がしていた。

 十時の開館に合わせて僕らは待ち合わせをした。東京を楽しく感じたのはこの時が初めてだったように思う。最寄り駅から彼女との待ち合わせの六本木駅に行くまでに見えた景色全てが輝いてみえた。冬休みの東京とは到底同じものにはみえないほどに。僕の眼はそれら全てを美しい姿で脳に投影した。

 六本木から歩く道のりで彼女とまたたわいもない話をした。彼女からは今回の展示の音声ガイドをしている俳優さんが最近キテるみたいで、映画にドラマにCMに引っ張りだこらしいこと。昨日の夜、久しぶりに中学の友達から連絡きて、恋愛相談をされたこと。相談っていっても、話聞いて欲しいだけだったらしく、てきとうに相槌してたら、結局三時間電話を繋ぐことになって、寝不足なこと。

「君とのせっかくのデートなのにな。なんで、こんなことになるんだろ。いっつもなんだよね。相談されたって、私だって正解とかわかんないのに。多分、みんなさ、話聞いて欲しいだけなんだよね。相手は私じゃなくたっていいんだよ、ね。」

 彼女は困ったような、悲しそうな、でもどこか嬉しそうに言った。その様子をみて、彼女は優しいんだろうなと思った。自分じゃなくてもいいとは思うのに突き放さないところ、三時間に及んでも適当な理由をつけて電話を切ったりしないところ、てきとうに相槌と口では言っても、彼女のことだから真面目に返して、真剣に考えていたんだろうなと思う。彼女の興味関心とは違う僕の話ですら、ちゃんと目をみて聞いてくれる。ちゃんと考えて返してくれる。

「きっと、他の人じゃダメだったんだと僕は思います。」

「そうかな。そうだったらいいな。でも、眠いや。」

 ははは、と彼女は笑いながら言った。多分、どこか腑に落ちない笑み。でも、僕の言葉を嬉しく感じているのも、事実らしかった。僕は彼女との日々の中で、彼女の表情から気持ちを読み取れるようになっていた。彼女のことを全てわかったような気になっていた。

 新国立美術館の芸術的なガラス張りの建築に二人で感激しつつ、展示室まで二人でどこだろうなんて言いながら向かって、展示室に入ってからは二人とも一言も喋ることなく芸術品に浸った。

 展示の中で僕が唯一気になったのは、例の俳優の声で紡がれた、イギリスの詩人でドラマや小説の題材にもなっている、アルジャーノンの言葉だった。

「愛はすべてのものの始まりにして終わりであり、人生は移ろうその光に従う影にすぎぬ 」

 愛が全ての根源であるとしたら、愛がわからない僕は何も生み出せないのだなと思った。光の展示の中で、なんとなく光のうちに宿る闇をこの詩に感じた。人生は光に従う影に過ぎない。つまり、偶然の副産物に過ぎないとしたら、経済も政治も医療も芸術も勉学も等しく娯楽とみなされるのだろう。現代人は娯楽に一生懸命に生きている。時に娯楽こそが生きる理由だと、生まれた意味だと語る人がいる。が、人間の必要は元来愛ある生殖行動のみだとアルジャーノンは言ったのではないかと考えた。真理めいたもののような気がする一方で、勝手気ままな押し付けがましい自論のような気もした。僕にとっての必要はなんだろうかと考えて、無意識的に彼女の顔を見た。浮かんだ考えはもう一度、目の前の芸術品に堕ちることで、忘れたふりをした。

 展示を周りきった後、計画通り、六本木ヒルズ近くの蔦屋書店に入った。人がかわるがわる入っては出ていく中、隣接された某コーヒーチェーンの一瞬の隙に空いた席を陣取った。展示の凄さに圧倒されて、そこに辿り着くまで、二人ともほぼ放心状態だった。期間限定のラテをすする彼女とカフェイン中毒になるのを恐れてコーヒーに手を出せず、ノーマルのココアをすする僕。光の芸術には光を描くに効果的な影が描かれる。明るさのみではない、視覚に訴えかける芸術。

「よかったね。」

「本当に、よかったです。」

 本当に良いものほど、言葉にするのが億劫になってしまうものだ。二人でぼうっとしながら、記憶の作品に浸る。

「ただ青い部屋、あったじゃない。そこでさ、なんか色々思い出しちゃった。」

 しばらくして、二人の意識が戻ってきて、彼女が話し始めた。

「あの部屋、家に欲しいです。色々考え事にちょうどいい。」

「何考えてたの。」

「自分のこととか、将来のこととか、あと愛のこととか。」

「『愛に導かれる巡礼者』のとこの言葉?」

「そうですね。あれはよかったです。」

「そかそか、なんだっけ、『愛はすべてのものの始まりにして、終わりであり、、、』」

「『人生は移ろうその光に従う影にすぎぬ』です。」

「君が愛かあ、面白いこともあるもんだね。」

「僕だって思春期ですよ。考えることだってあります。」

「ふふふ、そかそか。」

「そっちは何を思い出したんですか。」

「んー昔の話。昔、寂しかったな、辛かったなって話。」

 彼女の聞いて欲しいのか、欲しくないのかわからない話し方は僕の次の言葉を詰まらせた。詰まった僕の顔を見て、彼女は笑って、

「困らんで。そんなこともあったなって思っただけだよ。今は幸せだから、ね。」

と、言った。僕はまた、次の言葉に詰まった。今度は彼女も困り眉で、でもなんだか楽しそうに笑っていた。

 彼女は本が好きでは無いと思っていたが、本屋をぷらぷらと回るうちに、それは僕の間違いであることが判明した。

「本、興味ないのかと思ってました。」

「んー、読むけど、好きかと言われるとどうだろう。全部が好きなわけでもないし、君の好きな太宰治先生?は昔授業で読んだ『走れメロス』が綺麗な話すぎて、ちょこっと苦手意識あるかもって感じ。宮沢賢治とかの方が好きかも、ほら『よだかの星』とか。」

「読んだことないですけど、読んでみます。」

「なら、私も太宰先生の読もうかな。何がおすすめ?」

「世間一般で言うなら、『人間失格』じゃないですか。」

「君のおすすめを聞いてるのだけれど。」

「『斜陽』です。」

「読んでみるね。」

「感想教えてくださいね。」

「そっちこそ。」

 この日した、最初の約束だった。

 本屋を出て、駅を目指す。本屋を満喫しすぎて、すでに十五時近くになっていたので、僕たちは次の目的地に急いだ。僕たちは等しく、計画が苦手だった。

 目的地の隠れ家的なカフェは十五時のおやつの時間ということもあり、長蛇の列だった。穴蔵的な外観と人が流れ込む姿はなんとなくアンバランスで、いつの間にか笑っていた。

「こんなの、隠れ家じゃないじゃんね。」

「ほんとにそうですね。別のとこ行きますか。」

「ここにしようよ、騒がしい店内と物静かなインテリアの構図がみたい。」

「物好きですね。」

「いまさら?」

「それもそっか。」

「今、私のことディスった?」

「傷つきました?」

「んーん、なんなら君の成長に、嬉しさまで抱いてる。」

「ほんと、物好きですね。」

 こんな会話を続けながら、僕たちは列に並んで、お店に入って、ガヤガヤとうるさい中、静かな森をイメージした店内を二人で静かに笑いながら歩いて、席についた。すぐに来た店員に僕らは事前に決めていたメニューを注文した。そして、運ばれてきた名物のふわふわパンケーキと店内のアンバランスさにまたも笑った。

「また、カフェ行こうね。」

「行きましょう。」

 カフェを出る直前にしたこれが、二つ目の約束だった。そこから二人の帰路が分岐するまで、彼女は僕に約束を取り付け続けた。

「また、本屋行こうよ。」

「行きましょう。」

「映画もいこ。」

「行きましょう。」

「そだ、ギター。ちゃんとバンド組んで、ライブで弾いてる姿みせてよ。」

「まあ、バンドが組めたら。」

「そこは頑張ってよ。」

「善処します。」

「あと、また手、繋ごうよ。」

「今じゃダメですか。」

「ダメだよ。次にとっといて。」

「わかりました。ちゃんと覚えときます。」

「よろしい。あとはね、あとはね、」

 横浜行きたい、ウユニ塩湖もいいよね、来年も遊ぼう、ずっと一緒に帰ろう、文化祭も一緒に回って、スポーツデイも二人で打ち上げして、修学旅行は二人で抜け出して、卒業式は第二ボタン欲しい、卒業してからも会おう、二人で旅行行こ、オシャレなバーで飲み明かして、踊れもしないのにクラブでも行こう、真冬の海で水遊びでもして死にかけよ。成人も卒業もお酒が飲めるようになるのも、僕には遠い遠い未来のことのように思えた。それでも、彼女とそんな遠い遠い未来の約束をするのは悪いことには思えなかった。

「ね、今日の思い出、SNSにはあげないでね。二人だけの秘密。」

「こんな僕がSNSなんてやっていると思います?」

「それもそうね、始めたら?わたしとだけ繋がろうよ。」

「教えてくれるなら。」

「じゃあ、次遊ぶときに。」

「これも約束ですか。」

「そうね、約束だよ。」

「それじゃあ。電車来るので。」

「うん、最後。今日のこと忘れないでね。」

「はい。約束ですね。」

 彼女は目を丸くして、それから心底嬉しそうに笑った。彼女と手を振り合って、飛び乗った電車の窓に映った自分の顔がいつになく幸せそうな顔をしていた。彼女が驚いたのはきっとこれのせいだななんて思った。今までだったら抱いていたはずの罪悪感がこの時ばかりは湧いてこなかった。彼女との約束を必死に思い出しながら携帯のメモに羅列していく。そこに残る彼女の香りが消えないようにと願いながら。

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