彼女はある時言った。

「ね、どっか行こうよ。」

「行きたいとこでもあるんですか。」

 彼女と話すようになって、三ヶ月経っても、僕はまだ彼女に対する敬意を捨てることは出来なかった。彼女は僕と話すようになってもなお、広い交友関係を続けていた。二人で歩いている時にも学校から出るまで、最低でも遠回りするための分かれ道に差し掛かる前までに自転車に乗った人、四、五人から声をかけられるのはいつものことだった。そんな彼女が僕を誘う意味が分からなかった。誘う人なんて僕以外にいくらでもいるだろうにと思った。

「どこもないけど。強いて言うなら観たい映画がある。」

「なら、映画研究会の友達でも誘えばいいじゃないですか。」

「映画好きとか映画撮る側と観る映画ほどの地獄ってないと思う。」

「じゃあ、次に声を掛けられた友達を誘えばいいじゃないですか。」

「そういう友達はだいたい映画で寝るか、終わったあとの感想大会がうるさいから除外。」

「僕以上に映画を一緒に観に行くのに向いてない人いないと思いますけど。」

「なんで?私は君とみたいのだけど?」

 よくそんな恥ずかしい言葉を平気で吐けるものだと思う。僕は人を遊びに誘ったことはおろか、人と遊びに行ったことすらも片手で数える程しかない。エスコートなんてできない。僕は彼女が着てくるであろう洒落た服の隣に並べるような洒落た服も、せめて見劣りしないようなノーマルな服も持っていなかった。

「やっぱり、僕は行けそうにもないです。」

「理由は?」

 とっさに理由もない嘘をついた。今思えば、カッコつけたかっただけだったのかもしれない。

「まず、僕は映画の途中で訳もなく席を立ってしまうことがあります。なんか、そういう病気なんです。いたたまれなくなっちゃうことがよくあるんです。絶対映画の邪魔になります。次に僕には時間がありません。僕みたいな人間は休みの間の予習復習をサボったら最後、授業に置いていかれ、その後必ず惨めな学校生活を送ることになります。それに、休みの間にすることは前もって全部決めてるんです。今更計画を崩せません。最後に、僕は映画というものに毛ほども興味がありません。あんな妄想話に時間かけるくらいなら、英単語のひとつでも覚えた方が役に立つと思ってます。」

「今日はよく喋ったね。つまり、全部嘘だ。君は映画の途中で絶対に席を立たないし、なんなら物音ひとつ立てない。お昼を横で食べてても、君の所作すごく綺麗だもん。次に君は家で予習復習をすることは無い。だって、授業をあんなつまんなそうに聞いてる人他に見た事がないもの。どうせ、昼近くまで寝て起きてまた寝てるんでしょ。そして最後、私は君のカバンについてるそのキーホルダーを知ってる。数年前に全国で三ヶ所だけで上映された、素人作品のグッツでしょ。しかも数量限定って宣伝して、本当に五個しかなかったやつ。つまり、君は本当に映画が好きで、映画好きをファッションにしてない、一緒に観に行くのに最適すぎるほど最適な人ってこと。」

 鬼灯の唇から発せられた全ては本当すぎた。本当すぎて怖くなったのに、また彼女の存在が僕の中で大きくなった。

「本当に後悔しないなら、行ってあげてもいいですよ。」

「ほんと、素直じゃないよね。」

 彼女は笑っていた。つまらない顔してる僕の隣で、心底面白そうに笑っていた。


 彼女がみたかった映画は前評判がすこぶる悪いものだった。原作は若者ウケが妙に良くて、小説を愛している人たちにとってはストーリー性が極端に欠けた、いわば駄作らしかった。本当に駄作かどうかは僕の目で決めるから何も問題はないのだが、陽キャの彼女でもこんな鬱々しい映画を観るのかと少し意外に思った。

 待ち合わせに来た彼女はいつもの派手な雰囲気が消えた。清楚系と言うのだろうか、美しいという言葉が似合うような姿だった。その時になって僕は急に自分の心臓の鼓動を意識した。彼女が近づく度に跳ねた心がなんなのかも僕にはわからなかった。少しだけ鬱陶しいと思った。

「おはよ。眠れた?」

「おはようございます。僕は元気です。」

「なら映画までの時間付き合って。」

 彼女が指定したのは前もって買ったチケットに書かれた時間よりも三時間も早い時間だった。

「なんだって、こんな早くに呼び出したんですか。」

「きみ、モテないでしょ。」

「モテないですよ。知ってるじゃないですか。」

「じゃあ、歯が浮くようなセリフだけど、きみと長く一緒にいたかったんだよ。」

「一緒にいて何になるんですか。」

「何にもならないからかな。この何も考えなくていい時間が続くってわかってるから。ノンストレスで最高。」

「その気持ちならわからなくもないです。」

「本当に?って言っても、きみは嘘つけないもんね。」

「たまにひどい嘘ついてるじゃないですか。」

「バレバレの嘘を嘘とは言わないんだよ。」

 いつものテンポ感の会話なのに、どうしても少し息苦しい。心臓もうるさい。隣の陽キャから目が離せない。また知らない感情が増えていく。でも、不思議と怖くない。自分の不可解さについて彼女にひたすらについて行きながら考えても、一向にわかる気配がしなかった。

 最初に腹ごしらえをしようと、彼女は僕に断りも入れずにサイゼに向かった。文句を垂れる僕に彼女はシナモンフォカッチャの気分だったんだと弁明した。だから、次は僕の行きたいところに行こうと彼女は言った。僕に行きたいところなんてないからと伝えても、彼女に届くはずもなく。いつ取ってきたのかも分からない館内の地図を机の上に開いて、僕の方を見つめてきた。無言の圧力と無言の拒否の応酬でも決着がつかず、

「私に付き合うって言ったのだから、今日は私の言うことを聞くこと!」

という理不尽な彼女の一言で僕の勝利におわった。それから僕たちは三十分ほど人で溢れかえったショッピングモールをあてもなく彷徨った結果、楽器屋にたどり着いた。以前にも言ったが彼女は全くと言っていいほど音楽を知らなかった。最近の曲か、はたまた授業でやるようなクラシック音楽、例えば魔王やら月の光やらしか知らなかった。そして、僕はギターを弾くことを彼女に話していなかった。なのになぜ楽器屋に入ることになったのか。理由はシンプルだ、彼女が僕の手の爪の異質な短さと指先の異様な荒れ具合にに気づいたからである。

「ね、そんなにサイゼが嫌だった?」

「いや、そんなことじゃなくて、ただ僕がこうして誰かと歩いていると言う事実が信じられないんです。」

「私、そんなに変かな。」

「そうじゃなくて、ただ、僕は一人だから。」

「私がいるじゃない。」

「今だけじゃないですか。」

「今だけじゃないよ。」

 少し間をあけて彼女はこう続けた。

「はぐれそうだから手を繋がない?」

「何が目的ですか。」

「何も目的じゃないよ。シンプルに文面通りだよ。」

「先輩も嘘が大概下手ですね。でも、騙されてあげます。」

 そうして、僕たちは手を繋いだ。何があるわけでもなく、体温を分け合った。僕は女の子と手を繋いだ初めての経験に戸惑った。彼女は満足気とも言えるが、どこか物寂しげな表情を浮かべていた。僕にはまたわからなかった。

「軽音楽部のギターの子とおんなじ手をしてるんだけど、もしかしてギター弾ける?」

「弾けるわけないでしょう。」

「じゃあ、その手は何。」

「たまたまです。」

「楽器屋は人も少ないだろうし、とりあえず楽器屋行こうか。」

 この嘘もバレたらしかった。そうしてたどり着いた楽器屋には無数の電子ピアノとギターが無表情で並べられていた。楽器だって、作られてすぐに弾かれると思いきや、何日も何週間も運ばれたあと店頭でのんびりさせられるなんて思ってもみなかったに違いない。某アニメの主人公のカスタムレスポールが最近ネットの中古取引サービスに大量発生しているらしいというニュースをふと思い出した。売るくらいなら買うなと思う。ギターに向き合う覚悟もってから買えよと思う。けれど、こういう衝動買いの連鎖が経済を回し、世界を回しているのだと思うと仕方ない気もした。彼女の思惑通り楽器屋に向かうと自然と人口密度の低い方へと進むことになった。楽器屋には僕ら以外の客はいないようだった。僕の間の悪さがよくなったような錯覚を頭から追い払った。ギターのコーナーを眺めている所に来た店員と彼女はすぐに仲良くなったようだった。いつの間にか試奏しますかとまで言われている。

「彼がします。」

 むちゃぶりにも程があった。無理ですという勇気も僕にはなく、店員さんが丁寧に準備してくれたストラトを手にとって、簡単なコードを弾き、昨日練習したアルペジオを弾いた。少し前まで弾ける気配もしなかったFコードも、このときには簡単に押えられるようになっていた。日記を書き終わった後や休日という無駄な日に僕はエレキギターの練習をした。アンプなんて買うお金がなかったから、初めてアンプに繋げて少し歪みつつ膨張した自分の弾いたギターの音を聞いた。全然上手くなかった。まだ、もっと良くできる、もっとこうしたらとかそんなことを弾きながら考えていた。

「君はギターが好きなんだね。」

 試奏を終えたギターが片付けられていく様子をみながら、彼女がこぼした。

「そんなわけないです。」

 本心だった。手の慰みで始めただけのそれが、好きなものなわけがなかった。

「そんなことあるよ。だって君、笑ってたもん。楽しそうに。」

 初めてみた、君のそんな顔と笑ったであろう彼女の顔を僕は思い出せない。目の前が曇って、いつかの友の笑った顔がゲシュタルト崩壊していく。笑った?僕が?陽キャといる時の取り繕うことを忘れた僕が?素の僕が笑えるはずがないのに?楽しいと感じられないはずなのに?否定できたら良かった。でも、否定できるだけの反論材料を持ち合わせていなかったし、腑に落ちていた自分もいて、湧いてくる疑問で僕の未熟な頭はすぐに満席になった。

 映画の内容は頭に入らなかった。6780秒間、ずっと頭の中で反芻されたのは好きなんだねと言った彼女の声だった。

「どう思った?」

 彼女は映画終わりにすぐ聞いてきた。僕はまた、下手な嘘をついた。

「いい作品でしたね。」

 彼女は初めて僕の嘘になにも反応しなかった。本当に気がついていないのか、気付かないふりなのか、彼女なりの気遣いなのか、僕にはわからなかったが、彼女はこう答えた。

「私もそう思った。」

 その日、本屋で彼女はその作品の原作を買った。僕は恋愛小説のあらすじを片っ端から読んで、好きという気持ちを理解しようとした。どれもこれだと思うには足りなかった。そんな僕をみて彼女は言った。

「私は君のこと好きだよ。ふつうに。」

「僕にはわかりません。」

「そういうとこだよ。本当はわかってるくせにわからないように知らないようにしてるとこ。」

 僕はわからないだけとしか思えないのだが、彼女の言葉には魔法がかかっているみたいだ。彼女が言うならそんな気がしてくる。彼女の言葉が僕に沁みた。

「いいデートだったよ。ありがとね。」

「良かったです。僕も楽しかったのかもしれません。」

「そういう時こそ、嘘つけばいいのに。」

 じゃあ、電車くるからと彼女は帰って行った。僕はしばらく動けなかった。彼女はなんともないように好きという言葉をデートという言葉を私がいるという言葉を使った。さっきみた小説のあらすじに書かれていた、期待という言葉が頭から離れなかった。とうの昔に捨てた感情が戻ってきている気がした。僕はその日の日記を書かなかった。その日から三ヶ月近く僕は日記を書けなかった。僕の人生が彼女で染まってしまったからだった。全ての事柄に彼女を結び付けてしまうようになったからだった。

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