日常

 虚数i、数年前にどこかの本で読んだこの話がわかるようになった。この世に存在しない、二乗したら負になる数字。目の前でこのことを楽しそうに話している教師の姿を見て、「好き」を仕事にすることができた、成功した大人ってこんな感じなのかもしれないと思った。きっとこの人は実際に存在する数字の居場所、実軸の上に確立した居場所があるんだろうな。こんな馬鹿みたいな浮遊感を感じることもないんだろうな。楽しいってなんだろう。好きってなんだろう。僕はあと何度、好きになることに失敗すればいいんだろう。愛がわかる人間はみんな幸せそうな顔をしている気がする。隣に友達がいれば、隣に恋人がいれば、好きなことをしていれば、夢があれば、実軸に行けるのだろうか。実数の仲間入りできるのだろうか。虚数、虚ろな数、想像上の数、僕は自分のことが虚数のようだと思えて仕方がない。みんなは自分の存在がはっきりしているのだろうか。ゆらめいて、消え掛かっているのは僕だけなのだろうか。

 授業が終わる。教師に質問に行く生徒、友達のところに直行する生徒、早弁する生徒、次の授業の予習をする生徒。ただなにもせずぼうっと空を見上げている僕という存在が教室という閉鎖空間の中で異質に思えた。この瞬間も周りと違うという感覚が自分を蝕んでいるのを感じる。僕は多分この教室でただ一人だけ、たった三年しかない高校生という青春を退屈という形で謳歌していた人間だった。この学校に拘束される残り時間を、授業の声をBGMにしながらひたすら計算しているような人間だった。効率の悪い僕みたいな人間は朝も昼も夜も、学校の宿題にテストに進路に人間関係に悩まされているから、変に長期休みの日数を減らす必要もない。入学時点で一億近くあった秒数の約六分の一ほどを消費したという事実は僕を喜ばせたし、不安にさせたし、陰鬱な気分にさせた。

 元から独りだけど、周りに人間がいるという状況とその閉鎖感から逃げ出したくて、人がいない外のベンチに座って昼ごはん食べる。少し前に母親からお弁当の感想を求められて、咄嗟に冷凍食品ばっかだったと答えてしまった事件以降、必要以上に愛の込められたおかずがそこには詰まっている。それを機械的に口に運び、噛み砕き、飲み込む、次いで、米を喰む。こんな親不孝者にもあたえられる無条件の愛情を想った。空の弁当箱を手に、砂ぼこりが誰に邪魔されることなく吹き荒れている校庭をぼうっとみつめた。教室に戻る途中で、幸せそうな笑いを幾度となくをみた。今更傷つくことなんてありはしないけど、なんとなく自己嫌悪が募る。元来人間に神は希望をみせるらしい、たいていその奇跡は長続きせず、自殺願望者が自殺志望者になり、そして自殺成功者になるまでのプロセスの加速に著しい効果を見せるだけだった。一人でいることの絶望はいつの間にか一人でいることの安心になった。



 季節が一つすすんでも、僕は一人だった。学校は冬休みに入って、暇な日々を勉強か手の慰みに始めたギターで埋める毎日だった。クリスマスも新年も祝う友達がいてもいなくても変わらない。新たな環境に希望を描いていた去年は不特定多数に同じ文言を送りつけることに躍起になっていた。それと同時に不特定多数からの通知でスマホがうるさく鳴り続け、その通知音が鳴るたびに尻尾振って画面を見つめた自分のことも思い出した。人間は簡単に変わらないらしい。一年で僕がこんなにも変わったことは事実なのに、周りから見たら多分変わったように見えない、それだけで、人がいかに他人に興味ないか、他人を知らないか容易に理解できる。変わらない日々。じゃんじゃかじゃん。目標も夢もない。じゃんじゃかじゃん。この気持ちを埋めるものもない。じゃんじゃかじゃん。そもそも、この気持ちはなんだ。じゃんじゃか、じゃかじゃかじゃか。貯めたお年玉と数年分の誕生日を消費して半年前に買ったのに、いまだに弾けないFコードの代わりにGコードをひたすら掻き鳴らす。六本の弦で表すものにはきっと限界があるのに、僕はその限界にすら辿り着けない。才能なんてなかったし、仲間にも恵まれなかったし、何かと間が悪い僕はそのチャンスすらも与えられない。そんな人間が何かを極めるには何かを代償にしなくちゃいけない。僕はそれに見合う代償を払えるほどのお金も賢さも持ち合わせていなかった。僕は何者にもなれないし、何者かになる資格もない。誰かが歌っていた歌詞にも似たこの言葉が今の自分がたどり着ける最大限の解だった。



 冬の間に引きこもりの僕がさらなる社会不適合者にならないようにと行くことに決めた冬季講習は間違いだったのかもしれない。東京郊外、電車一本で都心近くまで行けてしまうような場所に住み、東京に少しも憧れを抱いておらず、人混みほど要らないものはないと思っている僕みたいな高校生には年末年始の東京はまさに行くだけで暴力そのものだった。線路に残された片足のパンプスは冷たい都会に一人放り込まれ、行き先はあっても居場所がない自分のようだった。ただでさえ片耳しか聞こえないのに、その片側すらもしきりに音の切れる有線のイヤホンと最近流行になってきてしまったバンドの音楽で耳を塞ぐ。天邪鬼らしい僕に流行は似合わない。流行するよりも先にいいものを見つけておくことはとても心地がいい。いいは好きとは違う。いいはしっくり来るとか耳に馴染むとかそういうことで、その理由は因数分解可能だ。好きは理由がないものらしい。僕には好きがわからない。でも知りたいと思う。好きになれる何かを探している。

 授業中も行き帰りの電車の中でもずっと何かを考えていた。暗記事項なんて頭に入らないぐらいに何かを考えていないと自分が崩れていきそうだった。居心地の悪い優先席の存在意義ってなんだろう。いつも曲のいいタイミングでトンネルに入って使い物にならない耳の必要性は?買ったまま置き忘れたギター弦を取りに行った時に感じた、恥ずかしいと思う感情は確実にいらない。そして何より、スーツケースの群れとか改札を挟んで手を振るふたりとか幸せな日常に包まれている人間は、こんな僕みたいな人間には眩しすぎるから、僕の目の前から消えて欲しかった。青春の幻想が毎日絶望を与えてくる。16:9の世界を持って歩いていた人間たち、最近は縦長化しているらしい19.5:9はICカード代わりにもなり始めた。なんて中途半端で、なんて立派で、なんてしょうもない進化。上っ面を書き並べた言葉で表彰台にのれて、中身なんて知りやしないのにその事実だけで褒め称えられる。それで腐った承認欲求を満たしてる。需要と供給のかなった愚かな世界の果てだ、これは。なんとも、くだらないな。逃げ出してしまいたいのに、体に流れ続ける優等生の血がそれを許さない。僕はいつも何かにがんじがらめだ、それから逃げたくて自由になりたいのに、自由を求めれば求めるほど、縛られた未来しか見えなくなっていく。絶望なんかじゃ言い表せない。この気持ちの表し方を知りたかった。ずっと、ずっと、僕は知りたかった。毎日にように出会うわからないものを一つ一つ僕に教えて欲しかった。塾の授業みたいに、ここにはこういう構造があってね、考えてもこれはわかんないよ、繰り返しの復習でわかるようになっていくから、そんな言葉で安心させて欲しかった。でも、そんな講座がこの世に存在しないところを見ると、こんなことで足を止めているのは自分だけだと痛感させられる。


 東京通い最終日、僕は知らない駅で立ち往生していた。乗るべきだった電車に乗り遅れ、何も考えずに次に来た電車に乗ったら、自分の降りるべき駅で止まらなかった。正しい電車に乗るために向かい側のホームに移動する。物事はそうそううまく行くもんじゃないけれど、ここまで間が悪い自分にはがっかりしていた。自分が嫌いだ。嫌いという感情だけはわかるのに、他のずっと心から離れない気持ちだけが見つけられない。そんな自分も心底嫌だ。回送列車は気味が悪い。地元とおんなじ名前の地名なんてどこにでもある。地下じゃないホームは寒い。次の電車が遅い。考えている、ずっと見たものを自分にどうにか消化するために考え続けている。こんなことが自分の趣味と言える唯一だった。僕はまだ幼いのかもしれない。人生を諦めるには苦労が足りてない。こんなことを考えてしまう原因すら、総武線か秋葉原か午後の紅茶にある気がする。どれもこれも愛情の一つもないただの人工物だ。

 恩人に裏切られることも、すれ違いで壊れた友情も、実らなかった両思いも、熱量が合わない仲間も、何一つとして試練たり得ないらしい。僕はどこで間違えた。僕はどこまで戻ればいい。生きているのは辛いのに、死にたくない矛盾を抱えて、僕はどこを目指せばいい。迷子だ。ずっと、わからないんだ。勉強をしてきた。友達を作ろうとした。仲間を作ろうとした。恋人を作ろうとした。家族の絆を信じようとした。自分を信じようとしたのに。

 乗る予定だった電車に乗れなかったという想像をした。過ぎていく駅のホームを見ながら、まだ僕があの場所に立って、苦悩している想像をした。そして、よくわからない土地に飛び出して、叫びながら教科書もスマホも何もかもを捨てて逃げる姿を想像した。実現なんてしない虚妄だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る