素直の対義語

霜月 偲雨

鷽が鳴く

拝啓

 初めまして。

 最初に、こんな陳腐な言葉で始まってしまったことをお許しください。ボクという器には形式ばった手紙を書く学も、季節を感じられる美しい言葉を使う才も仕舞われてはいないのです。そしてもうひとつ、貴方のことを先生と呼ぶことをどうかお許しください。僕が今までの人生で出会ったどんな教師よりも先生のことを尊び、敬いたいのです。僕の人生を最も教え導いたのは、紛れもなく先生だけだったのです。ならばなぜ、初めましてなどというのかと疑問に思うでしょうか。ボクが生まれたのは残念なことに先生が文豪と呼ばれ、世間から隔絶された孤高を築き、学を求めない学生から忌避される、そんな世界になってからでした。今、先生の作品は国語の教科書に間違いなく載っています。ゆえに誰もが一度は先生の話を読むのです。先生のことを尊敬するようになってからは、先生の作品が勝手に構造やら表現やらに分解され、理解されていくことが許しがたく思うようになったのですが、それがなければ、僕はまだ先生に出会うことも、先生をこんなにも想うこともなかったでしょうから、それはそれとして感謝しています。

 先生の物語を読むと、絶望の夢を見ることができます。自分が希望のない主人公になった気分で生きてゆく。そうしてできる現実逃避が、今の僕にとっての救いなのです。僕は先生の残したこの言葉をよく思い出します。「人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。」多くの人はこの言葉に反論するでしょうが、僕はこの言葉を聞くと、生まれ落ちた日より真似事ばかりの人生でも、この命から生まれるものが確かにあると、そう思えるのです。誰かの誘いで、何かをきっかけに、そんな言葉で出会ってきた数々のことも本当は自分の意思というものが根本にある気がしてくるのです。随分前に無から誕生していたけれど、来たる時まで隠れていただけなんだと思えるのです。それだけで、少し生きるのが楽になるのです。

 だから、届かないと知っていても、いや、知っているからこそ、先生に問いたいことがあります。先生、退屈ははたして罪であったでしょうか。この恋のような何かは罪であったでしょうか。醒めない夢は罪であったでしょうか。眠れない夜は罪であったでしょうか。忘れられない音は言葉は罪であったでしょうか。

 この世の何にも興味など湧かない、世界の何にも愛せない、この世の何からも愛されない。そんな状況があり得るとしたら、悪いのは自分を愛せないボクだったでしょうか、それともこの世界の方だったでしょうか。異形も魔法も純真な心も存在しない世界が悪かったでしょうか。答えなど、もとより存在しないのかもしれないですが、答えの代わりになり得るものすらもボクがもうすでに壊してしまったらしいのです。何もなくなった世界には、はたして意味なんてものがあったでしょうか。ボクは教えて欲しかっただけでした。愛も恋も友情も絆も、その辺の高校生が簡単に理解して消費してるそれらをボクにも教えて欲しかっただけでした。最初に出会った先生の作品にすらそれらの言葉が出てきました。ボクは先生の作品を読んでいる時、安心感を覚えます。母の腕に抱かれた赤子の頃の記憶が思い出され、先生の温もりに包まれている気すらしてくるのです。でも、それら言葉について、先生が語っている時だけ、ボクには先生がとても遠く思えてしまうのです。例えば、先生の「人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」という言葉を聞くと、どうにも理解し難い気持ちになるのです。人は何かを変えるために生まれてくる。それは理解できるのです。生物というのは生命としてはじまる時点で、雌を母に変える。場合によってはそのパートナーの雄を父に変える。成長の過程で、自分自身を変化させるのと同時に自分の中の周囲も変化させていくものでもあると思うのです。それは繰り返される革命のようだと思うのです。でも、恋だけはわからない。周囲がことあるごとに好きな人やら恋人やら騒いでいるのを見れば、人間が恋のために生れてきたと言っても過言ではないことは理屈ではわかっているのです。それでも、心で感じられない。ただ、単純にわからないのです。

 僕が先生のように愛が恋が友情が希望が何かを探して生きてゆけたなら。そして、愛のふちに溺れて死んでしまえたなら。それは何かから救われる手立てなりうるのでしょうか。いつか、愛が、恋が、友情が、希望がわかる時が来るのでしょうか。今、ボクはその時が来ることすら怖いと思っています。知らないものを知った自分が、それによって変わる周囲が、それによって自分をより嫌いになることが恐ろしくてたまらないのです。逆に言えば、その時が来たなら、僕は先生にはもう二度と手紙を書くことはないだろうと思っています。それほど人生に夢中になるのだと想像します。そうして、人を愛すのだと思います。そうしたら、幸福なんてものも理解できるようになるのだと思います。それは、期待のしすぎでしょうか。期待が出来るだけ幸せだと思うことにします。

 こんな稚拙な文章が時空を超えて届きやしないかと思ってしまうことを許してください。ボクは救いを求めているのです。先生を求めているのです。救いがない小説は売れないらしいですが、ボクには先生の書いた小説以外に救いを得られる物語に出会えた試しがありません。本屋大賞やら直木賞やらの本を読んで、素晴らしい作品だと思ったとしても救われたと思えないのです。最後のページを閉じた次の瞬間には先生のことを思い出してしまうほどに。

 先生はどうして死んでしまったのですか。生きていて欲しかったし、化けてでも出て欲しいと思っています。そうして、先生のお気に入りのバーに座り、グラスを交わして、たわいもない話がしたかったです。そうすれば何かわかると期待した訳ではありません。先生の話を聞いてみたかった。先生の言葉を声を聞いてみたかった。それだけなのです。

 作者は読者がいないと作者ではないという言葉を聞いたとき、先生は読者なんぞ居なくても作者だとボクは信じました。先生が小説を書くことがなく、現代になんの爪痕も残さず、ただ死んでいたとして、ボクが先生を知ることがなくても、先生が口で手紙で電話で紡いだ言葉はきっとステキなものだったと確信があるのです。根拠がないと笑うでしょうか。先生に笑われるならそれもまた一興だと思います。

 愛が分からないボクにとって、これはアイの手紙ではないのですが、世間一般で言ったらこれはあいのてがみに部類されるのでしょうか。世間一般なんてどうでもいいことですが、愛かどうかはボクにとって何よりも大切なことなのです。愛の定義を、そのものの価値を認め、強く惹き付けられるものだとした辞書をボクは信じられません。そんなものが愛なのなら、どうしてボクはこんなにも満たされないのでしょう。ボクは先生の作品がこの世の何よりも価値のあるものだと思っています。ボクは先生の話にどうしても惹き付けられてしまいます。参考書を買いに本屋に立ち寄った時も、いつの間にか先生の名前を探してしまうのです。先生を好きだと豪語する人を見るとまず疑ってかかって、相手を試したくなります。そうして純粋無垢な心とわかった途端、つまりは相手が本物の先生のファンだとわかった途端、汚らしい独占欲のようなものに支配されてしまうのです。先生のことをボク以上にわかってる人はいないなどとは言いません。そんなこと、議論するに値しません。これは他を含めた話ではなく。ボクの気持ちの話なのです。こんなに穢らわしく、黒くドロっとして、気持をずんと重くさせるのが全て愛で解決できたのならば、ボクはこんなに悩むことも無く、先生への愛で幸せだったに違いないのに。現実はそうでは無いのです。だから、この手紙は愛の手紙でも恋の手紙でも希望の手紙でもありません。これはただのボクの独白なのです。先生にだけ聞いて欲しい心なのです。

 同じように今後も先生に手紙を書くだろうと思いますので、間違ってもadieuとは言いますまい。だから、こうして結ぼうと思います。

 またいつか。

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