これは夢ではない(202X.6.XX)

驚愕する暇もなかった。そいつは扉の向こうからにゅるりと音もなく伸びてきて、ボスの頭をガシッと掴んだのだ。そう、そいつは人間の腕と掌のようなかたちをしていた。赤黒く濁った色の巨人の手のようなそれは、下品な蛍光灯の光のもとに晒されると、黒光りする本体に、細かい血管や筋のようなものがみっしりと走っているのが見えた。その筋が絡まり合い、ギチギチに塊となって人間の手の形を模しているような、喩えるなら、そう、人体模型の手脚だけをもぎ取って、繋ぎ合わせて人間の指に見立てて組み立てたような造形をしている。

今のうちに宣言しておくが、これは妄想じゃない。クソ野郎の上司を脳内で抹殺する憂さ晴らしの妄想、いつもの嫌がらせの一環から始まる殺戮の空想だったらどんなにいいことか。ボスは勿論得体の知れない巨大な手に頭を鷲掴みにされて無抵抗なはずはなかった。己の視界を遮る何かを取り払おうと、両手でそいつを掴んで引き剥がそうとしているようだが、如何にせん相手が巨大すぎるし、視界どころか頭の後ろまで覆われてしまっているものだからそんなに簡単にはいかない。じきにそいつはボスの頭部を握る手に力を込め、ぎゅっと押し潰した。

そいつの異様に細い、クモの足を思わせる指の隙間から、馬鹿みたいに勢いよく赤黒い液体が吹き出した。まるで噴水のように放物線を描いてピューッと噴き出すそれはカーペット敷きの床を辺り一面汚し、クリーム色が濃いワインレッドに染められていく。丁度、レモンの半切りを片手で握って搾るときのような、簡素で無駄のない気軽な動き。その間指の隙間から少しだけ覗いていたボスの苦しむ顔は自分の血に溺れるように見えなくなっていき、挽肉を手でこねるような音の合間に溺れた人間の声をサンプリングしたような音が、段々とその音量を落としていった。鈍い音を立てて、松葉杖が赤いカーペットの床に落ちる。掻き上げた前髪に、飛び散った血飛沫が飛んできて、首を振って払いながら手で触れると、指先がボスの血で薄赤く染まった。手癖で思わず卓上のティシューを取る。まるで鼻血でも出したときみたいな行動だ。年甲斐もないアンコロックの派手なパーカーの胸にプリントされた、首吊りネコが白猫から黒猫にすっかり変身した頃、ボスの身体は天井から吊るされた砂袋のようにだらしなく垂れ下がった。ボスの頭部をレモン搾りした巨大な手の、中指と人差し指の上には、まるでそういうデザインの指輪でもしているように見える大きな黒い目玉があって、ギョロギョロ動いて辺りを見回している。幸いおれとは目が合わない。そのうち搾る汁がなくなったのか、それとも飽きたのか、そいつはボスを床に打ち捨てた。打ち捨てられたボスは挽肉を詰めたビニール袋のようにぐにゃりと力なくその場に捨て置かれて、頭があったはずの場所には、腐乱したザクロのようなものがくっついているように見える。

多分、あの場にいた誰もが、目の前で何が起こったのか理解していなかっただろうと思う。今これを読んでくれている君たちもきっと多分おそらく、これだけ詳細に描写したところで、どうせ以前綴った妄想と同様のものだと思っていることだろうさ。しかしあのとき目の前で起こったことは本当で、だからこそおれも、そのほかの社員たちも目の前で起こった事実が真実だとは理解していなかったように思う。その証拠に、窓際の席から君島さんが「…………え、VRかなんか?」と呟く声が聞こえてきた。そりゃそうだ、こんなB級ホラーゲームみたいなバケモンが実在するはずもない。そう考えるのが当たり前だ。天井につくほどのクソデカクリーチャーも、目の前で頭を握り潰される会社経営者も、サイコキネシスを操る超能力者も実在するはずがない。だからこそ、今この世界線でおれはそれなりに上手く取り繕ってやっていけているとも言えるのだから。現実逃避、詭弁を弄している間に、手のバケモンはべちょべちょと血の染み出た生肉を引き摺るような音を鳴らして、ゆっくりと窓際の席へと向かっていった。どうやら次のターゲットに、君島さんと相澤を選んだらしい。尺取虫の要領でズルズル、ズルズル、ひとが歩く程度のスピードで近づいていくバケモンを前に、呑気なことを口走っていた君島さんは本能的な恐怖を感じたのか、怖い怖い怖い怖い怖い怖いと聞いたこともないほど早口で繰り返しながら相澤の陰に隠れた。椅子に座ったままの相澤は頼りない上司に盾にされるかたちとなり、待ってくださいよ何でですか? と震える声で語気を強めながらも椅子からは立ち上がらない。いや、立ち上がれないんだろう。腰を抜かしてしまって、上司を見捨てて逃げることすらできないのだ。あっという間に彼らのもとに辿り着いたバケモンは迷わず目の前の相澤を鷲掴みにして、椅子ごと押し倒す。腰抜けなりにバタバタ暴れる相澤の、コンサバな白いシフォンブラウスの腕の下と長いスカートの脚の間に指を滑り込ませ、床に叩きつける。さっきと同じような挽肉を捏ねるような音の合間に、さっきよりも少し高い溺れた人間の声が挟まったような音声が再生され、近くでデスクに寄りかかって震えていた君島さんも続けて同様に握り潰された。おれの席からは自分のデスクが邪魔になってふたりがどのような姿になったかまでは見届けられなかったが、挽肉を捏ねる音の合間に挟まったあの声は、呆気ないほど一瞬で鳴り止んだ。

手足が動かない。首から上を一ミリたりとも動かせないまま、おれはその一部始終を見届けてしまった。後ろのアパレル部の内勤の女の子が金切り声を上げたのを合図に、ほかの社員たちがガタガタと席を立ち逃げ惑い始める。事務所は一瞬で阿鼻叫喚、その騒ぎにつられたように、バケモンもずりずりと通路を這う。扉の外から伸ばされた腕は軟体動物のように関節を無視してぐねぐねと動き、椅子を倒したりボスのデスクの上に山積みにされたCDや競合誌の献本やよくわからん書類たちを叩き落とし、壁沿いに置かれたCDラックを倒し、豪勢なパイオニアのオーディオを倒し、それらを全て引き摺りながら、床にも壁にもボスや相澤や君島さんの血を擦り付けてのたくって行く。さっきまでもそうだったが、あまりにも現実離れした出来事が目の前で起こると、その現実味を適切に認識できるまで時間がかかる。バケモンのノロノロとした動きと、さっきの悍ましい凶行と、慌てふためく人間たちの間に生まれた深い深い溝のようなギャップに、おれは完全に混乱していた。穏やかなゾウのようなスピードで動くバケモンの様子は姿こそ不気味そのものだが、あまりにもスローモーすぎてさっきの残虐非道な行為と一致しない。そんなバケモンから逃げ惑い、ドアから外に出ようとして何かを見たのか顔を青くして戻ってきたり、トイレに篭城したり、地震でもないのにデスクの下に隠れて震えたりしている人間たちはまるでコントのように滑稽に思えて、しかしそんなやたら冷静な脳味噌に反して身体は一切動かなかった。もうデスクに座ったままなのはおれだけだった。向かいの席にいた派遣社員も、背中合わせに座っていたアパレル部の内勤も、帳簿合わせに来ていたバーの内勤も、おれが取り残されていることになど構いもしない。ワンマン経営者に洗脳されてる同期や先輩たちなどバケモンにレモン搾りされようがグレープフルーツ切りされようが知ったこっちゃないが、せっかくサイコキネシスが使えるのだから自分の身を守ることぐらいこの事務所にいる誰よりも容易いはずなのだ。今すぐにでもその辺のデスクやら窓サッシやらを片っ端から取り外して、あのバケモンを事務所の隅にでも追いやり、シールドのように使って取り押さえてしまえばいいだけの話だ。椅子から立てなくても、腕の筋肉だけでも動かせればできる。でもそれができない。まるで頓珍漢な夢のような空想を、血腥い空気が飽和した事務所の片隅で膨らませているだけの、妄想癖の男が出来上がってしまった。これではおれも、事務所中を逃げ回るあいつらと同様に滑稽なだけだ。まさか今頃に順応したのか? よりにもよって? 今この瞬間に? ふざけんな、こんな、〝いざというとき〟でしかない場面で全く不能になってしまうなんて、そんな無能な超能力なら要らん。

苛立ちに身を任せて指先で机を叩いた。鈍い音と共に、指先は動かせることに気づいた。試しに手首も動かしてみる。動いた。気配を消したまま、手をPCのキーボードの上に乗せた。身を守ろうだとか、攻撃をしようだとかという意思を持たない限りは、どうやら肩から下の腕だけは動かせるらしい。このときおれの脳裡に、今となっては信じられない思考が飛来した。そうだ、今のうちに原稿を仕上げよう。

それどころではない。今これを読んでいる君たちは間違いなくそう思っただろう。完全に目の前の異常事態に正常な判断力を奪われている人間のそれだ。今だって同期入社でインターン上がりのチャラい金髪が、無謀にも窓から逃げ出そうとしてガラスに血の手形をつける派目になっているっていうのに。自分が未だ無事であるということ自体が異常だと認識した方が良さそうなこの状況において、金縛りでも起こしたように何もできないおれは更に無謀な行動に出ているのだ。しかし動かなくなったチャラ金髪(入社時の自己紹介以来喋っていないので名前も忘れた)の赤い手形から目を逸らし、一世代は前の型番のぼやけたモニターを見る。余白の少なくなってきた画面で明滅するカーソルの位置を確認し、意を決してキーを叩き始めた。

さっきまで浮かばなかった適切な言い回しが次々と浮かんでくる。ライブ中にメモしたノートを見ずとも、まるで何者かに脳内をハックされ、操られているかのようにするすると書ける。一言一句など覚えているはずもないMCも、我を出しすぎず且つ美しい言葉を選びたい比喩表現も、流れるように流麗に指先から出力されていく。それどころか、キーボードさえ叩いていれば、この原稿を進めることさえしていれば、自分の身は安全だとすら思えてくるのだ。モニターを見つめる視界の周囲がだんだんと真っ白に染まってきて、それ以外何も見えなくなってくる。すべてがすりガラスの向こう側の出来事のようだ。聞こえてくる悲鳴が徐々に減って、肉をすり潰す音だけが耳の穴に流し込まれてくるが、それもディストーションをかけたように輪郭が朧気になって聞こえる。まるで薄い膜で作られた繭の中に包まれて、守られているかのような安心感。はじめこそ打鍵音を気にしてそっとタイプしていたが、じきにいつも通りの力加減に戻った。それでもバケモンの気配は半径二メートル以内には感じられない。

この感覚には、身に覚えがあった。ライブのとき、ステージに立っている間に、時々感じるものだ。特にワンマンのときや、対バンでも自分たちのファンが確実にいることがわかっているとき。そりゃライブなんてもんは安心感とはかけ離れたものではある。おわかりの通りおれは対人に恐怖があって、まあ多分対人する相手もおれに恐怖することが多かろうが、そのせいで何度ライブをしても舞台の上に立つ前には必ず緊張するものだ。しかし、なんだかきれいごとみたいだが、目の前に自分たちの音楽を求めてくれるひとたちが、不特定多数の誰かが、たとえ二、三人であったとしても存在しているということ自体が何よりも心強くて、安心できるのだ。こんな感覚、やり過ごすばかりの普段の生活のなかでは得られない。ああ明日出勤日だ憂鬱だな、そういえばミツメみたいになりたくて先週衝動買いしたワウペダルの支払いをまだしていない、もしかしたら今この瞬間に大地震が来るかもしれない、帰り道で電車が事故って死ぬかも。日々襲われる不安や徒労を、今この瞬間だけは全部考えないで済むのだ。轟音と歓声に包まれている限り。本当は、そんなはずもないのに。

フーディエのためにこのライブレポートの原稿を書いている限り、繭に守られていられる気がしていた。このままだと会社なくなっちまうな、来月の給料どころか原稿料すらもらえないかもしれんな。たとえこのレポートを書き上げたとしても会社がなくなっちまえばサイトもなくなるのだから、レポートが世に出る機会すらもないかもしれない。いや、そもそも十秒後に自分の命がどうなるかすらわからんのに、一体おれは何のために文章を書いているのだろう?

しかしそのときのおれは、そんなことも全部考えないでいられるような気がしていた。半透明な薄い繭の向こうに見える、壁やカーペットはどんどん赤黒く染まっていく。

最後の一行を終え、読み直す間もなくとりあえず上書き保存ボタンを押した。いつもの癖で、首を逸らすようにして伸びをする。さっきまで動かなかったはずの身体が、縄が解けたように動くことに気がついた。

良かった。

何が良かったのかよくわからないが、よくわからないまま安堵の声が漏れた。そのとき。

逆さまになった巨大な目玉が、ぎょろりとこちらを睨んだ。

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