締め切り前、朦朧とした夜(202X.6.XX)
週末を返上しても、満足のいく原稿は仕上がらなかった。猶予はあと五日ある。仕事の合間を無理矢理縫って進めるしかない。原稿の文字数は約二千字だが、メモしてきたものと己の記憶を照らし合わせて思うがままに書いたところでその範疇に収まるはずがない。ライブレポートってのはそもそも、その場で「何があったか」「どんな雰囲気だったか」「どんな曲が演奏されたのか」がわかればいい文化だ。寧ろ今やその場の雰囲気なんかをライターの主観で綴った文章などはあまり重視されていなくて、学生時代に毎年楽しみにしていた大型ロックフェスのレポートと写真を載せた有名音楽誌の別冊も、各出演者のセトリと写真だけが載っている写真集に成り下がってしまった。よく知らん、権威も人気もあるかどうかわからん人間の文章を読むならその辺にゴロゴロ転がっているそのミュージシャンのオタクが書いた脳直のブログ読んだ方がわかりみが深いし、公式で出されるライブ映像観た方がコスパもタイパもいいんだろう。しかしフーディエの所属レーベルは件のイベントの映像を公式では公開しないそうなので(お客に撮影は許可されてはいたが)、わかりやすく簡潔なライブレポートが求められるのだ。
自分でもギリ読めるか読めないかという趣の、ミミズがのたくったような文字が敷き詰められた百均のメモを捲りながら考える。限りなく少なかったMCは全文載せたい。冒頭の開演前のすったもんだも含めて彼の芸風ってヤツだろう。発売を控えているEPに収録予定だという、任侠映画をモチーフにした曲の前に語られたMCを思い出す。
「暴力が本当に全てを解決すると思っているのか? 誰かを言葉で殴ったら、自分も殴られる覚悟があるのか?」「私たちを救うのは暴力でも法律でもない、私たち自身の意志と思考です」
ソファに身を埋め、両手の指先を祈るように合わせて、シルクのシーツを揺らすような緩急で話す彼の姿はさながら新興宗教の教祖の演説のようだったが、そんな物騒な比喩は原稿で使えるはずもない。フーディエは小さく息を吸い込み、歌うように続けた。
「どんなに辛くても、どうか、思考を止めないで。この地獄のような世界で、一緒に踊りましょう」
あの言葉を聞いた時、脳裡を遠い記憶が過った。
その日おれたちは、ライブの打ち上げか何かのためにピザバルに集まっていた。疫病の煽りで今は閉店した、もうどこにもない下北沢のチェーン店。飲み放題の宴会プランを予約していたおれたちバンドと、対バン相手の少し先輩のインディーズバンド(彼らは確か昨年、二度目のメジャー契約に乗りきったはずだ)、そして仲のいいライブハウススタッフ数人は、ほぼ貸切のような状態で深夜十二時の閉店までどんちゃん騒ぎをしていた。
差し向かいに座った金髪の男は、鮮やかな黄色に塗られた小洒落た陶器の皿の上に盛られた黒い何かを左の指先でひとつつまむと、反対の手に握った赤いグラスの中のハイボールをぐいっと煽った。肩につかない程度の長さのボブカットの髪が、カーテンのようにやたら優雅にさらりと揺れる。グラスに入ったデカい氷を均すように、ごく自然な仕草でグラスをくるりと回す。カラン、と音を立てて隊列を変えるグラスの中の氷。そのいかにも呑み慣れていそうな所作に、酒には強いが酔う前に胃腸をやられる虚弱体質の己を呪い羨んだ。筋肉にも超能力にも胃弱は救えない。
指先につまんでいた黒い何かを口の中に放り込み、サク、と小気味良い音を鳴らして噛み砕く。リップグロスでも塗っていそうな桃色の唇。長くて白い首の中央辺りがごく、と上下に動いた。彼は隣に座っている九野ちゃんに、彼にしては珍しく熱い調子で語りかけているようだった。
「だからね、俺たちを救うのは暴力でも法律でもないの、俺たち自身の意志と思考しかないの。だからさ、無駄な争いごとは避けたいじゃない? だからさ、俺たちはさ、この地獄みたいな世界を舞台にして、できるだけ楽しく踊らないといけないの。だから、俺は楽しい音楽がやりたい」
自分で熱弁しておきながら、ちょっとクサいかなあ、などと謙遜する彼の「だから」がやたら多いお進言に、人が好く飲んだくれのドラマーは首を赤べこのように小刻みに振りながらしみじみと耳を傾け、終いには彼の肩を抱いて「さすが! おれたちのせんせいはさすがれすわ! よくわかってらっしゃる!」と最早呂律の回っていない口調で賛同した。顔色も赤べこのようになっているドラマーのひとことを合図にしたように、その一部始終に聞き耳を立てていたメンバーや対バンやスタッフの面々はワッと盛り上がった。なんとなくノリきれないおれは尻ポケットから電子タバコを取り出して口に咥える。クサいわ、イキリ散らかしおって。日頃は物静かぶっているくせに、絶妙なタイミングで存在感を示してくる目の上のたんこぶに苛立って店中のグラスでも割ってしまわないように、CBDのリキッドを塡装したニコチンタール不使用の紛い物を深呼吸がてら吸い込み、思い切り鼻から吐き出した。アメリカの菓子のような甘いイチゴの香りとメントールや、壁に貼られた『今月限定! チャレンジメニュー オニムシ(クワガタ)の幼虫の素揚げ』というおぞましい字面の貼り紙ははっきりと思い出せるのに…………そういえば、あの金髪男の名前は、どうして思い出せないのだろう?
構成が定まったからと言ってディテールまで思いつくとは限らない。好きな作家がエッセイで「書くことが決まった時点で七割方完成したも同然」というようなことを書いていたが、選ばれし者であるプロだからこそ通用する言説に違いない。持たざる者であるおれにはとにかく思考し、手を動かすことしか残されていないのだが、激務のウィークデイに入ってしまっては手を動かす時間すら大して残されていないのだ。いつも通りにニュース記事を捌きまくる合間にウィンドウの半分にワードファイルを開き、しかしそのまま一文字も追加できないままあと三十分で昼休み。締め切りまでは最長で残り十二時間になったがテッペン回るまでここにいたいとは思わない。窓際の席の営業部から、副編集長に当たる君島さんの声が聞こえてくる。
「社長、今日夜になんないと来れないって」
「どうしたんですか」すぐさま相澤の声が重なる。君島さんは、いかにも人の好さそうな、柔らかい声に困惑を隠しきれない様子で続ける。
「昨日のDJイベで足首捻挫したって。病院行ってからリモートで業務入るって言ってたけど、来週入稿じゃない? 誌面チェックとかあるから夜には顔出すってメール」
テンション上がりすぎちゃったみたい……と、苦笑いの滲んだ声。会社立ち上げ直後の一期生として入社して以降、実質編集長の役割を担ってきた四十代管理職の悲哀を感じる。イイトシしてゲストで呼ばれたDJイベントで足首捻るようなパリピの尻拭いを十年以上続けてきた男。こういうタイプにはボスは優しく、信頼を置いているのだとよく口にしている。――尤も、本人にはその優しさが優しさとして伝わっているかはわからないが。傍目には信頼しているというよりは、便利に使っている、という言い方のほうが正しく感じられる。
ともあれあの鼻につく顔を見ないで済むだけでかなり精神衛生が良い。休憩時間返上で取り組めば原稿は完成するだろう。昼休みに入ってからすぐにコンビニに昼飯を買いに出かけ、明太子のおにぎりとパサついたサンドイッチをかじりながら文字を打つ。夥しい数の文字と格闘しながら昼下がりが過ぎた頃、隣で誌面チェックを進める三上さんに、君島さんが近付いてきた。
「三上さん、今夜、時間作れる?」
仕事中の、しかもこんな入稿日ギリギリの日の忙しい編集員に声をかけてくるなんて、真面目な君島さんには珍しい行動だ。おれは気になって片耳だけつけていた無線イヤホンを外す。視界の端には、メガネのツルに隠れるように緑色のセーターの背中が映っている。撫でつけられた黒髪は神経質で、これに袖押さえのアームカバーでもつければ音楽情報サイト運営会社の営業マンというよりは地方銀行の窓口主任という趣だ。因みに正面を向いた顔もそんな感じの人物である。三上さんは、そんな真面目を絵に書いたような上司に非常に言いづらそうに、入稿日が近いのでちょっと難しいと思いますが……と前置きしたうえで、何の用なのか尋ねた。君島さんは机に片手を突いた。その所作にはなんとなく、普段のあのひとではありえないような威圧感があり、自分は蚊帳の外だというのに気管が狭まるようだった。手元にあるペットボトルのカフェラテをひとくち飲む。君島さんは、今夜アパレル部主催のDJイベが円山町の方であるんだけど、社長がメールで女の子足りないって言ってきてるんだよね、と、何故か声を顰めるようにして早口で言った。
「ちょっと可愛い格好して立ってるだけでいいから、行ってきてくれないかな? 衣装はアパレル部の子に用意させるから、着替えて行ってきてよ」
大丈夫大丈夫、立ってるだけでいいんだから。なんならお酒も飲んでいいよ、誰とも話さなくていいし。君島さんが珍しくごり押しする。派手な髪色に反して控えめな性格の三上さんは、更に断りにくそうに、しかし更に重ねて拒否の姿勢を取り始める。いや本当に今夜は時間がないので……私人前に出るのも苦手だし……。しかし君島さんもあのボスの逆鱗に触れたくないのか、いやそれ以上の嫌な雰囲気を纏った早口で、三上さんの言葉を掻き消す。
「お願い! 仕事は僕が巻き取りますから。三上さん綺麗だから問題ないよ、きっと何着ても似合うから可愛い格好して行ってきてって。一時間ぐらいで帰ってきてくれていいから! ね!」
結局三上さんは窓の外が暗くなってきた頃、アパレル部のバイトの女の子に導かれて在庫置き場へ引っ込んで行った。洋服をひと抱え持ってトイレの個室へ消えたと思うと、五分ほど経った頃には見たこともないようなタイトなレザーパンツと韓国アイドルのような胃の辺りまでしか丈のないトップスを纏い、大ぶりの真っ赤なブルゾンを羽織って上司の指示通りにイベント会場へ向かったのだった。その、気恥ずかしそうに丸められた背中には、君島さんの満足そうな眼差しと、相澤の刺すような視線が降り注がれていた。
年がら年中馬鹿の一つ覚えみたいに流れている有線放送すら流れない静寂のなか、タイピングの音だけが狭いオフィスに響いている。きっとタイマー切れで停止してしまったオーディオを弄りに行く余裕すら誰にもないのだろう。アパレル部の座席には内勤のスタッフが二、三人程しかおらず、ほとんどの社員もバイトも帰ってしまったらしい。編集部の座席には三上さんを除いた全員が座っていて、締め切り前の修羅の空気を湛えている。ほとんどの人員が誌面の編集に入ってしまっているため、夜帯のニュース運営はおれの双肩にかかっていた。
合間を縫ってなんとか原稿を進めようと試みるが、あと千字程度が上手く進まない。場面で言うならライブの後半のMCやまとめの部分。本に喩えれば最終章とあとがき、曲に喩えるならブレイクダウン後の大サビ。書き出しと並んで、ここが一番大事なところだ。ニュース五本書いたらワードファイルを開いて唸り、またニュース五本書いてはワードファイルを開いて唸るのを続けているうちに十時を回り、いよいよ脂汗をかき始めた頃にボスが事務所に顔を出した。
歪んだアルミの扉から、松葉杖をつきながらよたよたと歩いてくるや否や、ほかの社員たちの気のない挨拶に応える間もなく「え、もしかしてまだ原稿上がってない系?」と声をかけてくるボス。一番関わり合いになりたくない系なオジサンの口調で話しかけられたので、すぐに作業に戻れるよう精一杯の(困ったような)笑顔で曖昧に濁しておく。こういうとき、自分の否応なく他人を威嚇する太めの眉が心底嫌いになる。困るよォもう明日入稿なんだから、だからてめぇの説教なんて聞いてる暇なぞないのだと思いながらそんな素振りはおくびにも出さぬよう努めていると、ボスの背後に見える入口の扉が、ゆっくりと開くのが見えた。もしや三上さんが戻ってきたのか、ボスが立っているのは三上さんが不在になったおれの隣の座席の前なのでこれは好都合だと一瞬視線を送るも、しかし開いた扉の向こうは薄暗い内階段、つまり誰もいない。誰もいないはずはないのだがおかしいな、と虚ろになったおれの意識の隙間にボスの静かな罵詈が滑り込んでくる。ねえ聞いてんの源くん、早く作業に戻りなさい。あんたが呼び止めたんだろがよ、と心の中で反論したその瞬間、
扉の向こうの薄闇からデカい何かが飛び出してきて、ボスの頭を覆い隠した。
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