地下要塞のファンタスマゴリー(202X.6.XX)

紗幕のような雨が、一日中街を覆っていた。オフィスのある渋谷から井の頭線に乗り込んでも雨は上がらず、コールタールを流したような空の色は時間の感覚を失わせる。毎日犬に噛まれながら出勤しているのかと思うほど不機嫌そうな顔で社交辞令の時候の挨拶を交わして以来、ひとことも発さない相澤に導かれながら、歩き慣れているはずなのに心許ない道を歩いて今日の現場へ向かった。つい昨年、自分もバンドでワンマンをやったはずの場所に取材記者として乗り込む。美容室と煩雑な雑貨屋、なんだかよくわからない雑居ビルが乱雑に押し込まれた猥雑な細い路地には、運よく目的地を当てることができたファンたちが三十人ほどの行列を成している。それを掻き分けてハコの前まで辿り着くと、地下へと続く急な階段を、折り畳み傘を畳みながら降りた。水滴を帯びて熱気に曇ったメガネの向こうで、ハコのシンボルである小さなネオンが水彩画のように滲んで発光している。

フーディエのSNSでは、昨日から古ぼけた白黒の写真を映した画像が数枚投稿されていた。大きな土塁のような場所に人が入れる程度の穴が幾つも空けられたものや、草の生い茂った岩山に掘られた洞穴のような場所など、喩えるならば戦時中に作られた防空壕のようなものの写真ばかりだ。今朝確認した最新の投稿には画像はなく、ただひとこと、「ぜひお会いしましょう、私の憧れの場所で」とだけ綴られていた。画像がどこの場所なのか、ネットで拾ってきた写真なのかすらよくわからないが、これらが件の〝ヒント〟なのだと判断するならば、防空壕=シェルター、と読むことができる。音楽好きなら一度は耳にしたことのあるライブハウスの名前だ。おれたちのようなマイナーなロックバンドすら知っていたほどバンドが好きなフーディエなら、あのハコでライブをしてみたいと思ったことがあってもおかしくはないはず。ここに集まったファンたちもそんな推理というほどでもない予想を巡らせて、執念深くこの場所に辿り着いたということだろう。

都会の防空壕の中はまだ観客が呼び込まれておらず、メディア関係の人間だけが関係者席に通されていた。関係者席と言ってもキャパ三百にも満たないライブハウスに座席があるわけもないので、後方の機材席の周辺を取り囲むようにして比較的身なりのいい老若男女が十人ほど押し込まれている。改めて、メジャーデビューしているとはいえ名前が知られてから半年も経ってないのに、ここでライブができるというのはかなりの注目度なのだな、と感じた。とりあえず舞台が一番よく見える、機材席のすぐ隣に陣取るよう相澤に促された。相澤はレーベルの担当者にでも連絡を取っているのか、ずっと小声で電話をしている。前に抱えたカンゴールのボディバッグの中からメモ帳とボールペンを取り出しながら、薄暗い舞台の上を見やった。まだ誰も入っていないフロアを見下ろすステージの上に置かれたモノが目に入り、おれは呆気にとられる。

水槽だ。

そう、あれは多分水槽だった。古式ゆかしい真ん丸な金魚鉢のような水槽が、舞台の上に置かれていた。それも金魚を入れるようなサイズ感ではない。喩えるならば、水族館で珍しいクラゲを展示する時にでも使うような、人間ひとりはすっぽり収まりそうなサイズの水槽だ。上背は天井に取り付けられた照明にギリギリの高さだし、左右もそれに等しい。決して広い舞台ではないから、そのせいなのかほかに楽器などは置かれていなかった。水槽の表面はすりガラスでできているようで、中になにか入っているのかどうかはわからない。じきに客が呼び込まれ、ゾロゾロと階段を降りてフロアに入ってきたが、当然ながら皆真っ先にそれに目がいったようで、「アートアクアリウム?」「しょぼいスフィアじゃん、ラスベガスの」などと口々に騒ぎ始めた。

幸運な観客たちが大方入場し、開演時間をとうに数十分過ぎた。せっかく幸運だったはずの観客たちから俄に声が上がってくる。関係者席のすぐ前に陣取った、脳直で髪型をマッシュとウルフにしていそうな男子三人組が、「場所自力で見つけさせといて押すのかよ」などと言っているのが聞こえた。すると、なんの前触れもなく照明が落ち、辺りは真っ暗になる。SEもない、暗闇と静寂の中にザワザワとしたひとの声にすら既に聞こえない雑音だけが波紋のように広がった頃、スピーカーから声が聞こえた。

「皆様、いらっしゃいませ。よくぞここを探し当ててくれましたね」

芝居がかった仰々しい口調をしているが、この真綿のように物腰柔らかな声はフーディエのそれだ。主に前方のほうから、悲鳴や口笛に近い歓声が聞こえる。続けてフーディエは、少しだけ声のトーンを下げる。

「せっかく自力で見つけさせたのに、時間押すのは失礼だと仰ったそこの方?」

突然名指しされた男子たちは、おれの目の前で肩を竦めてわかりやすく震え上がった。何処かからフロアを見ているのか、フーディエはふふ、と鼻の奥を鳴らすようにして笑うと、聞こえてますよ、と失礼な観客に呼びかける。

「そのご意見もご尤も。しかし私は皆様に楽しんで頂きたくこのような場を設けましたので、これから人気の出そうな音楽家が観たい、友人、同僚、SNSのフォロワーにドヤりたい、その一心でここまでいらした方は今のうちにお帰りください。私の音楽を愛し、私を求めてくださる方のみ、残って頂けましたらと存じます」

ここでフーディエは静かに息を吸う。辺りが静けさに包まれた。おれはこのときもう、隣の煩わしい同僚の存在を忘れかけていた。

「ようこそ、地下要塞のファンタスマゴリーへ」

巻き上げられるベルベットの緞帳のような芝居がかった声に続いて、舞台の上の照明が点く。同時に、明るく照らされた磨りガラスの水槽が大きな音を立てて揺れた。

窓ガラスを両手で思い切り叩いたような音に驚いた観客の目線は、全て舞台の上に吸い込まれる。そこに置かれた巨大な水槽には 内側から黒い手形がふたつ付いていた――

違う。

水槽の内側に入っている人物が、正面のガラスに両手を突いたのだ。しかも、黒い手袋をした手で。赤い照明によって薄らと透けた水槽の中には、人物の影が見える。何処からか流れ出した、時代劇のテーマ曲のようなホーンが印象的な音楽はフーディエの最新曲、昨日MVが公開されたばかりの『花の盛り』のイントロだ。音に合わせて照明は明滅しながら、水槽の中を揺れるように淡く照らし出す。水槽の中に入った、着物のような袖の服と光をテラテラと弾くコルセットを身につけた黒装束の人物は、手を正面のガラスに突きつけたまま、腰掛けているやたら豪奢なひとりがけのソファからゆっくりと腰を浮かせるようにして、顔を正面のガラスに近づけてきた。長く伸びた前髪かと思われたそれは、顔を隠すようにしてつけられたベールのようなものだということがわかる。まるで無数の金の細い鎖でできた、簾のようなそれに覆われた顔。隙間からちら、と見えたやたら赤い厚めの唇に、あれはフーディエなのだと気付かされる。

イントロが転調した。今どきウケるJポップにはありえないほど長いイントロ。打ち込みが効いたクラブミュージック風の音に変わると同時に、水槽の中の人物も倒れ込むようにしてソファに身を預ける。その周囲には、水中花のような色とりどりの巨大な花のオブジェが、まるで彼を包む繭のように敷き詰められている。目を凝らすと、楽器も機材も置かれていない舞台の余白にも、人間の胴体程の大きさもある黒い花のオブジェが、闇に紛れるようにして無数に置かれていることに気付いた。

金の簾で覆われた顎を上げ、天を仰いだフーディエは歌い出す。昨日、公開されたばかりのMVを観てすぐに連絡を取ると、彼はこの曲のモチーフは花魁道中なのだと言っていた。一見すると華やかで浮世離れした、美しいだけの世界のように見えて、一枚皮を剥げばその中身にはグロテスクな不条理が詰め込まれている。BPM180程度の高速裏拍でヒップホップのように畳み掛けられる廓言葉のリリックには耳を疑うほどの皮肉が散りばめられていて、ひねくれた性格の逆張り邦楽好きオタクたちがこぞって集まり一晩で三万再生を突破したらしい。ハスキーだがよく通る高い声はいつもの通りだけれど、今までなら霧のように輪郭が朧気だったはずのローが、鋭く野太い響きに変わっていて驚いた。まるで、短い刃物で突き刺し、ぐるりと抉るような低い声。不織布マスクの中で己が吐いた息のせいで、メガネが曇る。

足元からぞくりと這い上がるような鳥肌に耐えながらノールックでメモを取っていると、サビに差し掛かるところで、フーディエの腕が千手観音のように増えた。

まさに〝何を言っているのかわからねえと思うが以下略〟のような現象だが、周囲のオーディエンスのざわつきもそれはそれは凄まじいものだった。千手観音というのはもののたとえで、実際には広げた二本の腕の上下にそれぞれ二本の腕が飛び出し、計六本の腕が生えてきたわけだが、それらがそれぞれ蝶の羽のように袖をひらめかせ、黒い革の手袋を着けた指先をしなやかに動かしながら歌う姿は、千手観音、という仰々しい喩えに違わないほど壮絶だった。なにあれどうなってるの? 映像? 合成? もしかして、フーディエやっぱり人間じゃないの?????? フロアに充満するハテナマークの渦。おれも正直、実物を目の前にした瞬間は足元で留まっていた鳥肌が心臓にまで走ったかと思うほどぞくっとしたが、周囲の取材人やメディア関係の玄人たちは落ち着いたものだった。それもそのはず、おれたち取材人や関係者には、今日のゲリラライブの隠れた趣旨をまとめた資料が事前に渡されていたのだ。

結論から言うと、今水槽の中でパフォーマンスしているように見えるフーディエは、今ここには存在していない。遠隔のスタジオでパフォーマンスしている彼の姿を、リアルタイムで球体の液晶画面に投影し、あたかも水槽の中に入っているかのように見せているだけだ。実際の彼はスタジオに置かれた磨りガラスの向こうで歌いながら演技をしており、その背景に貼られたスクリーンに四本の腕が投影されている。それによって千手観音状態になった彼の映像を、また磨りガラス状になった球体の液晶画面に投影することで、丸い水槽の中に彼が入ってパフォーマンスしているように見える、という仕組みらしい。パフォーマンスの最初に水槽が揺れたように見えたのも、水槽に内蔵された仕掛けによるものだという。物理も科学も上がったりで、学生時代は生物学だけで理系の赤点を回避していたおれにはさっぱりキュウリな話だが、磨りガラス越しに撮影した映像を磨りガラスに投影すると人物の輪郭がぼやけるから見る者の空間認識力を狂わせ、さも「そこにいてはいけないものがそこにいる」という現実感ある不気味さを感じさせることができるのだ……だとかなんとか。ほかにも、球体の液晶画面を作るのにはかなりの技術を要する……とか、そのために高名な教授を有名な大学から招いてなんとやら……だとか、今朝仕事用のラップトップに送られてきたPDFには小難しいハナシが小さな字で幾つも幾つも記されていた。五ページ程度の資料の最後には、フーディエの所属するサイレンレコードの社長の短いインタビューが掲載されていて、高度なテクノロジーを昔ながらのライブハウスに手軽に持ち込めることが叶えば、音楽の可能性はもっと広がるはず! 的なことを熱心に語っているような内容が綴られていた。要は老舗のライブハウスで最新の科学技術を使った金のかかった演出をもっとできればミュージシャンの表現の幅が広がるよね、みたいなプロジェクトの旗印として、フーディエの今回のゲリラライブは行われたらしい。

そういえばこの社長、ずっと前に自伝を出版してネット広告やら電車広告やらでやたらと宣伝されていなかったっけ、と思い出しライブ後にササッとググってみたが、ウィキペディアにはそのような記載はなかった。

吉良誠里きら まさと

PDF資料のインタビューと一緒に掲載された、小綺麗に撫でつけられた襟足長めの黒髪に、これといって特徴のない人畜無害そうな面相に優しげな笑みを浮かべ、オフィスで撮影したものなのか、観葉植物を背景にローゲージの黒いニット姿でろくろを回す手をして何やら語る壮年の男の近影。耳の無数のシルバーピアスだけが、元バンドマンだという彼の経歴を想起させる。明確な理由は示せないが、こういうタイプのイケオジはなんとなく信用ならん気がする。嫌いな気がする、少なくともおれは。

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