都合のいい社員(202X.6.XX)
出社早々PCの横にペットボトルのカフェラテを置いた途端、ボスが席から徐に立っておれの席に擦り寄ってきた。普段見ないほどににこやかな表情が実に不気味だ。ボスは猫なで声でおれを呼び付け、思わず立ち上がったおれが自分より少しデカいことに傷つきでもしたのか椅子に座らせ、笑顔を崩すことなく、「フーディエ、知ってるっけ?」と言った。
今やちょっと音楽的感度とやらの高い人間なら彼を知らないものなどいないと言っていいほどの知名度の彼だ、おれはやや動揺したものの、表には出さずに肯定した。するとボスは更に笑顔を見せ、とんでもないことを提案してきた。
「源くん、フーディエのライブの取材行ってくんない?」
「マジすか」「マジだよー何その言い草。僕が君に嘘ついてなんか得でもあんの?」何の得もなかろうが、おれが再注目アーティストの取材に行ったって得する人間もいなかろう。そもそもおれもミュージシャンなのだ、言わばフーディエの同業他社のようなものなのに、そんな奴に頼むか? 普通。中にはライターやらDJやらキュレーターとしても活躍しているミュージシャンもいるにはいるだろうが、おれにはそんな知名度も権威もない。しかしボスは何食わぬ顔で、「ごめんねえ、最近感染症も落ち着いてさ、ライブ増えてきたじゃん? でもこないだ使えないインターンとか全部辞めさせちゃったからさ、人手が足りないのよ。前々から依頼してた外部のライターともなんかよくわかんないけど突然連絡取れなくなっちゃって、ほかに頼めないっていうか。君、入社時ブログやってるとか言ってたじゃない。僕には面白くもなんともなかったけど結構プレビューあるみたいだから、向いてるんじゃない?」
言葉の影に、「バンドよりも」という一文が隠れて見えた気がしたが無視する。ちなみに入社面接の際の自己アピールに使ったのは、勿論これを書いているブログではなく別の場で本名で書いている音楽レビューブログだ。そもそもはHAUSNAILSを知ってもらうために始めたものだったが、確かにそっちはそこそこ人気がある。それはそれとして本当に嫌味な言い方しかできない人間だ。反論も文句も山ほどあるのが本音だが、機嫌よく「お願いできない?」なんて言ってきている今のうちに存分にご機嫌を取っておいてやった方がいいだろう。触らぬ神に祟りなし。そうやってこのタイプのジジイは、自分より弱い立場の人間を己の機嫌でコントロールするのが上手すぎる。見習った方がいいのだろうか、否、それはない(反語)。
ともあれとんでもない仕事が決まってしまった。とりあえずメンバーに相談したが、暢気な九野ちゃんは「組長は文章が上手だからねえ」とピュアすぎるリアクションだった。フッちゃんの気の毒そうな顔のカピバラのスタンプと、「本名で書かせてもらえるんならちょっとはマシなんだけどね」との尤もすぎる返信から気遣いを感じる。多分無記名か、『文:編集部』ぐらいなもんだろう。ボスは社内の自分よりも若いバンドマンを、遊びでバンドをやっている、売れる気のないクソ野郎だと思い込みたいのだ。売れるはずもないクソバンドマンの労力など、どれほど安い賃金で使い尽くしてもいいと思っているに違いない。応援してくれるなんてことも勿論一切ない(だとしたらおれがバンドでフーディエとコラボレーションする程度の知り合いであることぐらいは知っていてもおかしくはないはずだ)。バンドマン以外の社員に対してもその態度なのだから、いわんやバンドマンをや、だ。こんな奴が普段は未来あるミュージシャンを応援するため! とか言ってDJイベント主催してるんだから、ダブスタも甚だしい。
『地下要塞のファンタスマゴリー』と名付けられたフーディエのゲリラライブは、来週の水曜日に下北沢で一番古い老舗ライブハウスで行われるという。場所は公式アカウントからは「都内某所」とだけ明かされており、ファンは彼がSNSで投稿する写真や暗号のようなメッセージをヒントに場所を特定し、開演時間までに到着することを目指すというものだった。その週末、言いようのない不安感を月の満ち欠けのせいにしながら、とりあえず知らせておかないといけないだろうとフーディエ本人と再びリモートを繋いだ。多分マネージャーとかから知らせは行っているだろうが、だったら余計おれがだんまりではマナー違反だ。曲がりなりにも友人なのだから、自分の口から伝えておきたい。フーディエが都合がいいと言った夜十一時に布団の上で通話を繋ぐと、スマホの小さな画面の向こうでフーディエはジェラピケらしきふわふわの部屋着姿でニコニコと手を振っていた。風呂上がりらしく、頬と唇が薄化粧したように赤くなっていて、思わず一旦目を逸らしてしまった。
取材のことを伝えると、彼は声をワントーン明るくして喜んだ。今日は飲む気なかったんだけど開けちゃおうかな、と、本当か冗談かよくわからないことを言いながら手元のデスクに置いていたらしい缶チューハイのプルタブを起こす。背景に壁のように書籍が敷き詰められた本棚が映り込んでいる。朗らかに笑う彼の様子に喜びを感じながらも、胸の奥で渦巻く感情からも目は逸らせなかった。最近の制作はどうなっているだとかあのミュージシャンの新曲がすごかっただとかとよしなしごとを交わしつつ、サイドテーブル代わりに積み上げた雑誌の上に置いていた発泡酒は水のように減っていく。緩んでいく緊張感とともに、言葉が堰を切ったように溢れ出した。なるべく重い空気にならないよう、なるべくおどけた調子で。自分の名前も出ない記事書かされるなんて、ちょっと悔しいんだよな。おれもフーディエと同じバンドマンなのに。不公平だと思っちゃうよな、やっぱりうちのボスはおれをミュージシャンとして尊重する気はないみたいみたいだ。するとフーディエは酒を置いて、神妙な面持ちになった。気まずそうに目を逸らし、八重歯が下唇に刺さる。
「そうだよね……確かに、不公平だよね。私は普通に源くんが来てくれるの嬉しかったけど、無神経だったね、ごめん」
なるべく軽薄を装ったはずだったのに、謝罪を引き出してしまった。そんな気は全く――と言いきってしまうには罪悪感を覚えるが、想定外の出来事だったのでおれは狼狽える。そもそもフーディエは何も悪くないのだ、悪いのはライターとしてはバンドマンとしての知名度以上に無名なはずのおれが駆り出されるきっかけになった音信不通のライターと、嫌味な弊社社長だけだ。フーディエは悪くない、フーディエのライブに行けること自体はおれは純粋に嬉しいよ、特権やんな! と笑って誤魔化したが時既に遅し。生真面目な彼は首をぶんぶん振って、やっぱり私は源くんとミュージシャン同士として仕事したい、と言った。
こちらが照れ臭くなるほどの言葉に彼自身も照れたのか、直後「今回はしょうがないけど、もうあの会社の仕事受けるのやめよっかなあ。だってあの社長パワハラ臭しない?」と笑いながら気持ちのいいことを言い出した。こないだ事務所でインタビュー初めて受けたときライターさんと一緒にあの社長も来たんだけどさ、ライターさんのことチャン付けで呼んでんの。私あーいうタイプのオジサン苦手なんだよねえ。人気ミュージシャンの発言とは思えん歯におべべを着せない言い様に思わず笑い転げたおれは、背中を預けたビーズクッションに埋もれながら彼の目元を覆い隠す長い前髪にふと目が止まる。それは普段外で会う時と同じようにサラサラに整えられていて、もうこれから眠るだけだろうにわざわざ櫛を入れたのかと思うと、なんだか嬉しくなってしまった。おれはといえば今日は一日部屋で制作をしたり掃除をしたりして過ごしていたというのに、目付きだけでなく血色も優れない我が顔面にBBクリームを塗りたくり、この時間のためだけにいそいそと身嗜みを整えていたのだった。
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