バレた!(202X.6.XX)
週末のライブの打ち上げを抜け出して渋谷へ向かう。対バン相手の知り合いのバンドメンバーやスタッフと挨拶程度に駄弁ってからメンバーに声をかけ、ガラが悪くて馬の合わない店長には顔を合わせないように午後九時には井の頭線に乗り込んだ。待ち合わせはタワレコの前、雨上がりの湿った雑踏を掻き分けて向かうと、彼は傾斜したハチ公擬き像の前で、既に退屈そうに人の群れを眺めていた。
挨拶もそこそこに、デビューの件をどうして教えてくれなかったのだ、と冗談めかして単刀直入に言うと、彼は「だって照れ臭かったんだもん」とはにかんだ。
「水臭いやないの」「いいじゃない、デビューしたからって直ちになにか変わるわけじゃないんだし。SUPER BEAVERもマカロニえんぴつもインディーの頃からメジャーに負けないぐらい人気あったよ? それに比べたら私なんてまだまだ」駅から流れてくる数の方が多い人波に逆らいながら歩く。おどけついでに拗ねて見せると、彼は屁とも思わんといったような様子で論点の微妙にズレた返答を返してきた。ピンクのパッチワーク柄の大ぶりなパーカのポケットに両手を突っ込んで、黒いレザーのバケットハットのつばの下から上目遣いにこちらを見ると、「源くんたちと私はこれからも友達。デビューしたとかしてないとか、関係ないでしょ」と目を細める。今日はグレーの不織布のマスクで顔を半分隠している。じめつく梅雨の夜風に、下まぶたがうっすらと上気していた。こんな言葉ひとつでも、格の違いを見せられたような気がしてきてしまう。歯切れの悪いまま、おめでとう、と口にすると、彼はありがとう、と返した後、「源くんって、ツンデレって言われることない?」と素っ頓狂なことを言って鈴を転がしたような笑い声を上げた。
この日フーディエは渋谷の音楽系の出版社で取材を受けたそうで、その予定に合わせて待ち合わせ場所を決めた。生まれて初めてのインタビュイー体験の土産話を聞きながら、センター街のロフトの脇の路地に入る。渋谷でこんな時間に長居しても問題がなく、ちょっと小洒落た店と言えば宇田川カフェぐらいしかない。ほんのりと間接照明の灯りが漏れるガラス張りの外郭の建物に入り、同業者のにおいのプンプンする金髪のウェイターに導かれて二階のソファ席に就いた。別にその辺の居酒屋でも良かったのだが、渋谷でライブ終わりに行きつけにしていた深夜営業のチェーン居酒屋は円安の煽りなのか疫病のせいなのか閉店してしまったし、なによりおれのちっぽけなプライドが許さなかった。たまには見栄を張りたい。階段を背にした長いソファにフーディエを座らせ、自分は向かいのひとり掛けに腰掛ける。フーディエは壁一面に飾られたサボテンのような何かの写真が物珍しいのか、横目で見ながらうわの空でメニューを眺め、おれが看板メニューのキーマカレーとハイネケンを頼むと自分も同じものを注文したかと思いきや、ウェイターの去り際に慌てて小エビのココナッツミルクカレーに変更していた。
いつも夜になると灯りが落とされ、少ない間接照明とテーブルに置かれたキャンドルだけになる店内には、ふたつ隣の席で熱心に意見を戦わせている業界人風の男性三人組以外には数組のカップルしかいなかった。有線で流れる少しだけマニアックな邦楽ロックをBGMに、おれは今朝も聴いてきた彼のメジャーデビュー曲をありったけの語彙と知識を総動員して賞賛した。彼は手酌で注いだビールのせいかほっぺたを赤くしながらはにかみ、わかるようでわからないDTMの知識を用いながら、トラックメイキングの苦労や歌録りのときに気をつけたことなどを話して聞かせてくれて、なんとデモ音源まで聴かせてくれた。客が少ないのをいいことにごく小さな音量でスマホから流されたすべて打ち込みのトラックは、やや平板な印象ではあるが完成品とほとんど遜色がない。何も変わらないと言ったが、メジャーデビューが決まって嬉しくはなかったのか、と聞くと、嬉しいに決まってるでしょ、と笑ってスプーンいっぱいのカレーを頬張る。のんびりと咀嚼しながら、一番嬉しいのはライブができることかな、と言った。
「ライブハウスでライブできるのが一番嬉しいかな! ひとりでもそういう手配とかが得意で、何度もライブしてる若いミュージシャンとかも沢山いるけど、私はそういうの苦手だからこのままだったら一生無理だったかもしれないし。でも私はその分みんなより出遅れてるから、レーベルのひとたちが作ってくれた機会を無駄にしないようにしないといけないな、と思ってる」
たっぷりのグリーンピースとスパイスの効いたキーマカレーを噛み締めながら、おれは内心猛省していた。ライブもしたことのない同い歳に先を越された、と悔しがっていた己の器の、なんと小さいこと! 彼は自分の場数が少ないことを十二分に自覚していて、周囲のミュージシャンとの差を埋めようと努力もしているのだ。
数カ月前にバンドをやめたベースボーカルは、おれたちはただツイてないだけだとよく言っていたが、実際そんなことはないだろう。自分に実力があると大した根拠もなく確信し、慢心してしまった時点で、あいつは……いや、おれたちは彼に追いつけない。なんだか、彼の前に座って我が物顔でカレー食ってるだけで恥ずかしい気がしてきた。一緒に曲も作った仲だが、今となっては対バンの申し込みすらきっと一筋縄ではいかないだろう。彼の今まで通りの自然体な振る舞いが、余計に鯱張ったおれ自身の不甲斐なさを際立たせる。きっともう、今に気安く仲間だなんて言えなくなるのだ。脂汗と熱くなる頬をカレーのスパイスと酒で誤魔化す。穴があったら入りたい、とは正に今使うべき慣用句だ。いや、もういっそこのまま椅子ごと床にめり込んでしまいたい……。
そう思った瞬間、身体が少しだけ沈み込むような感覚があった。
勢いよく煽ってテーブルに置こうとしていたグラスはまだ置ききれず、卓の表面とは正味五センチほど離れていたはずだが、自分の意思に反して急に狭まった距離にグラス自身が驚いたように、ガシャン、と激しい音を立てて卓に叩きつけられた。その音に驚いて、カレーに夢中だったフーディエが顔を上げる。幸いグラスは割れていないが、まるで怒って卓にグラスを叩きつけたようになってしまった。弁明をしないといけない、と内心思ってはいたが、口がすぐに動かない。何故ならこの状況自体がおれにとっては異常事態だからだ。喩えるなら……寝起きの血圧が地の底を這っているタイミングで無理矢理布団から立ち上がって、身体がコントロールを失いガクン、と下に落ちるような眩暈を覚えたときに近い感覚だった。座ったままそんな感覚を覚えるだなんて、おれもヤキが回ったな、と思いながら何気なく座り直そうと椅子を動か……したが、まるで固定されたように動かない。はて、この店は固定式のソファだっただろうかとフーディエの驚いた表情にとりあえずヘラリと笑顔でごまかして極力さりげなく椅子の脚を確認すると、なんと、床にめり込んでいた。
椅子の脚の先が、見事に床にめりこんでいる。まるでもともとそこに、椅子の脚の先が丁度ハマるようなへこみがあったかのようにシンデレラフィットした椅子は、そのためにどんなにガタガタ動かそうとしても動かない。一度立ち上がり、椅子自体を持ちあげて平らな床に移動させない限り動かすことはできないだろう。
なるべく平静を装ったつもりだったが、やはり様子がおかしかったのか、フーディエがおれの視線を追って椅子の異常に気付いてしまった。「え、元々そこへこんでた?」身体をソファから斜めに乗り出して椅子の脚先を示すフーディエに、おれは思わず吃りながら、ああ、凹んでた、と、当然そんなはずもないことを返す。いくらフーディエがひとが好いからと言って、そんな返答で納得するはずもない。ネットで人気の漫画に出てくる可愛いねこのキャラクターのようなゆるい調子でエ~ッ? と失笑したフーディエは、「そんないい具合に椅子の脚全部収まる場所にへこみできるかなあ」と小首を傾げ、更に近づいて床の状態を見ようと身を乗り出す。来るな来るな! カレーが冷めるやろ。おれは更にどうしようもない詭弁を重ねる。
「そんならあれや、あの、おれが座る前に力士でも座ったんやない? で、店員にバレないようにそっと帰った……せや、そうに違いない」
「お相撲さんが全力で体重かけて座っても流石にそこまでへこまないでしょ」それはそう。おれの笑顔が強ばるのに気づいているのかいないのか、まるで無邪気な子供が大人を困らせて面白がるような調子で、フーディエは続ける。「わかった、手品だ!」
正直、ナイスパス! と思った。本気でそう思ってくれたのならその口車に乗ろうやないか。ここは怯んだら終わりだと感じたおれは一瞬にして全力でテンションを爆上げし、あ、そうそう! バレたか〜! とクソデカボイスで突然特技の手品を披露した変人を演じる。
「前もってここの店員さんに言ってな、床材に柔らかいクッション仕込んどいてもろたんや。ビックリするかな〜と思て! ビックリした?」
「すごい! ビックリした! 床もリアルだし、タイミングも完璧だった! 特技なの?」
「そ、そう、特技特技」人生の中で手品なんて一度たりとも披露したことがない。学生時代の文化祭だってバンド始めるまで積極的に出し物に参加したことなんてないし、職場の親睦会やら忘年会やらなんて尚更だ。笑ってごまかして別の話題へ自然と移行するつもりだったが、しかしフーディエは思いのほか手強かった。
「ねえ、じゃあ元に戻してみせて」
は?
さっきまでの無邪気な好奇心を詰め込んだようなキラキラの瞳のまま、フーディエはわけのわからんことを言い出す。
「手品なら、元通りに戻せるでしょう? ほら、クッションなら椅子を持ち上げれば戻るはずだし……」
「え、ま、まあそうなるけども、」
全身から「ワクワク」という感じの空気を出したフーディエは、そのまま放っておいたらおれをソファから引きずり降ろして手品のタネ明かしをし始めそうな趣だ。何か言わないとペースに乗せられそうだと口を開いたがおれは一体何を反論しようとしたのだろう。確かに手品ならその場ですぐに元に戻せるはずなのだ。どれもこれも、おれが「床にめり込んで消えたい」などと考えたせいだ。寧ろこのまま更に念じれば更に床にめり込んで、遂にこの地獄のような現状から消えることができるかもしれない。いやいやその先はただの建物の一階だ。突如二階から一階へへまろび出て天井から落ちてくる、ギャグマンガみたいな奴でしかない。しかしそこまでの大事故になってしまえば、流石に手品説は霧散してこの異常事態をごまかしきることができるかも、ほら、床が劣化してたとかなんとかによる事故とかで……。
夥しい情報量の思考が一瞬にして脳内を駆け巡った直後、フーディエはニコッと微笑んで卓に頬杖をつき、おれの顔の方に身を乗り出して囁くように言った。
「戻せないんだ。やっぱり、超能力……?」
時が止まった心地がした。生きた心地がしない。全く予想していない切り返しにあいまいに首を捻る程度の反応しか返せないでいると、フーディエはやおら傍らのリュックから派手なピンクと紫のツートンカラーのカバーをつけたスマホを取り出し、何度か操作したかと思うときちんと画面の天地をこちらに向けて差し出してくる。そこにはとあるブログサービスのアプリの画面が表示されており、そこに綴られた匿名のブログの文面に愕然とした。
そこに表示されていたのは、今まで君たちが読んでくれている、この文章を掲載しているブログの冒頭の文面だった。
とんでもないドッキリにかけられたような気分で三度ほど画面を見直し、エッ、と情けない声を何度か出してしまう。この場は完全に匿名で、バンドメンバーもそのほかの登場人物もすべて〝(仮名)〟だったはずなのだ。絶対に誰にも気づかれるはずがない。そうたかをくくって吐きまくった毒や、業界の裏事情というほどでもない愚痴だってあるというのに。しかもしらを切ろうとすれば切り通せたはずのところ、こんなわかりやすい反応を示してしまってはもう完全にバレバレだ。画面と交互に見直した目の前の未来の人気歌手の顔は、憎からず思っているクラスメイトとの間に秘めごとができてしまった少女のような笑みを浮かべて、おれの顔をじっと見つめている。フーディエは先月たまたまインターネットで弊ブログを発見したそうで、当初は純粋にフィクションとして面白がって読んでいたそうだが、読み進める毎にこの書き手はもしかして……と疑念を抱くようになっていたのだという。おれが否定も肯定もせず、ただただ驚きを隠せない顔のまま固まっていると、フーディエは何かを勝手に察知したのか、スマホを仕舞うとゆったりと口角を上げて笑った。そういえば、マスクを外したフーディエをこんなに長い時間見ていたことはなかった気がする。唇が、意外と厚いことに気づく。カフェの薄暗い照明の暖色を反射して、鈍色に光る長く厚い前髪の奥でふたつの瞳が、暗闇の中の猫の目のように更に強く光った。
「どこまでが空想の話で、どこからが事実なのかまでは私は聞かない。そんな野暮じゃないもん。今見たことも勿論誰にも言わない。源くんと、私だけの秘密ね」
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