天国から地獄へ(202X.6.XX)

ギフトのことをひた隠しにしなければならないこと以外、おれの日常に起こった変化は取り立ててなかった。寧ろ得したことの方が多いかもしれない。今までおれの人生における最大のハンデであったはずのギフトだって、自分自身でそれなりにコントロールできる今となっては、便利なものなのかもしれないとすら思う。ギフト持ちは医療機関で診断書を発行してもらうことでいろいろな行政の補助を受けることも可能なわけだが、我が家はそのような補助を受けることもしていなかったので、ギフトという「概念が存在しない」世界になった今も、今までと大した変化は本当にない。ただ、誰にも怪しまれずに嫌いな上司の飲み物に虫を混入したり、誰にも怪しまれずに嫌いな上司の服の中に虫を混入させたり、誰にも怪しまれずに嫌いな上司のスリッパの中に虫を混入させたりといった憂さ晴らしができるという点では、得の方が多いのだ。おれはこの変化によって、日常的に害虫に悩まされるボロマンションである自宅への感謝も生まれて初めて抱くことができた。些細な変化だがこれがおれの精神状態へ与える影響は大きく、長らく悩まされてきた例の強迫症状が少しだけ緩和されたほどだった。

一応説明しておくが、生まれつきギフトを持って生まれたというのに行政サービスを受けたことがない原因は、おれ自身ではなく母親にある。吹田の高級住宅地で生まれ育ったお嬢であるオカンは、他人から施しを受けるのが苦手だ。父親が家を出ていってひとり親になったときだって、ばあちゃんに我が子の将来のためだと必死の説得を受けてやっと役所に相談に行ったほどの意地っ張りである。それだけでなく、父親が自分自身と息子のギフトのせいで家を出ていったこともあり、こんなものに屈してなるものかというような捻くれた意地を育んでしまったのだろう。まったく、おれの性格が捻くれているのは母親譲りなのかもしれない。現在の母親は自宅にある家電をやたらと壊す悪癖のある主婦として普通に生活している。今の住居に引っ越してきたばかりの十年前、ひと月の間に電子レンジを三回も壊して修理を頼んだので、近所の電気屋の三代目とすっかり仲良くなってしまったらしい。

おれの強迫症状が緩和された理由はもうひとつある。フーディエとの共作曲が、遂に完成した。フーディエと親睦を深めつつ、制作には二ヶ月を有したが、かなり濃厚な二ヶ月だった。配信シングルとしてリリースしたその曲のタイトルは『狡猾』。作詞をフーディエ、作曲をおれが担当した。制作を開始する前の話し合いで一応フーディエの意見を聞くと、曲は好きにやってくれて構わない、と言った。HAUSNAILSの曲に合わせて歌いたいのだと言うフーディエの意見を受け、仮初のメインコンポーザーであるおれはフーディエをイメージした曲を作った。現状まだ配信EPを一枚、シングルを数曲しかリリースしていない彼――と便宜上表記しておく――の作風を捉えるのは、参照すべき過去作が少ない分物理的には簡単だったが、本質に迫るのは難しかった。出会ったばかりの相手、しかも活動し始めたばかりのミュージシャンの本質など到底捉えられるはずもないし、普段DTMの類は一切使わず、ギターとエレピで作曲をしているおれでは、打ち込みでのトラックメイキングを得意とするフーディエとは真逆のタイプだ。しかし好きにやってくれとのお達し。これは相手を信じて突っ走るしかないぜと、80年代の歌謡曲を意識したギターロックのトラックを作った。BPMは100程度。程よく疾走感のある、短調で憂いのあるメロディ。いつもバンドで曲を作るときのように、完成品のイメージがしやすいよう参考にした既存の楽曲を数曲提示しながらデモを送ると、数日でフーディエから歌詞の試作品が届いた。完璧だった。真夜中の自室で感動に打ち震えた。ほかのメンバーも同様だったようで、朝起きてメッセージアプリのトークルームを見ると、九野ちゃんから拍手喝采する様々なゆるキャラのスタンプが大量に届いていた。レコーディングの日に詳しく聞くと、フーディエは「空想の中のロックバンドのイメージをテーマにして書いた」と言っていた。運命的な出会いを果たした恋人に裏切られ、それでも相手を切り捨てられない女性の目線で描かれた、夜明けを迎える遊園地の情景。サビの「狡猾な玩具」というフレーズが印象的だったから、元々無題だった曲におれが『狡猾』とタイトルをつけた。後に談笑していて知ったことだが、フーディエはイエモンと椿屋四重奏が好きだという。その二組のチョイスになんだか懐かしさを覚えたような気がしたが、まあおれも好きで、少なからず影響を受けたミュージシャンであることに変わりはなかったのであまり気にしなかった。

曲はそこそこウケて、九野ちゃんの知り合いの映像作家が作ってくれたアニメーションのオーディオムービーの再生数は、一週間で一万を超えた。おれたちとしてはかなりのスマッシュヒットだったし、フーディエも喜んでいた。再生数の増加と共に再びライブの機会も増え、フッちゃんがバイトをしている茶沢通りの小さなハコに限らず、向こう二ヶ月の週末には下北沢、渋谷近辺の対バンイベントや昼間のフロアライブの予定が満遍なく入った。心強すぎる助っ人の力を借りることにより、我々HAUSNAILSは晴れて今まで通りのライブバンドとしての生活を取り戻したのだった!

しかし、事態が一変したのは『狡猾』をリリースしてひと月ほど経ったある平日だった。いや、もしかしたらおれがただ気がついていなかっただけで、もっと、ずっと前から水面下で変容は起こっていたのかもしれない。そしてその変容は、助っ人が心強すぎたがために起こってしまったのだった。

おれたちの密かな快進撃すらも届かないメールボックスを開いたとある月曜日、ペットボトルのカフェオレで無理矢理目を開けたおれの網膜にとんでもない文字列が飛び込んできた。社長席から流れてくるJ-waveが一瞬遠のいて聞こえる。そこには、見覚えのあるミュージシャンの名前が書かれていた。

「ハイブリッドアーティスト・Hudie デビューEP『ホワイダニット』配信リリースのお知らせ」

漫画のように目を擦り、コントのように三度見ぐらいした。本文にはご丁寧に、読みづらいローマ字綴りのアーティスト名にカッコ付きでルビまで振ってあった。カッコの中には、案の定、「フーディエ」と書いてあった。心臓の早鐘を抑えて本文を読む。新人アーティストのデビュー報告プレスリリースの定型文に嵌め込まれたその文章には、あのフーディエがファーストEPを配信でリリースするらしいというようなことが、ごくシンプルな文章で綴られていた。それもそうだ、彼(仮)は自分の素性も本名も明かしておらず、それを売りにすらしているのだからプロフィールに書ける内容も自ずと限られてくる。いやそんなことはいい、そんなことはどうでもええ、今注目すべきなのは、フーディエの名前が冠されたプレスリリースが届いたという事実そのもの、そして、このプレスリリースがサイレンレコードから届いたものである、ということだ。

おれが勤めているような、いわゆる報道機関と呼ばれる組織にプレスリリースが届くのは、基本的にどこかしらの芸能事務所やメジャーレーベルに所属しているミュージシャンだけだ。メジャーレーベルの多くはこれから人気が出るであろうインディーズアーティストの確保に勤しんでおり、あわよくば自分の会社の商品として大々的に売り出したいと思っている。そのために新人スカウトやA&Rという仕事があるわけだけれど、大々的に売り出すにしてもある程度話題性が伴う方が売り出しやすいに決まっている。そのため、言わば人気の〝芽〟が生えてきつつあるインディーズミュージシャンのバックアップを行い、頃合いのいいところでメジャーリリースさせる、という方法を取ることがあるのだ。だから最近このインディーズバンド人気あるな〜と思っていると、そのバンドのプレスリリースが超メジャーレーベルから届いたりする。しかしこの段階ではまだメジャーデビューしたというわけではなく、世間的にはインディーズアーティストのままなのだ。

プレスリリースの本文を読むと、末尾に赤字で「※デビュー前アーティストのため、『サイレンレコード』の名称はニュース本文には記載されないようご配慮ください」と書かれていた。フーディエもどうやらまだインディーズ扱いのようだが、なるほど、宣伝や音源の制作にサイレンレコードが携わることになったようである。サイレンレコードはここ数年で一気に頭角を現してきた音楽レーベルで、エンタメ事業からオーディオ販売、イベント運営まで手がける大手のレコード会社を母体に持ち、所属アーティストは有名どころだらけ。今季の覇権アニメすべての主題歌はサイレンレコード所属アーティストによるものだし、昨年末の大型音楽特番の出演者の半数はサイレンレコード所属だ。まさかそんな大手に所属するとは思わず目を疑ったが、よく思い出せばその前兆はもともとあったかもしれない。初めて会った頃、フーディエは顔を隠した音楽活動をするきっかけについて、「なんかインスタで弾き語り動画上げてたら変なおじさんからDMもらって」と話していた。その「おじさん」は音楽事務所の偉いひとらしいとも言っていたし、もしかして、その「おじさん」ってサイレンレコードの社長だったんじゃないか?

サイレンレコードの社長、吉良誠里きら まさと――こいつは最近よくSNSの広告で見かける自伝本の著者だ。ほら、以前ここでおれがどうにも好きにはなれないと書いた、あの黒髪センター分けピアスバチバチ若おじさん。サイコキネシス系のギフトを持ち、子供の頃大層苦労したということを隠しもせず、小器用に武器にしてワイドショーなんかにも出てくるいけ好かないあの元バンドマンの実業家だ。ギフト(という概念)の存在しないこの世界線でも、ヤツはどうやら成功者らしい。よりによって、あいつがフーディエに目をつけていただなんて……完全に個人的な好き嫌いに左右されており情けないが、なんだか嫌な気分だった。しかし、サイレンレコードのバックアップがつけば確実にフーディエは売れるだろう。おれたちバンドとフーディエは曲の制作が終わってからもそれなりの付き合いが続いていた。同世代の仲間が活躍するのは嬉しいし、彼の音楽は売れるだけの価値があるに違いない。その事実自体は喜ばしいことだが……モニタを覗き込んだまま食い入るようにプレスリリースの文面を何度も読み返すおれの脳裡には、いつかフーディエが言っていたことが過っていた。

レコーディングの合間、コンビニで買ってきた弁当を食べながらフーディエは、まだライブはしたことがないのだと言った。

「個人的に配信したり、路上でやったりは何度もあるけど」ヴィーガンなのだと言って選んだ、動物性食品不使用の豆腐ハンバーグを大きな口で頬張りながら、彼は「昔はバンドもやってたんだけどねえ」と遠い目をする。その昔やっていたというバンドについて九野ちゃんに詳しく聞かれると、やだよ教えないよ、昔のことは思い出したくないの、と笑ってはぐらかした。

昔バンドをやっていたとはいえ、おれたちと大して年齢も変わらないのだからどうせ学生バンドだろう。路上だって、おれもよく下北沢の駅前に立っているが、あんな目立つ奴に出会ったことなどない。大した場数じゃないはずだ。そんな奴に負けたのか、そんな奴に死ぬほどライブやってるHAUSNAILSは負けたのか、毎日の仕事やバイトの合間を縫って、毎週末ライブの予定を入れて、客が数人でも酔っ払いしかいなくても、九野ちゃんやフッちゃんの顔ファンしか来ていなくても、週末ごとにライブハウスへ出かける度に母親に嫌味っぽい「早くサザンみたいなバンドになれるとええね!(笑顔の絵文字)」とのLINEを受け取っても、めげずに死ぬほどライブやってるおれたちのバンドは負けているのか。思わず左手で額をおさえると、信じられないほどひんやりとしていた。脳が凍るように冷たいのに、心臓の奥はまるで寸胴鍋にでもぶち込まれて火をつけられたように煮えくり立っている。メガネを外して目を閉じる。我に返り目を開ける。メガネをかけ直し、イヤホンを刺してSiMを爆音で流す。少女に復讐を唆す不敵なパンクで大脳辺縁系を麻痺させながら仕事に戻る。


終電に駆け込み眠気に支配されそうな脳を叩き起こす意味も込め、スマホで動画サイトを開いた。検索窓に、今朝おれに超弩級の衝撃を与えたあのミュージシャンの名前と曲名を入力する。プレスリリースを読み込んで気がついたが、どうやらあの曲は深夜アニメのエンディングにもなっているらしい。原作もよう知らんマニアックなアニメのようだが、それでもタイアップに違いはない。夢にまで見たタイアップ! それが、ライブもやったことのない同い歳に持っていかれたのか。いや、そもそもおれよりも歳下でおれよりもずっと売れているミュージシャンなんか幾らでもおろうが、つい最近まで一緒に曲を作った仲間だと思うと名状し難い感情になってくる。ダークモードに切り替えられたスマホ画面に浮かんだ検索結果から、真っ暗な画面に細い赤文字で『ホワイダニット』と記されたサムネイルを発見し、反射的にタップした。一瞬、やっぱり曲を聴くのはやめておこうか、と逡巡したのも虚しく、イヤホンからは音源が流れ出してくる。広告すら挟まらない。心の準備が決まらないまま半ば観念した気分で座席に身を預けたが、数秒後にはあらゆる余計な感情が秒速で吹き飛んでいった。

ローの音が響く重いギターのリフから始まった曲は、BPM120程度の素早く刻まれたビートと生っぽいバンド音が印象的だ。メジャーレーベルがバックについて良いスタジオミュージシャンでも雇えるようになったのか、ボカロっぽさを感じる打ち込みが特徴的なこれまで発表されていた彼の曲と比べると、随分と生々しく聞こえる。複雑なメロディラインに、サビで転調して一転スローテンポになるというのにかえって盛り上がりを感じる不思議な展開は、やはり彼らしく狂っているのにキャッチーで、最後まで気を許せない。歌詞はどうやらタイアップになっているアニメの内容を踏まえているのか、推理小説をテーマに描かれているらしく、MVも横溝正史の金田一耕助シリーズをオマージュしたような映像になっている。驚いたのは、それまでは友人の映像作家が作ったというアニメーションのMVばかりだったのに、この曲では実写映像になっていたことだ。

灰色のチューリップ帽にレザーのマント、同じく革製の手袋と顔が半分隠れる覆面のようなマフラーを身につけたフーディエが降り立ったのは、薄暗い地下の廃駅。コンクリートが剥き出しのホームを行き交う大勢の人々は皆、目玉が幾つもある化け物のような全頭マスクで頭を覆っていて、その化け物たちの隙間を縫い、歌いながらフーディエはホームを歩いていく。合間にインサートされるのは、古びた日本家屋の畳敷きの部屋に立つ同じいでたちのフーディエの姿。部屋には野良仕事をする農民や昔の貴族のような扮装をした人物が次々とやってくるが、彼らもまた豚や牛、馬、ライオンなど動物の頭を模したマスクを被っている。最後には部屋から誰もいなくなり、畳に膝をついたフーディエだけが取り残される。そんな場面が全て、トーンが暗く陰影の濃いフィルム調の映像で捉えられていた。フーディエはスタジオで何回も合わせたときやレコーディングで一発OKを叩き出したときと同じように、顔の表情が半分以上隠れていることを感じさせないほど堂々と振舞っている。今まで聴いてきたどの音源よりもクリアな音質の歌声はブレスひとつ取っても装飾品のように曲を華やかに見せていて、MVが終わって転職サイトのCMが流れ始めてもイヤホンを外すのを忘れるほど、おれはすっかり喰らってしまっていた。

九段下で都営新宿線に乗り換えてすぐにLINEを開き、メッセージを送ってから今が真夜中であることに気がついた。


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