いいトシしてクスリやったバンドマンと上司にへいこらする社会人バンドマン、どっちがダサいと思う?(202X.4.XX)
フーディエと初めてハモったとき、おれは自分たちの声が、聴いたこともない波形を示しているのを感じた。音の波形なんて歌ってて感じ取れるはずもないし、このデジタルなご時世、作曲にDTMも使わず未だにアコギと中古で二千円のエレピしか使ったことがなく、バンドを辞めたあの天才のように絶対音感があるわけでもないおれに何がわかるのだと自分でも思うが、間違いなくあのときのおれたちは、この世にまだ存在しなかった波形を作り出していたのだ、と、あの日から二日が経った今でも思う。
一曲目に歌ったあの曲の大サビで、主旋律を歌うおれの声に控えめに被せるようにフーディエが歌ったのは、音源には入っていないキーだった。絶賛好評配信中(ということになっている)の音源では、いわゆるオクターブユニゾンの形を取っているあの大サビでキヨスミはひとつ上のオクターブを歌っている。しかし、あのときフーディエは下のオクターブを歌っていた。「何曲か猛練習してきたんだ!」と豪語するものだからキヨスミのパートを完コピでもしてきたのかと思っていたおれは驚いたし、もしかして奇を衒ってきやがったのかとすら感じないでもない。歌い慣れない他人の曲のオク下を咄嗟に歌ってみせて、ご自慢のテクニックを見せつけたいだけなのかと、邪推することだって可能だろう。しかし――――
フーディエのその声と自分の声が重なったその瞬間、おれの視界はハレーションを起こしたように白く煌めいて、激しい眩暈をおぼえた。
真っ黒だったはずのスタジオの壁は星屑を散らした空のように光っていて、視界がぐっと狭くなる。酸欠になったときのように、視界の周囲が真っ白にぼやけて見えていたが、その眩しさとは裏腹に頭の中は怖いほどに冴えていた。耳の奥で、バスドラムと同じリズムで巡る血液の音を感じる。思わずマイクスタンドにしがみついた。演奏を止めてしまったときのなんとも言えずいたたまれない空気を避けたくて――いや、フーディエが作り出したこのグルーヴを乱すのが勿体なくて、必死に歌いながら――最早このときはギターのバッキングもできなくなってしまっていたが、その後別にフッちゃんにツッコまれるようなこともなかった――、右隣を見ると、マイクに向かうフーディエの横顔だけが、まるでスポットライトを浴びたように白く浮き上がって見えた。灰色の無数の蝶に覆われた鼻の稜線は、それでもすらりと通っていることがよくわかるほど高くて、銀色のカーテンのような長い前髪の隙間から覗く真っ黒な目は、心底楽しそうに細められていた。気がつけば見つめ続けてしまっていた。おれの視線に気づいたのか、歌いながらこちらに目線をくれたフーディエは、左手でピースサインを作ってみせる。鼻筋にはくしゃくしゃと横皺が走っている。本当に楽しい、という顔だった。
あんな顔をする人間が、出会ったばかりの同業者に自分の技能をひけらかすような真似をするだろうか?
数年前に対バンしたバンドの写真を表紙に発見して、おれはふと手を止めた。我に返った。現実に引き戻された。あいつらは来月メジャーデビューするらしく、今はインディーズ最後の東名阪ツアーの真っ最中だと、レコード会社から日々届くプレスリリースで見かけた。フッちゃんと九野ちゃんはまだメンバーとSNSで喋ったりしている痕跡が垣間見られるが、おれは仲良くしてくれていたはずのギタボのアカウントを最近フォロー解除した。これも二年前の表紙だ。後でまとめて縛り上げて燃えるゴミにしてしまおう。ビニールテープの在庫はまだあっただろうか。残り三つを切っていたらそろそろ発注しないと。
専門を卒業後、おれは派遣社員として音楽メディアの編集部に入社した。医療系だとかデザイン系だとかは話が別だが、音楽や芸術系の専門学校生ほど、新卒で正規雇用されたらお終いだと思ってる人種はいない(※美大生や音大生も同上)。そもそも正社員なんかになったら時間の融通が利かず、ライブの予定を気軽に入れることも不可能だから仕方がないのだが、実家が太いフッちゃんや九野ちゃんのようにいざというときに頼れる大人もおらず、寧ろ母親を養ってやるぐらいの気概でいなければならないし、キヨスミのようにここで書くのも憚られるようなアコギなバイト――表向きは古着屋店員だったはずだが、それで貯金してヴィンテージのフェンダーなんて買えるはずもない――に手を染める勇気も腹黒さもないおれにとっては、派遣の仕事は都合が良かった。
しかし、現実はそう甘くはない。確かに、派遣会社から監査が入る可能性があるので正社員よりも休みは取りやすいだろうが、ここは弱小音楽メディアの編集部だ。元々はパリピの社長がイケイケのバブル大学生だった頃に立ち上げたミニコミが発端らしく、会社としての体裁を取るようになってもライブイベントやクラブイベントを月に三回は開催するほどのパリピだ。調子乗ってイベント会場としてライブバーの経営もしており、おれも学生時代に遊びに行ったことがある。薄暗い店内にアメリカンヴィンテージなインテリア、まだ見ぬインディーズミュージシャンやそのファンと、夜と酒の力を借りて仲良くなれるあの空間に憧れて、派遣会社でこの会社の名前を出された瞬間に就労希望を心に決めたわけだが――今のおれは、非常に後悔している。
とにかくパーティがしたい、音楽メディアはあくまでパーティの集客のための道具としか見なしていない社長からしてみれば、編集部なんてお飾りでしかない。件のライブバーやいろいろなライブハウスのマガジンラックでおれたちの目を楽しませてくれたあのフリーマガジンが、たった五人の編集部員によって深夜零時を回るまで毎日睡眠時間を削って作り上げられていたものだなんて、無知なおれは知らなかったのだ。
渋谷の奥に構えられたオフィスとは名ばかり、一階と二階にヴィレヴァンと同じ匂いのするアヤシイ古着屋の入居した雑居ビルに構えられた雑なワンフロアの社内には、常に煙草の匂いが染み付いている。編集部の人間はみんな煙草を吸わない。編集者やライターが皆煙草を吸うというのは昭和の悪しき先入観でしかなく、それはバンドマンもまた然りである。かく言うおれもシーシャはやるが肺をニコチンで汚したことは生まれてこの方一切なく、何故なら幼少の砌に小児喘息をやって以来気管支がハムスター並に弱いからだ。このタコ部屋に染み込んだヤニの元凶はライブバーの事務方や店員たち、そして
絶望している隙に片付けてしまえば無益に責められることはない。さっそく四十五リットルのゴミ袋を取り出して蛍光色の臓物を中にぶち込んでいく。だって二年以上前のバックナンバーだ、ボス直々の依頼なのだから文句はないだろう。自信を持ってゴミ処理に取り掛かり始めたそのとき、背後から最悪な気分になる声が聞こえてきた。
「ちょっと、それ捨てていいって言った!?」
振り返る前にうんざりしたが、振り返らないとさらにうんざりすることになるのは目に見えている。仕方がないのでゴミ袋の中身が緑色の臓物状であることだけはバレないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと背後を見やった。「あ、相澤さんお疲れ様ですー」
自称営業のエース
「社長からのご依頼なので」
「うっそ! 今日クイーンレコ―ドにサンプルとして持ってこうと思ったのに〜! クイレコの所属アーティスト、サンバーンズが三年前に表紙やったぐらいしか載ってないのよ」
そんなことは知ったこっちゃない。営業部のスケジュールまでこちらには知らされていないし、そもそもが本来的にはバックナンバーは二年前までしか保存しておかなくていいものだと、入社当時にも既に習っている。自慢なのだという肩甲骨まである黒髪を掻き上げながら、異常に不機嫌になっていく営業のエース。落とした視線の先でやたら扇情的な真っ赤のプリーツスカートが貧乏ゆすりでもするように細かく揺れ、百貨店の化粧品売り場を十日ぐらい閉鎖したようなケミカルな甘い香りが拡散される度に、今朝出社後に慌てて胃に押し込んだ固形栄養補助食品がせり上ってくる感覚があった。
「どうしたあ?」間伸びした声が、彼女の背後の方から聞こえてくる。まるで鶴の一声のように聞こえなくはないが実際問題はおれをさらに追い詰めることになる予感しかしないその声の主は、顔を上げるとエースの肩越しにエースの顔を覗き込んでいた。百六十五センチにも満たない金髪の小男は、さり気なさを装ってエースの肩を優しく掴んでイタチによく似ている顔を柔らかく綻ばせる。
「社長〜! 源くんが三年前の在庫勝手に捨てちゃったんですけどぉ〜」「おや、それは困ったネ」
社長がやれって言ったとか言ってるんですけどこの子、だとかなんだとかと、エースは甘ったれた声で猛抗議している。リリースの多さに伴ってニュースの数も多い水曜日、積極的にニュース作成の方に入りたいおれを呼び止め、よりにもよって在庫整理という間違いなく急ぎじゃない仕事をさも大至急かのように依頼してきた張本人である社長は、営業のエースの甘い声にあろうことか「え? 僕そんなこと彼に頼んでないよ?」などと答えたのだった。
「僕そんなこと言ったっけ? それより今日忙しいんだから早くニュースに入ってあげなよ、三上ちゃんが可哀想だよ?」
そんな怖い顔で睨まないでよ、じゃあね、とエースを連れてあっさり社長は去っていく。肩越しに睨むエースの、生まれつきのおれなぞよりもずっと恐ろしい抉り込むような眼差しに刺されながら、顔面に貼り付けた(つもりの)笑顔を失わないよう努力することしかおれにはできなかった。
棚から引きずり出してしまった在庫を適当に衣装ケースの中に入れ、宇宙人の臓物の入ったゴミ袋は厳重に縛り上げてゴミ箱の隣へそっと置き、デスクに戻る。重くて使いにくい古いデスクトップにパスコードを入力しながら、いつものことや、と自分で自分を宥めてやる。こんなこと、ほとんど毎日やないか。唐突に野暮用を放り込まれ、そのほかのどんな業務より優先して取り組むことを求められたかと思いきや、不都合が出ると「僕そんな仕事お願いしたっけ?」とばかりにとぼけた顔をされる。所詮は口約束、所詮は上司の気まぐれ。我々一兵卒には逆らえないし、頭を下げていれば理不尽はその上を通り過ぎていくのだ。
「すみません、三上さん」隣の席の女性社員に、小さく声をかける。ハッとしたようにディスプレイから顔を上げたボブカットの女性は、韓国のボーイズグループの推しのメンカラなのだと言っていた緑色のインナーカラーを揺らしながら、「大丈夫ですよ! ありがとうございます」と微笑んですぐに仕事に戻った。
おれよりも三カ月後に入社した正社員の三上さんは、もうすぐ入社から十カ月が経過する今でも試用期間だ。疫病が流行して以来業績が悪化したことを言い訳に、この会社は正社員にいつまで経っても交通費を支払おうとしない。おれよりもずっと早く仕事を覚えた彼女は、同期の四人みんなで一度だけ近所の定食屋に昼食を食べに行ったとき、「でもみんな大変な時期だから」と微笑みながら言うと、温泉卵に醤油を大量にかけていた。
今日の全数はおそらく三十本以上。午後にならないと見通しのつかない部分もあるが、まあそんなもんだろう。始業一時間も経っていないのに三上さんは五本も進めてくれている。弊社サイトを開いて公開済み記事を参考までにチラッと覗いて、速くて上手い吉野家のような仕事スタイルに感心してから、おれも作業に入った。早朝八時に新曲のミュージックビデオを公開したYO!というニュースが来ている。おれたちよりもずっと若い、来年高校を卒業するというインディーズのメンズアイドルらしいが、プレスメールは超有名なレコード会社から届いていた。きっと最近のブームにのっかって、一年以内にメジャーデビューするんだろう。なんや、結成したんも一昨年やないか。世間は残酷やな!
よくある音楽ニュースの大半は、メディアの編集部に日々大量に届くレコード会社や芸能事務所からのメールに記載された文面を、各メディアで制定されたルールに従って編集し、ワードプレスなどに入力して公開する、といったスタイルをとっている。弊社も例外に漏れずそのスタイルなのだが、こう言うと意外と簡単そうに見える業務かもしれない。しかしナメてもらっては困る。大量の情報量を日々ひとつひとつ丁寧に捌き、語尾のですますを〜だ、に統一し、余分な漢字をひらがなに開き、画像などをリサイズして全てをワードプレスに格納する。公開時間も間違えてはいけない。レコード会社や芸能事務所から指定された解禁時間よりも前に公開してしまうなど言語道断、完全に情報流出だ。毎日毎日、自分よりも売れているミュージシャンの情報を神経をすり減らして確認し、責任を持ってこの世に放流する。突然割り込むボスの無茶振りにも応じながら夥しい数の情報と向き合っていると、正直言って自尊心とやらが全方位からゴリゴリ削られる心地をはっきりと覚えるのだった。
事務仕事はまだいい。ただ集中できれば、本来の定時らしい午後十時には帰れるはずだから。今おれが右手に持っているロジクールのマウスを擦ったら中からドロンと青い身体の魔人が姿を現し、「お前の望みを今すぐにひとつ叶えてやろう……」と山寺宏一ボイスで言ったなら、意気揚々と「ボスを殺してくれ」と言うだろう。それか十億円欲しい。
この前もライターにライブレポートの原稿をせっつく電話をしろと言われ、他聞に漏れず電話が苦手な現代人であるおれが五分ほどの葛藤の末勇気を振り絞り、雑誌やネットで何度も名前を見たことのある売れっ子音楽ライターに直々に電話をすると、なんと締切は翌日の夕方だったことが発覚、といった事件があった。お互い忙しいのだから電話口で丁寧に謝罪しとけばいいものを、相澤に引きずられてわざわざ菓子折り持ってお詫びに行ったわけだが、そのとき持参した菓子折り代はしっかりおれの給料から引かれていた。思えばあれも、社長御自らわざと間違えた締切をおれに伝えてきたような気がする。思い返せば入社二日目だったあの日、まだ全社員数すら把握できていなかった幼気なおれを独断で菓子配り係に任命したボスは、誰も使っていないパソコンの残された空席に主がいると思い込んでマドレーヌを置くおれを見て、悪魔のような高笑いを上げていた。ちなみに弊社に三時のおやつはあっても三時のおやつタイムは存在しないし、おやつ代はボス以外の全社員の給料から天引きされている。そんな半端なホスピタリティ要らないから早く帰してほしい。
とかくボスはおれに対して異常に当たりが強い。その理由はおそらく、おれが現役のバンドマンだからだ。
あの金髪の小男は、元バンドマンだ。入社前のおれが夢に瞳を輝かせていたことからもわかるように、大変外面がよく、ちょっとしたカリスマのように知られている。界隈のバンドマンやそのファンからは親しまれていて、やたら顔が広い。その夥しいコネクションの末端にいる音楽関係者たちは会社社長としてのボスを知る者ばかりではなく、バンドマン時代に知り合った相手や当時のファンなども多いようだ。二十ウン年前に解散したというそのバンドは、今となっては「伝説となった」だとかなんだとか言われているようだが、現役時代をよく知らない若人のおれからしてみれば、ただそんなに売れてなくてすぐに解散してしまっただけの在り来りな――美しく言い表すなら時代の徒花、のようなものとしか思えない。今執拗ないびりを受けていて、ついついあの人物への評価が厳しくなってしまっているだけしれないが、おれは性格が悪いので、現役バンドマンである新人社員をいびり散らかしているこの現状が、かえってあの男が夢半ばで諦めることになってしまったがためにバンドマンへの強い劣等感を抱いていることの証左となってしまっているように思える。丁度今、それを証明するようにボスの席にライブバーの店長がやってきて、平身低頭説教を受けているようだった。
「ねえ、聞いてんの? バイトちゃんまーだ来ないみたいじゃなーい。催促するのも店長の役割なんじゃないの? ねえ聞こえてる? ドラムで耳やられちゃって聞こえてないか?」
オフィスのすぐ近くの奥渋谷にあるバー『どうしようもない夜』の店長をしている加賀美さんは、〝ミラー石黒〟の名前でバンドのドラマーをやっている。店の公式インスタで見かけるバーテン姿の赤毛のイケメンが、深々とほうれい線の刻まれた派手髪の小男のマシンガンのような説教を受けている様を初めて目にしたときには、別に特段自分にかかわりがあるわけでもなんでもないのに、なんだか情けない気分になったことを今でもはっきりと覚えている。ユーチューブでもなかなか人気のある〝叩いてみた〟で鍛え上げられた上腕二頭筋を剥き出しにしたノースリーブの腕は、今にもボスを殴らんばかりにプルプルと震えていて、しかしその筋肉は太鼓の皮を叩いて音を鳴らすのと大量の酒瓶をゴミ置き場に運ぶためにしか活かされない。ボスの説教は相手の反論を許さず、まるで退路を断つかのように止めどなく罵倒語を畳みかけていくが、その言い回しはどこまでも穏当で、声も小さい。社長室など勿論存在しない狭いオフィスであけっぴろげに説教大会が繰り広げられていたとしても、忙しい編集部員たちは意に介さない。先月の席替えで運悪く社長の席の目の前になってしまったおれの席は、デスクの上に山のように積み上げられたCDやら音楽雑誌やらようわからん書類の隙間から覗く、ミラーの逞しい拳に浮かんだぶっとい血管まで見ることができてしまう特等席だ。おれがこの会社に入って一番最初に学んだのは、ユーモアと声音の柔らかさは性根の悪さを隠すのに最も効果的な武装らしい、ということだ。そして、どうやらミラーもおれと同じらしい。編集部のすぐ隣に設けられた飲食部の事務方が詰めた座席に戻ったミラーは、ボスの仰せの通りに最近サボりがちらしいバイトちゃんに電話をかけ始めた。電話口に向かって小声で凄む声が、モニターに向かうおれたちの背中に無数のミクロな針のようになって突き刺さる。「あのさあ、最近ずっと来てないよね。うんわかった言い訳はもういいからさ。てかウチの店来てから言い訳しかしてないよね? あんたの口ってさ、酒飲むのと言い訳するためだけにくっついてんの?」
五年の店長歴により、ボスの口ぶりをそっくりそのままコピーしてしまったミラーの静かな罵詈は、あまりにミクロな棘棘が故に刺さらない者には一切刺さらない。少数精鋭で日々業務に追われ続ける編集部一同は聞かない(効かない)ふりをして黙々と作業を続ける。棘を一身に受けた電話口のバイトちゃんには覿面なようで、じきにスピーカー設定にもされていないはずなのに微かにすすり泣く声が聞こえてきた。すると、思いついたようにボスは『ラ・ヨローナ』のサントラを流し始める。ホラー映画のサントラの奥で電子変換された女の子の涙声の謝辞と、社長の押し潰された含み笑いが秒でオフィスに充満した。
弊社には現役のバンドマンは現在、おれとミラーしかいない。社長のいびりを一身に浴びたバンドマンたちは、皆すぐに辞めていくか根気よく頑張って売れていったのだと、二カ月前に寿退社した十年選手の先輩編集員、秋山さんは言っていた。ミラーだって、五年も燻って若い女の子を詰るような職業に就きたいはずなどなかった。寧ろ黄色い声援だけ浴びて生きていきたいはずなのだ。おれの背中にはミクロ単位の棘棘が毎日毎日蓄積され、セックス・ピストルズのバンドTの背中には無数の見えない穴がプスプスととめどなく空けられていく。
暴力の連鎖だとかよく言うもんだが、鎖よりも重力に似ているな、と思う。下へ下へ、弱い方へ弱い方へと落ちていくように繰り返され、一番下にいる者が全ての受け皿になるのだ。ボスに甘ったるい声ですり寄っていたあの営業女も、落ちて落ちて落ちていった暴力の肥溜めにならないように、必死なのかもしれない。
他人の悪意に日常的に触れ続けることを強いられたおれにとって、自分は絶対にああはならないという意地と良心だけが、健全なる精神のストッパーになっていた。おれの直系の後輩は今三上さんしかいないから、真面目でおれよりもずっと器用な彼女へ向ける態度に、嫉妬や棘が表れないよう細心の注意を払っている。少し仕事の多い日には個人的に用意したチョコパイや塩バタかまんなど、なるべく外さない個包装のお菓子をお礼の気持ちを込めてそっと手渡すようにしているし、パッケージに一言添えたポストイットを貼り付けておくこともある。ちなみにあまりその頻度が高すぎると邪推を生んでしまい、可憐な女性であるところの三上さんに不必要に警戒されてしまう可能性もあるので、ごく稀に、たまに、月に二回程度に留めている。同じ肥溜め予備軍――いや、木偶の坊のおれなんかはほぼほぼ実質既に肥溜めだと言って過言ではないのだが――な新人という弱い立場の三上さんに何故こんなにも気を遣っているのかと言うなら、現在進行形で彼女も、もうある意味ではボスからの暴力を受けているからだ。
歯の間に挟まった小ネギが如く視界の端に入っていたはずのボスが、座席から立ち上がっておれの後ろを歩いていく気配がする。右隣の三上さんの席に近づいていく気配がする。大丈夫、忙しくない? なんて、わざとらしい気遣いの言葉を囁くボスの小声が聞こえる。口をすぼめて喋ってやがるのか、唇が触れ合う度に微かに聞こえるリップ音に、脳のヒダを爪先でガリガリ引っ掻かれるような不快感を覚えた。忙しいに決まっとるやろがい。しかし真面目な三上さんは途切れ途切れのタイプ音の隙間から、はい、はい、大丈夫です、と懸命に答えている。声が震えている。多分、肩ぐらい触られているんだろう。なるべくそちらを見ないように、モニターに眼球を釘付けにされたようにおれは正面だけを見つめている。モニターの向こうから、窓際に設置された営業部の席から肩越しに睨む相澤の刺すような目線を感じる。それは勿論おれではなく、その右隣に注がれているのだ。
本当は見て見ぬふりなんてしたくなかった。ボスはその足で玄関近くのトイレへと向かっていく。無理矢理意識をウィンドウに集中する。気を散らしている場合ではない、今日は水曜日だ。マスクのせいでメガネが曇る。卓上のティッシュで拭うと、良好になった視界の端に動くものが見えた。メガネを拭ったティッシュで、潰さないようにそっとそいつをつまみあげると、小指の爪の半分程もない、小さな虫だった。体はまん丸で、淡い茶色をした背中にうっすらと斑点のようなものが見える。うごうごと蠢くそいつには見覚えがあった。先週末、久しぶりに手に入れたライブの予定もスタジオもない休みに箪笥の衣替えをしたとき、すっかり肥やしになっていた古いスウェットの隙間に発見したのだ。確か、ヒメマルカツオブシムシとかいうやつだ。春先になると洗剤や柔軟剤のいい香りに誘われて洗濯物にたかり、箪笥やクローゼットの中で繁殖することもある。いったいどこから入ってきたのか、もしかしておれが連れてきてしまったのか。そのまま潰してしまってもいいがどうしたものか、と思っていると、ボスがトイレから戻ってきた。おれの視界のすぐ左端の座席に、ふてぶてしくも溜息をつきながら座る。その様を見た瞬間、こめかみに鋭い痛みが走っておれは手にしていたティッシュをデスクに放り投げ頭をおさえた。幸い痛みは一瞬で引いて、ほかの社員たちに気づかれるようなことはなかったが――放り投げたティッシュを卓上の小さなゴミ箱に捨て、平静を装い業務に戻ろうとしたそのとき、左側からウェッ、という奇妙な呻き声が聞こえた。ガマガエルを踏み潰したようなその声に弾かれたように顔を上げると、社長が、ライブバーの内勤が入れたコーヒーに指を突っ込み、なにかを取り出していた。指先でつまみ上げたそいつを見ながら文句を垂れる。
「なんだよこれ虫じゃん! 湊チャン気をつけてよ~」
席についていた内勤の湊さんは身に覚えのない誹りに一瞬沈黙したが、すぐにすみません! と威勢のいい謝罪の声が聞こえてきた。どうやらコーヒーの中に虫が入っていたらしい。おれは急に恐ろしくなり、タンブラー程度の大きさのゴミ箱を開けて今さっき捨てたティッシュをさり気なく広げた。
ティッシュの中にあるはずの虫の死骸が、ない。
まさか、という気持ちになっていると、続けてすぐにボスが形容し難い悲鳴を上げた。さすがに編集部全体が不穏な空気になり、隣の三上さんも弾かれたように顔を上げる。おれもつられてボスの方を見、そのまま絶句した。椅子から半ば立ち上がったボスの膝が震え、凝視する視線の先の指が、うぞうぞと蠢いている。普通なら関節から折り曲げるように動かすか、小刻みに震えるような動きしかできないはずの指先が、まるで芋虫そのものにでもなってしまったかのように異様な動きをしていた。じきにボスの指は震えあがる指の持ち主を嘲笑うかのように四方八方へ蠢き、さらには首、頬、額や目の周りにまで蚯蚓腫れのようなヒビが走ったかと思うと、まるで皮膚の下を虫が這い回っているかのようにイゴイゴと動き始める。驚きに見開かれた目玉がグリン、と裏返り、白目が剝き出しになった眼球の下の真っ赤な粘膜から、細く長い触手のような虫がにゅるりと顔を出して……
おれは手にしていたティッシュをゴミ箱の中に戻し、空想の扉を閉めてすぐに仕事に戻った。
お察しの通り、ボスが悲鳴を上げた辺り以降は完全に妄想である。気が済むまで湊さんを叱咤したボスはふてぶてしくもコーヒーの淹れ直しを指示し、既に再びデスクのPCに向き直っていた。おれが手にしたティッシュからは確かにヒメマルカツオブシムシの姿は消えていたが、そいつが爆長ミミズのような不気味なクリーチャーに変身してボスを脅かすようなことは決してなかった。おれは何事もなかったかのように引き続き膨大な数のメールをさばき、ワードプレスを操作する。昼休みまではあと一時間、一向に足りない休憩時間が終わったら午後の業務は正味十時間。おれにはブラック企業の経営者の皮膚を食い破る化け物を操ることこそできないが、誰にも気付かれずにコーヒーに虫を混入させ、嫌がらせをすることぐらいはできるようだった。
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