天使のようなその人物との初顔合わせの様子(202X.4.XX)
三分だけ遅刻してやってきたその人物は、「ごめんね、久しぶりにシモキタ来たからどこからお店に入ればいいのかわかんなくて……」と謝り、リーダーに席に座るよう促されるまで律儀にその場に突っ立っていた。やや高めの甘いハスキーな声は歌声と同じだったが、舌っ足らずな話し方からは、曲から感じたようなニヒルな印象は感じられなかった。
心底申し訳ない、というような様子で胸の前で合わせられた両手は、淡い花柄があしらわれたアディダスのパーカーの、長い袖に半分以上隠されている。身体の線を打ち消すようなダボダボの服とカーキ色の風船のような形のズボンを身につけたその人物――フーディエは、パーカーのフードとグレーのマスクの隙間から、大きな目とくすんだシルバーに染められた髪だけを覗かせていた。
やたら嵩を取るベースケースを足元に置いて、窓際に詰めたリーダーの隣に腰掛けるフーディエの姿を何気ないふりをして見ながら、なるほど、と思った。性別年齢不詳、詳細不明。公式サイトと個人SNSのプロフィールにそう書かれていたのを思い出す。そういうイメージ戦略なのかと思っていたが、どうやらそれだけでもないらしい。普段から、そういう感じの雰囲気のひとなのだ。席につくとフーディエはマスクを少しだけ外し、「ごめんなさい、ちょっとだけお水飲んでも大丈夫? 急いで来たら汗かいちゃった」と言う。少し前に人数分のお冷を用意してもらっていて良かった。一斉に水分補給を促すおれたちに照れたような笑顔を見せたフーディエの目元はフードで隠れていて、厚めの唇の隙間からは大きな八重歯が覗いていた。マスクをつまんだ指先の爪はMVと同様に黒く塗られている。
結論から言って、我々とフーディエはその日のうちにたいそう打ち解けることに成功した。我らがリーダーと隣に座っているサブリーダーがコミュ強なのも大きな理由だとは思うが、どちらかというと、フーディエ自身の愛嬌がその理由の大半を占めているだろう。マスクをしたままでもわかる大きな笑顔。フードを外すとサラサラの長めの髪が西陽に揺れて、真っ白な肌と小柄な佇まいとも相まってかなり浮世離れして見える。シニカルな歌詞、グロテスクなMV、そしてあのキャプションからは想像もできないほど毒気のない姿に、おれは正直拍子抜けしていた。
「なんかインスタで弾き語り動画上げてたら変なおじさんからDMもらって。めちゃくちゃ褒めてくれて嬉しかったからちょっとやり取りしてたら色々手伝ってくれるようになったの。そのおじさん、なんか音楽事務所の偉いひとっぽいんだけど、そのひとが謎めいてる方がいいって言うのよね。だから、その、なんて言うの? イメージ戦略?」
自身の姿や活動するうえでの設定についてフッちゃんに聞かれ、フーディエはおれが更に拍子抜けするような暢気な調子で答えた。
「でも住んでるところは教えてくれるんだ〜」「うん、本八幡! 遊びに来て!」「年齢と性別は教えられないのに?」九野ちゃんが興味深そうにどんどん掘っていく。うちのメンバーのこういうところ、ほんまに尊敬するけど神経疑うよな。こちとら人見知り黒帯やぞ。同じくコミュ強の気配を漂わせるフーディエも「えへへ、ごめんね!」と元気に微笑んで、ぬるくなったカフェラテの表面にまだうっすら残っているラテアートをマドラーでつついた。ちなみにこれを飲む前、フーディエはスティックタイプの砂糖を十五本立て続けにカップの中にぶち込んで我々を凍りつかせた。甘党のおれでも三本が限界である。
そんなエキセントリックな味覚を持っているとは到底思えないセンチメンタルな表情になったフーディエは、「自分のことを話すのも苦手なんだよね。プライベートでもマスクしてるのもそのせい」と続けた。「顔隠してないと、こうやってみんなと楽しくお喋りすることもできないの」
へえ、もしかしたら同類なのかもしれんな。そんな自惚れたようなことを思った傍からフッちゃんが、最近よくテレビのバラエティでも見かけるようになった地下アイドル出身の女性歌手の話をフーディエに振る。アニメ主題歌でブレイクした彼女もまた、年齢も出身地も非公表なのだとか。フーディエとアイドルオタクのフッちゃんは、「あーっ、年齢非公表だったよね!? でも可愛いから全然気にならないなぁ」「わかる〜」と意気投合している。
話を聞くにつけ、フーディエは本当におれたちからのオファーを喜んでいるようで、なんと元々おれたちの曲を日頃から聴いていたのだという。MVもよく観てくれているそうで、九野ちゃんはたいそう嬉しそうだ。「フーディエちゃんのMV作ったら一瞬でバズると思うわ〜」なんてリップサービスまでしてみせる九野ちゃんに、フーディエは少し口篭りながら応じた。
「いや、ああいうのはさ……私だけの力じゃないっていうか……みんなが一緒に作ってくれてやっと完成品だし、運とかもあるだろうから……」
やや俯いて目を逸らし、落ち着かない様子でカフェラテを啜るフーディエの様子は、謙虚を超えて卑屈にすら見えた。
もう二時間以上は話した頃だろうか。激甘のコーヒーを飲み干したフーディエが、「なんか私、楽しくなってきちゃった!」と、思い切った提案をしてきた。
「スタジオ行って合わせてみない?」
「今から⁉」さすがのおれも大声が出たが、フーディエは平然と「今から!」と答えてくる。「でも予約取れないよ」と首を傾げる九野ちゃんを「私が取る!」と黙らせ、スマホを手にした。「今日会えるの嬉しすぎて、何曲か猛練習してきたんだ!」などと言いながら液晶を触るフーディエは、まるで友達との初めての外泊が嬉しくて、着替えや歯磨きセットなんかはそっちのけで遊び道具をリュックに詰め込んできた小学生のようだ。
フーディエが案内してくれたのは、一番街商店街をぐっと奥まで入った場所にある、小さなピアノ練習スタジオだった。真っ白な美容室のような外観に、赤いネオンサインの小洒落た看板が午後五時の薄闇に滲んでいる。バンド練習ができるような場所だとは思っていなかったが、フーディエは「ここのオーナーが昔、ピアノを教えてくれててね。昔のよしみで予備の部屋と楽器を使わせてくれるんだ」と言い、まだ新しい建物の匂いの残っている白い店内に入っていく。タブレット端末だけが置かれた無人の受付カウンターに向かって、「さっき連絡差し上げたフーディエですー」と間伸びした声をかけると、その隣に設置された小さな無線スピーカーから、「奥の部屋が空いてるから使いなー」と、陽気そうな女性の声が聞こえてきた。フーディエはその言葉に応じて、建物の奥へとおれたちを導いていく。
リニューアルしたばかりだという、真っ白な壁に造花の観葉植物が盛んに飾られたロビーと違って、スタジオの中は四方の黒い壁と床に敷かれたゴブラン織りの絨毯が印象的な、小さな個室だった。大の大人が四人入るとなかなかみっちりした感じになる九畳程度の部屋で、おれたちは半ば流されるように、初めての共同作業をすることになってしまった。
いつものように諸々のセッティングをする。我々バンドはスタジオ帰りだったから楽器だけはあったが、とはいえドラマーの九野ちゃんは馴染みの場所ではないので慣れない楽器を借りる羽目になる。フッちゃんとおれもアンプは勿論エフェクターも現場のものを借りることになってしまったため、完全にアウェイだ。勝手知ったる他人の家というような面持ちで準備を進めるベースボーカルのフーディエの様子を横目に見ていると、去っていったあのベースボーカルのふてぶてしさを思い出すようで、さっきまでのやり取りでぶち上がった好感度がしゅるしゅると音を立てて少しだけ低下していくのを感じた。ひとの好さそうな顔しやがって、もしかして実は自分よりも売れてないバンドを騙して嘲笑うのが趣味か? 楽しいのか? その趣味。
隣でマイクチェックをするフーディエの顔を見る。化粧をしているわけでもなさそうなのに、睫毛が無骨なLED照明の白い光を乱反射して薄灰色に光っていた。スタジオに入るや否や各々マスクを外したおれたちとは違い、マスクをしたままだったが、フーディエの声はやたら綺麗に響いている。不思議に思いよく見ると、マスクが少し透けて、口元の輪郭がうっすらと見えた。どうやら細かいレース模様の入った布マスクらしい。なるほど、と思い目を逸らそうとしたが、おれの目は思わずふたたびそのマスクに吸い寄せられた。
フーディエの口元を隠しているマスクは、細かい蝶の模様でできている。それもよくあるカリカチュアされた可愛らしいちょうちょ、ではなく、やたらリアルに作り込まれた、蝶の体の裏側を模したレースだ。ひとつひとつの模様は羽まで含めて五ミリほどの小さな小さな蝶だが、丸い胴体から睫毛のように細い脚が何本も何本も生え、今にも蠢き出しそうに空調の頼りない風に揺れている。羽の内側には目玉のような模様があって、それらが全て、こちらを見ていた。無数の小虫のような蝶がフーディエの顔の下半分を、びっしりと覆っている。お洒落な古着風? といった趣の服装には不釣り合いなその悪趣味な小物遣いにやや面食らいながらも、なんとか楽器と機材のセットアップを完了した。
一曲目は『John Q』。これはフッちゃんがフーディエに選ばせた。一番最初に手売りで販売したCDのリード曲にした、キヨスミの曲だ。なんでも寺山修司が主催していた赤テントがテーマで、『あゝ荒野』だとか『チェホフ祭』だとか、寺山の作品を歌詞に複数引用しているらしい。テントから連想しているのか、確か中原中也の『サーカス』もモチーフになっている。初期の曲の中でも特にMVの再生数が多く(と言っても今やっと三万回ぐらいだが)、なんか人気あるらしいがよくわからん音楽ブログの管理人が、SNSで「新劇派へのアンチテーゼとして表現者の肉体を尊しとした寺山の思想に準え、匿名性の高い歌手が架空のパーソナリティでカリスマになる音楽シーンへの批判が込められた楽曲」だとか書いていた。タイトルの意味は『名無しの権兵衛』で、これはおれがつけた。バンドとしても結構思い入れが強くて今でもライブでよくやる――いや、あいつが脱退してからは、どのライブでもやってなかったっけ。
あの時は全く引き留める気なんてなかったのに、流石にひと月と経たないうちに、出会ってまだ半日も経ってない歌手とツインボーカルを執るのにはさすがに抵抗があった。格好つけてグレーのセットアップを着てきたことを後悔した。開襟シャツの背中に羽が生えそうなほど、緊張で汗ばんでいる。アンプひとつぶんほどの幅しか離れていない右隣を見ると、フーディエは淡い空色のジャズベースを手に、髪を耳にかけ直しながら、目だけで微笑んで見せた。片耳でも十個近くは開いていそうな、シルバーのピアスがチャリ、と微かに鳴る。彼と同様にピアスを無数に開け、派手なプレベを使いこなしていたベースボーカルのことを俄に思い出したが、九野ちゃんのカウントで曲が始まると、おれはもう、がむしゃらに歌うことしか考えられなくなってしまった。
それはまるで、竜巻に巻き込まれたような感覚だった。
フーディエは微笑みを浮かべたその表情のまま、おれたちの曲をまるで自分のもののように完璧に歌いこなしていた。リズムの中を泳ぐように優雅に身体を揺らし、時に大きく目を見開いたり、細めたり、マイクから声が零れるのを恐れることなく首を振ったりしながら表情豊かに歌う。不敵な笑みを浮かべると羽虫のように睫毛が震え、涙袋がグッと盛り上がる。ベースレスのパートでは、翼を広げるかのように両手を広げてみせる。隣で歌うフーディエの姿をワンコーラス分見ただけで、フッちゃんがこの歌手を候補に選んだ理由がわかった気がした。
普段はピアノのマンツーマン指導が行われているであろう狭いスタジオの一室にも関わらず、フーディエは、まるで目の前に観客がいるかのように歌ってみせたのだ。
フーディエの勢いについていくだけでおれはやっとだった。専門の卒業制作発表会では、その年のヒット曲をバラードやボサノヴァ調にアレンジしてギター一本の弾き語りでメドレー披露し、青田買いに来ていた何人かの音楽事務所の大人たちに声をかけられた程度の歌唱力はある――なんならそれが唯一の自慢であると言っても過言ではないのに、上手く歌ってやろうだとか、いつも通りに楽しく歌おうだとか、そんな余裕は一切なく、ピッチを外さないように意識するぐらいしかできなかった。完全に、《呑まれてしまった》のだ。
フーディエは一曲終わらせる度におれたちにハイタッチを求め、ハイスペック陽キャぶりを惜しげもなく見せつけてくる。目尻にシワが出るほどくしゃくしゃに笑ってみせると、「あー楽しい、私やっぱりバンドやってみたかったんだあ」と、誰にともなく呟いた。おれたちもフーディエの曲を一曲でもいいから練習しておけばよかった。これだからダメなんだ。こういうところに差が出てくる。
恐ろしいことに気がついたのは、スタジオの使用時間終了十分前。最後の一曲を歌い終えた頃。おれはそのとき、かつて相方だった男――今の今まで歌い続けていた曲たちの大半を作ったはずの男の、歌声をすっかり思い出せなくなっていたのだ。
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