願ったり叶ったりな世界とあいつが辞めた話(202X.4.XX)

人類はまだ木星には行けないし、パラレルワールドにさえ行けなかった。スーツ姿の兵隊たちはサーベルこそ背負ってはいないが、ノーブルぶった土気色の顔たちが街の空気を汚しているのはわかる。こんな格好をつけた言い回しを思いついたのは、月末の渋谷、井の頭線のホーム。

率直に言って、あの夜都市伝説の検証に赴いたはずのおれたちの身には、何も起きなかった。馴染みの中華屋はいつもより少しだけ人入りが少なく、おれたちの他にはカウンターに男性客がひとりだけ座って、塩ラーメンらしき麺を啜っているだけだった。いつもと変わらぬおっちゃんが作ってくれた赤い焼豚のチャーハンは相変わらず美味かった。何事もなく駅で別れ、何事もなく家路に就いて何事もなく帰宅した。夜が明けても一週間が経過しても、急にMVがバズって可愛いJKがキラキラのフィルターかけた動画でおれたちの曲に合わせたダンスを披露して流行らせてくれるようなことはなかった。

ただ、あの夜以降、決定的に変わったことが、ふたつだけあった。


毒にも薬にもならないでお馴染みの全国放送地上波番組の中でも、例外的に割と好きで気が向いたときにはよく観ていたものがあった。いわゆる「多様性」がテーマのありがちな教育番組だが、ジェンダーマイノリティや引きこもり経験者、全盲のスポーツ選手や耳の不自由なダンサーといったいわゆるマイノリティと言われるような属性のひとたちが毎回出演していた番組で、もちろんカムアウトしているギフト持ちのタレントなんかもよく登場していた。ゲストそれぞれの今の悩みや波乱万丈の人生、生活の中でのあるあるネタなんかを掘り下げていくような内容で、いかにも教育テレビ的な押し付けがましさのない、フラットで不真面目なバラエティ番組っぽさが物珍しくて面白く、通勤電車でぼんやり見る程度には気に入りだったわけだが、あの夜の翌日深夜に配信が開始された回には、毎回ギフト持ち枠で出演していたレギュラーのタレントが出ていなかった。作家性の高い単館映画でよく見かける、透き通りそうなほど白い肌の女性俳優だ。物静かそうで可愛らしいルックスに反して率直な物言いをするところが魅力的で、彼女観たさに番組を観ていたまであったので心配になってググってみると、所属事務所のホームページから例の番組についての記載が消えていた。

それどころか、プロフィール欄に誇るように記載されていた「エンパス系のギフト保持者」という文言すらまるっと消滅していたのだった。

ワイドショーの真面目ぶった特集コーナーで毎日のように取り上げられていた「ギフト保持者との共存」「カミングアウト/アウティング問題」なんて文言を、ネットニュースでも一切見かけなくなった時点で違和感は抱いていた。しかしそもそも自分がフォローしているタイムラインの流行が世間の流行と違うのは常識中の常識だし、テレビは今やインターネットの後追いだからアテにはならない。その証拠に社会人になってから、長年の治療の結果とりあえずギフトの発動を自分である程度コントロールできるようになってからは他人からの好奇の目に晒される機会もめっきり減ったし、家族や古い友人やメンバーとの会話以外の場面でギフトについての話題が議題に上ることすらなかった。

だから、その大きすぎる〝変化〟に、おれはなかなか気がつくことができなかったのだ。

にわかに芽生えた疑惑を胸に秘めながら、ある日のスタジオでおれは何気なくフッちゃんに聞いてみた。

「そういえばギターどうしたん? あの、ジミーペイジの」

さんざっぱら持て余していたギターの行方を問いかけてみると、高校時代にバイト代を貯めて買って以来ずっと使い続けているというオンボロの黒SGを革の剥げたケースにしまいながら、フッちゃんは予想外の答えを返してきた。

「は? なんの話?」

いやいやいや、怪談コンテストで優勝して貰ったって言うたやろ自分。あんなセンセーショナルな景品忘れんぞ。しかしフッちゃんはご冗談を! といった面持ちで失笑すると、「そんなん俺が貰ったら冗談じゃなくね? てかそもそもそんなコンテスト出んし。俺、怖いの苦手なんだから」と、皆さんが想像する三倍以上の可動域で顔面の筋肉を動かしながらバースをカマしてきた。眉毛を額に高々と引き上げたフッちゃんは、続けてフックを仕掛けてくる。

「だいぶ前に言ったやん? 別に実家がユタの家系だからって、俺には霊感もないしホラー映画すら苦手なんだって」

デスヨネー、アレ? ホカノダレカトマチガエタカナ? などとその場は濁しつつ、今度は九野ちゃんに聞いてみる。もしもフッちゃんのレスがギフト持ちに冷たい世の中や自分のギフトそのものを憎む哀れなおれを慰めるためのちょっとしたドッキリだったとしても、クソがつくほど真面目な九野ちゃんはご陽気な幼馴染みに加勢したりはしないはずだと思ったのだ。ごくさりげなく、まとめた荷物など背負い上げながら、姉ちゃんの炎上はもう大丈夫なのか、と聞いてみた。最近はもうあれ? 「魔女の透視」動画は上げてないの?

すると九野ちゃんは、おれの言葉の後半を半分も聞かず、食い気味に頓狂な返事を返してきたのだった。

「ああ〜勘弁してほしいよねえ、アイドルなのに既婚者の歌手と不倫なんてさ……」

想定外の答えにおれはふたたび動揺し、さり気なさを装うべく手にしていたスマホを取り落としそうになる。

「魔法少女大好きなオレのために魔女がテーマのアイドルグループ入ったって言われたってさ、そこまでは擁護できないよ」

心底残念そうな九野ちゃんの声には、決して姉の自由奔放さを咎めるようなニュアンスはなかった。姉が〝魔女〟であることに頭を悩ませていたはずの九野ちゃんは、姉が大好きな〝魔女〟でいてくれることをやめてしまったがために苦悩する、普通の〝姉思いの善良な弟〟になってしまったらしかった。

ちなみにスタジオを出た後、九野ちゃんはキヨスミを誘って、日曜朝に放送されている女児向け魔女っ子アニメの劇場版のレイトショー応援上映を観るべく、井の頭線に乗って渋谷の映画館へ向かった。確かに九野ちゃんは生粋のアニメ好きで、毎シーズンごとに新番組をチェックしていたほどだったが、おれのよく知っている彼は「姉ちゃんのこと思い出すから」と、魔法少女系アニメだけは観ようとしなかったはずだった。一体いつの間に心変わりしたんだという感じだが……彼らのこの答えによって、おれの中のほのかな疑惑は遂に確信に変わった。

どうやらおれは今、〝ギフトの存在しない世界線〟にいるらしい。パラレルワールドに、本当にやって来てしまったのだ。


最初は願ったり叶ったりだと思った。物心がついたときからおれを苦しめてきた根源的理由が、この世界からそっくりそのまま、まるっと消えていたのだ。これ以上に嬉しいことなんてない。ギフトさえこの世から消えてくれれば、おれは普通の人間として社会生活を送ればいいだけの話になる。そのことに気づいた日は世界が煌めいて見えて、終電で帰る都営新宿線の車窓に光る巨大な団地の窓の灯ひとつひとつが、夢の中の星空のように見えた。

しかし、ひとつだけ疑問が残る。ギフトと呼ばれるクソッたれの体質が、本当にこの世に「存在しない」ということになっているのなら正に願ったり叶ったりなわけだが、この世から「ギフトという概念がなくなった」だけだった場合は、また少しお話が違うのだ。

そんなことをぼんやりと考え、少しだけ不安になりながらコンビニに寄った。ブラック企業で働く非正規職員にとってウィークデーの憩いの場所は、田舎町で唯一の深夜営業ショップであるコンビニか駅前のドン・キホーテぐらいしかない。マックスコーヒーと明太子おにぎりをレジに出し、愛想のいいゾンビのようなバイト青年にビニール袋をつけてもらうと、セルフではないレジスターの液晶画面に278円と表示された。財布の中を見ると、小銭入れに丁度百円玉二枚、五十円玉一枚、十円玉二枚、そして一円玉八枚が入っている。そんなラッキーなことあるかと震え上がったおれはいつものように、サービスの良すぎる小銭が全て背中のリュックサックの奥底へと移動するイメージを一瞬にして膨らませる。もうすっかり癖になってしまっているので、このちょっとしたラッキーを享受して小銭を支払うなんて選択肢はなかった。自然を装いながら一旦財布のジッパーを閉じ、素早く再び開けると、中の小銭は全て消えていた。かくして小銭を失ったおれは恐縮しながら千円札を出して釣りと品物を受け取り店を出たとき――――ふと、気がついた。

おれは今、何の気なしにギフトを使っていたのではないか?

いや、今どころではない。今朝だって枕元で鼻をかんだティシューをデスクの横のゴミ箱に転送したし、毎回家で資源ゴミに出すペットボトルを潰すときは指一本だ。元々ギフトは健常者に対してあまり大っぴらにみせるものではないし、友人(というかメンバー)にふたりもギフト持ちがいるって時点でレアケースだから、さすがに人前で使った記憶はないが――どうやら癖になってしまっていて、気づかなかったらしい。今この世界にはギフトなんて存在しないはずなのに、おれだけは今まで通り、日常的にギフトを使


かくして煌めきに満ちた世界は、あの霧の夜からたったの三日間で幻のように消え果ててしまったわけだ。むしろ今まで以上に細心の注意を払って生活しなければならなくなってしまった。どういうわけか、今この世界でギフトと呼ばれていたはずの力を使うことができるのはおれだけだということになっているのだ。たとえば開いた財布の小銭入れから小銭がごっそり消滅する瞬間をさっきのゾンビなコンビニ店員にでも目撃されたりしたら、日常の中で突然手品を披露するステルス系マジシャンか、オカルトユーチューバーの格好の取材対象になってしまう。いくらなんでもそんなきっかけでバズりたくない。ちゃんと音楽で売れたい。

さらにもうひとつ、決定的な変化が起こったのはその週の土曜日、件の霧の夜から一週間がたった頃である。


「そういえば、俺、バンドやめようと思うんだ」

老舗小劇場の建物とは到底思えないトタン張りの、パッチワークのような平屋の手前に間借りしている人気のカレー屋のカウンターの一番奥で、ベースボーカルは引っ越しの予定でも話すような口ぶりでそう言った。

「え……何で……か……聞いていい…………?」左隣から九野ちゃんの、蚊の鳴くような声が聞こえてくる。おれを挟んでその隣のキヨスミにまで聞こえるかどうか不安になるほど小さな声だったが、絶対音感のメインコンポーザー――だったはずの男の耳には、しっかりと届いたようだった。

「え? 普通に……可能性を感じられなくなったというか、ひとりでやってみたくなったというか」九野ちゃんの声は聞こえはしたようだが、その震え声の奥に隠された驚愕と悲しみまでは伝わらなかったらしい。身も蓋もない暴言を、汚い言葉を一切使わずにメンバーへ突きつけた薄情者は、こじゃれたタイル張りのカウンターの上に置かれた空の皿の上にスプーンを置き、ファンシーな中東風のグラスに入ったマンゴーラッシーの赤いストローをくわえた。

「最近体調もずっと優れないしね」

白と橙の混ざった液体を啜る男のあまりにも暢気な姿を目にしたおれは、さすがに怒髪天を衝く思いでカウンターを拳で叩いた。食いかけのキーマカレーのトッピングのカリカリ梅がわずかに宙に浮く。「ふっざけんな今作っとるアルバムはどないすんねん⁉」立ち上がって正論を頭上にぶちかけると薄情者は、「そんなもん三人で作ればいいじゃない」と返してくる。あまつさえバンドの魂の結晶であるはずのアルバムを「そんなもん」呼ばわりされたおれの怒りは火にガソリンを注いだようにさらに燃え上がる。なんとかおれを座らせようとする九野ちゃんとフッちゃんの腕を振り払い薙ぎ払い、「来月のライブは⁉」と続けるとキヨスミは「サポート入れれば? いいベーシスト紹介してあげようか?」と信じられないほど冷静な様子で応じる。その態度がさらにおれの怒りに油を注ぎ、薪を投入していることにこいつは気付いていないのか。おどれぬかしおってクソが、慰謝料ぐらい払ってくれてもおかしくはない。そんなおれの心からの叫びを完全に雑音としか認識していなさそうなキヨスミは、「いやいや普通に何でよ、離婚裁判じゃないんだから」と薄ら笑いさえ浮かべていた。さすがにこの後自分が何を彼に向かって口走ったのか、おれは自分でも全く覚えておらず、ただ記憶にうっすらと残っているのはまだうら若き美人店主にやんわりとなだめられ、出禁の気配を察したフッちゃんに促されるようにして、バンドもろとも逃げるように店から飛び出したのだった。

ギフトの発動を抑えるのは慣れているから全く問題はないのだが、ここまで感情が高ぶると暴発する可能性がある。万一道端の知らない路駐自動車のバンパーに穴でも空けないよう、深呼吸しながら駅までの道を歩いていた。あの店の皿やカトラリーや、天井から吊るされたセンス抜群の小さなシャンデリアなんかを割らずに済んだのは奇跡である。今までなら病院で処方してもらっている漢方薬を飲んで一時的に抑えていたのだが、今は頼れる薬もない。何故なら、この世に存在しないはずの体質を改善するために病院に行くわけにはいかないからだ。

小田急の改札前まで歩いてきたおれたち四人の隊列は、まるでお通夜のような雰囲気だった。キヨスミは自分自身がこの最悪の空気を作り出した張本人であるくせに、言いたいことを言い切ったためかただひとりどことなくゴキゲンの空気を発していて、そのくせ九野ちゃんやフッちゃんが何を聞いても適当な冗談ではぐらかすばかりだった。ふたりはおれのように激怒からの激詰めなどするはずもなく、メンバーの突然の心変わりをただただ心配しているだけなのに、だ。その様子が、またひとしれずおれのはらわたを煮えくり返らせた。

改札前でキヨスミはモッズコートを翻し、突然「組長、手出して」と言う。動揺しながらもとりあえず無言で手を出した。慰謝料とか言って五百円玉手渡されでもしたら殺すと思っていると、手のひらの上に置かれたのは見慣れない粉薬の袋だった。

「逆餞別? おれの秘蔵のコレクションから」

何もかもがわからんヤツやな、と思いながらその日は別れた。ひとりになった新宿駅のホームで、ポケットの中に突っ込んでいたその粉薬の袋をよく見ると、おれが以前処方されていた漢方薬と同じ成分の配合された市販薬だった。

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