あの後の続きと多分気のせいな体験談(202X.3.XX)

フッちゃんのバイト先のライブハウスで定期的に開催されている、若手バンドのフロアライブイベントへの出演が決まり、今はそれに向けての準備中だ。平日十五時の真人間が寄り付かない時間帯に売れないバンドを集めて陽の目を見させてやろうという趣旨の催しらしい。路頭に迷った若人を想った店長のご厚意なのは重々承知だが、ライブハウス業界もえらい必死なんやな、なんて思ってしまう。流行り病の沈静化に伴って、一時期よりは盛り上がってきたとはいえ、まだまだ売上好調とは言えないだろう、それどころかメタバースだのバーチャルアイドルだのが国を上げて推される昨今では、三次元に実在するライブハウスで泥臭く活動するバンドは落ち目と言っていい。ちょっとでも空いた時間を使ってバンドから金をむしり取ろうという意図を感じてしまうおれは、来週に控えたイベント出演に向けた練習にもあまり身が入らず、だからと言ってやる気がないわけではなく、おそらくおれを含めたメンバー全員が百点とは言えないが及第点には届いている、ぐらいの集中力のまま五時間のレンタル枠が終わった。

前の日に放送された恋愛リアリティショーの話を無限にしているフッちゃんと九野ちゃんを横目で見ながら、大して口を開くこともなく駅まで歩く。とっぷりと陽が落ちた街には、いかにも古着コーデという感じのいでたちのカップルやすっかり出来上がった酔っ払い外国人観光客数名、そしておれたちと同じように楽器を背負ったバンドマンたちなど、どうしようもない感じの人々ばかりが、海流を流れるクラゲのように漂っていた。明日は雨でも降るのか、空はどんよりと煙のような雲に重たく覆われている。飯どうしよっか、と誰にともなく口にすると、なあなあの空気のまま珉亭に決まり、少し引き返すことになった。

本多劇場が入居しているビルの裏口のような入口が、高架下をくぐった駅前すぐにある。来た道をそのまま引き返すよりも、そこから中に入って一階のテナントを突っ切ってしまった方が早い。一体何年前からここにあるのかもよくわからない古着屋や高そうな着物の反物を棚に並べた店や、いつも薄暗いタトゥースタジオが軒を連ねるエリアを突っ切ると、左右に細々した雑貨が所狭しと押し込められた棚が並ぶ通路に辿り着く。左手にはジブリやバーチャルアイドルのグッズたち、右手には地元に縁の深いバンドのグッズやCDが並んだ棚たちが、独特なお香の香りに包まれて密林のように茂っている。ヴィレッジヴァンガード下北沢店だ。暇つぶしには最適すぎるほど最適だが果たして買い物に便利なのかどうかはよくわからないこの店に差し掛かった時、九野ちゃんと来週の古着屋巡りの約束を取り付けていたキヨスミがおれの背後で言った。

「そういえばさ、こないだ面白そうな話聞いたんだけど。みんな聞いて?」

キヨスミ曰く、知り合いの女の子から聞いた話だというそれは、怪しさ満点の〝都市伝説〟だった。なんでも、下北沢の夜は数ヶ月に一回、深い霧に包まれる日があるらしい。その日にはいつも煩わしいほど人通りの多いこの街が、これといった理由もなくゴーストタウンのように静かになり、霧に包まれた自分たち以外の人間は人っ子一人姿を現さない。キヨスミの知り合いがそのまた知り合いから聞いた話には、その状態で近くの飲食店の中に入ると、がらんと空いた飲食店のメニューは日本語のようでいてどこかおかしい、読めない字で綴られており、スマホの時計はバグって『2050年』を指している……のだとか。

「なんか聞いたことあんな」割とノリのいいフッちゃんはそう応じながら、店を突っ切った先の喫煙所にあった自販機で、やおらCCレモンを買った。余った小銭のお釣りを、ダボダボのジーパンの尻ポケットに押し入れながら続ける。

「おれが聞いたのはラジオで芸人さんが言ってたやつだけど。なんか、当時の彼女と霧の夜に中華屋に行ったら置いてあった新聞の日付がおかしかったって話。タイムスリップじゃないかって言ってたけどな」

「その話は俺も元々知ってたんだけど」フッちゃんにつられたのか、ベースケースの肩紐部分にぶら下げていたペットボトルホルダーから、ジャスミンティーを取り出してキヨスミが一口含む。おれたちもつられて自然と、持参していた飲み物を口にした。誰もいない喫煙所の片隅で、夕食前のオカルトお茶会が始まってしまった。

「でも彼女が言ってたのは、ちょっと違う話だったんだよね」彼は勿体つけて続ける。

「その霧の夜に街に取り残される経験をした人は、芸人もミュージシャンも俳優も、みんな成功してるんだって」

「おもろ‼」「んなわけあるかいな〜」「いやまあ俺も別に、全面的には真に受けちゃいないけどね? でもなんか、いいなーって」おれたちは口々に喚きながらお茶会を切り上げ、ビルを出た。天井の低そうな建物ばかりが並ぶ街並みにはどこもかしこもぼんやりとした暖色の灯りが点っていて、その中には人の熱気がみっちりと詰まっている気配がする。ソーシャルディスタンスなんて言葉は、単なる数年前の流行語に成り下がったみたいだ。フッちゃんが、スポーツブランドのロゴの入ったマスクを直しながら言う。

「確かにあの芸人もテレビで頻繁にこそ見ないけど売れっ子っちゃあ売れっ子だな……こりゃバカにできないかもしれないぞ」

ユタの末裔のお墨付きを貰ったキヨスミは調子に乗ったのか、同じく知り合いの女子から聞いたという、件の霧の夜に遭遇した経験があるらしい有名人の名前を次々と挙げ始めた。確かにテレビで活躍している劇団出身の俳優や、賞レースで優勝した芸人、テレビにこそあまり出たりはしないがアリーナ公演まで成功させたバンドの名前まで出てくる。そこまで言われると謎の説得力を感じるところだが、しかし未だにおれは眉唾だった。

口の悪いベースボーカルとおれの唯一の共通の趣味は読書、特にミステリやスリラーを読むことだった。テーマやモチーフはなんでもいい、それこそタイムスリップやパラレルワールドが登場するSFのような世界観でもいいし、名探偵が活躍する古式ゆかしい本格ミステリでもいい。流行りの漫画のような、呪術や鬼が登場したり、血みどろのスプラッターも好きだ。キヨスミはおれが日頃絶対に読まないような恋愛小説やイヤミスなんかも愛読しているようだし、おれが高校時代に読み漁ったはずなのにほぼ内容を覚えていない純文学も好む生粋の読書家だが、意外なことに一番好んでいるジャンルが被っており、気がついたらお互いに、本の貸し借りなんて思春期じみたことをするようになっていた。

フィクションはあくまでも架空のものとして楽しみたいおれとは対照的に、キヨスミはスリルを求めるあまり、実際にまことしやかに噂されている都市伝説にもやたら詳しかった。ネットで情報収集するだけでは飽き足らず、フッちゃんのコネで紹介してもらったライブハウススタッフやバンドマン仲間からもよく情報を集めている。特に最近は、「それを見たら幸せになれる」「願いが叶う」系の噂にご執心らしい。ちなみに今年おれたちが初詣に行った、例のパワースポット――下北沢きっての由緒ある神社、北澤八幡宮を参拝することになったのも、キヨスミの提案によるものだった。どんだけ神頼みしたいねん。

キヨスミは気合を入れるように、白地に真っ赤な薔薇の模様が入ったコーデュロイの柄シャツの袖を捲った。いつになく饒舌である。

「でね、ここからは俺の考えなんだけど。これ、タイムスリップじゃないと思うんだよね。フッちゃんが聞いたっていう芸人さん含め、みんなパラレルワールドに迷い込んだんだと思うんだ」歩きながら腕を組み、名探偵然として喋るベースボーカル。「だって、タイムスリップだったらそこに自分たち以外の人がいないのはおかしくない?」

「つまり、そのパラレルワールドに迷い込んだら売れるようになる、と?」割と乗り気のフッちゃんが続ける。「それとも……自分が売れてる世界線のパラレルワールドに移動することができる、とか?」

「いいな~異世界転移じゃん」そーゆー異世界だったら行ってみたいな~と九野ちゃんも続く。なんやなんやふたりとも、ノリノリやないか。「実力で売れろや実力で! いくら売れへんからって都市伝説にまで頼んなや」思わず冗談めかして悪態をつくと、キヨスミがけろっとして言った。

「実力なら今だって充分あんじゃん。だって俺たち、ただツイてないだけでしょ?」


間もなく目的地に到着した。白字で店名が抜かれた真っ赤な看板は今にも割れてしまいそうなほど劣化していて、店先に設けられたショーケースの中のラーメンの食品サンプルは、食品サンプルなのに真上を向いていて肝心の丼の中身がよく見えない。ただでさえよく見えないところにガラスは油っぽくモヤがかかったように汚れているし、正体不明の紹興酒でも入っていそうなツボまで並んでいる。年季の入りまくったこの店が、しかし長年この街に集まるどうしようもない若者たちから何故絶大な信頼を得ているのかは、その扉の向こうから漂ってくる、美味そうなゴマ油と香辛料と出汁の混ざったような独特な香りが物語っていた。

しかし、ふと気づいた。幾度となくぼんやり眺めているはずのショーケースが、今日は一段とモヤッて見える気がする。いや、これはガラスが曇っているのではなく、辺りにモヤがかかっているのだ。そのことに気づくと同時に、背後で九野ちゃんが声を上げた。「ねえ、みんな見て……」

まさかと思いつつも顔を上げると――――街が、霧に包まれていた。

洒落た居酒屋や飲食店が立ち並ぶ見慣れているはずの街並みも、その向こうにある、独特なフォルムをした下北沢東商店街のアーチ看板も、全てが濃い霧の中にある。もしかしたら人通りはあるのかもしれないが、それすら霧に覆われてよく見えない。人間の気配すら、霧に隠されてしまったみたいだ。よく「ミルクを零したような深い霧」なんて言い方をするが、それほどの霧なんて山奥かロンドンぐらいでしか遭遇しないだろうと思っていた。つまりは、おれの人生には無関係なものだろうと。――――国民的ミュージシャンにでもなって、アビーロードスタジオでレコーディングでもしない限りは。

「もしかして……」「まじかよ」口々に言う九野ちゃんとフッちゃん。おれもまさか、と思いながら、その目を疑うような光景から一旦目を逸らす。キヨスミの声が店の方から聞こえる。「おっちゃん、やってる?」この期に及んでいつも通りに店の中に入っていく背中が、淡くなった霧の向こうに透けて見えた。彼が開けた扉の向こうからは「やってるよ〜」と陽気な大将の聞き慣れた声が聞こえるが……しかし、店の中から人の気配は感じられない、気がする。いつもならこの時間、もっと賑わっていてもおかしくないのだが。

フッちゃんと九野ちゃんも、キヨスミの背中に続いた。よく考えたら、この店に行く時にキヨスミが先陣を切って店の中に入っていくことなんてなかった。いつだってアイツは、この店に限らず、おれたちの一番後ろを、いかにも慎ましやかに歩いているだけなのだ。

恐る恐る店の中を覗く。熱気と一緒に、食欲をそそる匂いが濃厚に鼻の奥にまとわりつく。滑りそうでギリギリ滑らない、長年の油がこびりついた床に一歩踏み入れると、店の奥にテレビが見えた。はて、こんな場所にテレビはあったか?

今どき絶滅寸前のブラウン管の中では、旬を過ぎた大物司会者がひな壇に並んだ有象無象という言葉の似合うタレントたちを華麗に捌くトーク番組が展開されている。テロップには「ネット発イマドキの有名人の実態をぶった斬り!!」なんて、ビビッドな色の文字が並んでいる。もうもうとした湯気の向こうから聞こえてきたナレーションは、陽気な女性の声で、画面に映った若い男の経歴を説明している。「ありえないはずの超能力とバンドマンのリアルな日常が違和感なく馴染んだ独特の世界観が人気の小説……」

その、画面に映った男の顔を目にした瞬間、おれは自分の目を疑った。


何故なら、そこには毎朝鏡越しに出会う、見慣れすぎてもう目にしたくもない顔をした男が、緊張した面持ちをばつが悪そうに晒していたからだ。

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