#隙あらば自分語り

自己紹介とメンバーの話(202X.3.XX)

時の流れと空の色に何も望みはしないように生きていくことを幸福なのだと仮定するならば、おれはおそらく多分、これから一生幸せになることはないのだろうと思う。歳とった母親とふたり暮らしの自宅を出てから三回遭遇する信号機、今朝は一度も赤信号にぶつからなかった。時間通りの電車に滑り込み、車内は比較的空いている。運転免許なしの売れないバンドマンにとって宿命とも言えるデカいギターケースによって、満員の車内をさらに圧迫してしまうという事態も避けることができた。普段はマスクのせいですぐに曇るメガネも、今日は視界良好のままだ。絶え間なく椎名林檎が流れるイヤホンを一旦外して、車窓の並木道を眺める。

今朝のおれはとてもツイている。

恐ろしい。

新宿駅まであと二十五分余り。小田急線に乗り換え、目的地に辿り着くまでは四十分ぐらいはあるだろうか。乗り換えまでは車内に缶詰め状態になるわけだから、この身ひとつで行動ができるようになるのは新宿駅に到着してからだ。都営新宿線から小田急線の乗り換えホームへ向かう間には長い長いエスカレーターや階段をいくつも経由しなければいけないため、足を滑らせて転倒するはいくらでもあるはずだ――いやいや、それは流石にリスクが高すぎないか? 打ちどころが悪く救急車沙汰……はまだしも、後ろの人に激突してしまったら大ごとだ。自己の安寧のために他人を巻き込むのは賢くない。では改札機のバーを引っかかるか? ICカードの残金は足りているはずだが、改札機のエラーで外に出られないふりをして駅員室へ向かっても、余裕が有り余るほど今日は時間に余裕がある。それはもう恐ろしいぐらいに……いや待てよ、今朝のこのツキっぷりを清算する対価としては、それぐらいじゃあまりにも心許なさ過ぎないか?

窓の方を向き、マスクを少しだけずらしてさっきホームの自販機で買った黒豆茶を少しだけ口に含む。すっかりぬるくなってしまっている。ひとりブレーンストーミングの甲斐もなく、地下鉄は時間通りに終点に到着した。


改札を出ると目の前に長い地下街、右手には駅直結のファッションビルへの入口がある。ファッションビルの入口の前には短い階段と、そこから繋がるようにエスカレーターがあり、乗り換えのためにはその階段とエスカレーターを使うのが一番の近道だった。足取りは重く、たった数段がヒマラヤほどに感じる。表層では平静を装いながらふと地下街の方に目をやると、酔っ払いのような動きをしている男が視界に入った。スーツ姿のそいつは身なりはいっぱしのサラリーマンといった風体だが、足元は明らかに千鳥足といった様子で、しかし明確な攻撃性を持って辺りを歩く若い女性や細身に見える男性にぶつかりまくっている。ぶつかられた方は礼儀とばかりに会釈しているが、男は振り向きざまになにやらここに書くのも嫌なぐらいの罵倒語を発していた。しかも丁度その時、ベビーカーを押した若い女性が改札をくぐって来たではないか。やべ、これ間違いなくあのママさんターゲットなるやろ。

案の定男はママさんの方へ向かってフラフラと歩いていく。その時おれの脳裡には天啓が降り注いだ。通行の邪魔を避けるため階段の脇に立ったままだったおれは手摺に掴まり、段を上りながらしかし目線は肩越しに件の男の方を見る。手摺を持っていない方の腕が、有名海賊漫画の主人公のようにビョーンと伸びるイメージをする。おそらく体感としては五分ほどだが実際には十秒とかからなかったろう、眉間の辺りに燃えるような熱さを一瞬感じた直後、視線の先でフラフラ歩いていた男が俺の肩に思い切りぶつかった。

男にぶつかられた衝撃で、おれの身体は思い切りよろける。掴んでいた手摺になんとか身を預けて体勢を整えると、見上げた数段上に立っている男はキョロキョロと辺りを見回していた。当然だ、自分が立っている場所の風景が突然別の場所のものになっていたら皆戸惑うに違いない。マスクをしていない剥き出しの、擦り切れそうな男の局部のようなしわくちゃの赤ら顔が、必要以上に醜く見える。おれは精一杯の哀れみと小指の爪ほどの感謝を込め、男の顔を上目遣いに睨みつけて言った。「すみません」

男は怯えたようにおれから目を逸らし、顔面と同じぐらいしわくちゃの背広の背中を惨めに縮めて足早に階段を下り、改札へと向かった。

朝から亀頭顔のぶつかりオッサンにターゲットにされてしまった。やはりおれは今日もツイていないのだ。捻れた安心感を胸に秘め、小田急線に乗り込んだ。

電車の扉の窓の辺りに貼られた書籍の広告には、いかにも胡散臭い影のついた黒のポップ体で「ギフトは障がいじゃない!」と書いてある。申し訳程度の経歴が添えられた、著者らしい白衣の男の隣には、少しだけ小さめな文字で「体質はあなたの個性 神様から与えられたプレゼントを大切にするために」と印刷されていた。正午の車内のそこそこ埋まっている座席の誰ひとりとして気に留めない広告からおれも目を逸らし、再びイヤホンを耳に刺す。

おれが生まれる前まで超能力、と呼ばれていたものが、「ギフト」なんてふざけた呼び方に変わってからかなりの時間が経った。人間の脳味噌は実際の容量のうち十パーセント程度しか使用されていない、というような言説がおれたちの生まれる前からまことしやかに囁かれているが、ありゃ嘘らしい。実際には常に脳全体のどこかしらの部位が活動をしていて、そのことによっておれたちの生命活動は維持されている。そうでなければ、脳の九十パーセントを切除しても死なないはずだ。超能力の正体は、脳のすべての部位を一斉に百パーセントのパワーで活動させた場合に生じる身体感覚の拡張なのだそうで――詳しくは正直おれもよくわかっていない――、たとえば聴力を拡張させることによって他人の脳内で言語化されたばかりの、口に出す前の言葉を読み取ったり、手足の感覚を拡張することで少し離れた場所にあるモノやヒトを別の場所へ移動させたり、といったことができるようになる。当然それは誰もができることではなくて、偶発的に脳の全体の部位が百パーセントのパワーで解放されてしまう体質の人間にしかできない芸当で、それは医学的にはいわゆる障がいのひとつだと診断されるらしく、大半が子供のうちに発症して投薬治療や認知行動療法を受けて完治させるか、自力でコントロールできるようにしていくのがポピュラーなんだとか。

『〝ギフト〟当事者の生きづらさ エッセイで発信』

スマホに届いたネットニュースの見出しを眠い目で眺め、すぐにタブをSNSに切り替える。普通にただの障がいやないか、××医者が。いわゆる〝当事者〟であるらしいおれは、もしも件の医者が人の脳内を読めるタイプの〝当事者〟だったならぶん殴られそうな悪態を脳内で吐いた。


父親は、おれと母親のギフトに嫌気がさして失踪した。おれの三歳の誕生日、河内のドヤ街にあった団地の一角のスイートホームのリビングのちゃぶ台の上には、最愛のひとり息子へのプレゼントのような面をして、名前の書かれた離婚届と母親とお揃いの結婚指輪が置かれていた。いわゆる蒸発、というやつだ。

「これ、ダイヤややないねん、ジルコニアやねん。全然わからんやろ? 綺麗やろ?」と左手の薬指で煌めく結婚指輪だったものを大事そうに撫でながら喋るオカンは、よく結婚前の恋人だった頃の父親への惚気を五歳のおれに聞かせていたが、それはだんだんと失踪した伴侶への呪詛へと姿を変えていき、祖母手製の梅酒を傍らに男はみんなクズや、と管を巻くようになっていった。オカンが感情に任せて梅酒のグラスを念力破壊する度に、同居していた祖母は「ひとり息子にそんなしょうもない話聞かせんなや!」と叱りつけていたが、ばあちゃんの努力もオカンの呪詛も虚しく、ひとり息子はクズの代表のような職業を目指す青年へとスクスク成長したのだった。

とはいえ母ひとり子ひとりである。しかも祖母はおれが中学二年の頃に娘と孫を心配しながら死んだ。高一で上京する時も、「心配やから着いてくわ」と言って聞かない母親を邪険にすることは、胸が痛んでできなかった。その結果、世のバンドマンのようにバイトで自分の糊口だけ凌ぎながらライブや制作に生活の時間の七割八割を費やすわけにもいかず、嘱託職員として看護助手をしている母親とふたり暮らしをしながら、一日十二時間労働の契約社員として働きつつメジャーデビューを目指すという邪道を歩んでいるのが、今のおれの生活だ。当然、彼女も家に招けない。まあどっちみち今彼女おらんけど。

別に苦労自慢がしたいわけではない。いや……嘘ついた。多分自慢したいんだろう。だって、他人の苦労話ってバズるやん? 今日も昨日もSNSでは他人の不幸が簡易でかわいい漫画になって同情を集めているし、有名人の波瀾万丈な半生を綴ったエッセイは一定数のプレビューを集め、本になれば確実に売れる。どうやら「かわいそう」や「共感」というシンプルなインパクトは没個性主義の前頭葉を適切に刺激するらしく、最近では自分がギフト保有者であることを〝カミングアウト〟することで人気を手にした有名人も少なくない。

SNSのタイムラインには、最近人気のアーティストを続々と輩出している、大手音楽レーベル社長の自伝本の広告がここ最近頻繁に表示される。おれでもよく知っているメジャーバンドのメンバーによるものらしいコメントがビビッドなピンクの文字で踊る広告には、自身も元バンドマンだという社長の近影がこれから向かおうとしている街の風景をバックに映し出されていた。ぼやけた商店街を背に人の好さそうな笑顔を浮かべる、黒髪センターパートにピアスバチバチの優男。これといった特徴もないが、今年で五十歳には到底見えないほど若々しかった。本文の引用らしい一文が黒の明朝体で、優男の隣に記されている。「弱点は史上最強の個性になる――」

自分と同じ念力系のギフトを持ち、子供の頃大層苦労したというこの有名人が、おれはあまり好きになれない。


駅前に到着すると短パンの尻ポケットに入れていたスマホが震える。通知をタップするとバンドメンバーだけのグループに新しいメッセージが表示されていた。

「組長もうすぐ着く?」

生まれながらのガタイの良さと目つきの悪さのせいで学生時代から呼ばれ続けている物騒な渾名を、先々週にベースボーカルと一緒に食べに行ったというパンケーキの写真のアイコンが呼びつけてくる。前日が激務の金曜日だったことを知っているメンバーはおれの遅刻に関しては悪くは言わないだろうが、普段は十分前行動を心がけている身としては少し気が引ける。だからというわけではないが、「駅前に着いた」とだけ返信したおれに対し、「コンビニ寄るならアイス買ってきて! おれアイスの実!」とおつかいを言いつけてくるパンケーキアイコンのドラマーの横暴に、おれは素直に応じることにした。どうせ昼飯買って行こうと思ってたし。

最近再開発が進み、急に小綺麗になった駅を出るとすぐ目の前のビルの一階にコンビニがある。上階にはファミレスがあって、そっちに活気が吸い取られでもしているのか、ここのコンビニはいつも寒々しい。菓子パンの品出しをする汗っかきの暑苦しいバイトの横を通り抜け、まっしぐらにアイス売り場を覗くと、再びスマホを見た。他のメンバーからもリクエストが来ている。部屋にでも飾ってあるものなのか、正体不明のピンクのフラミンゴの置物をアイコンにしたベースボーカルが「俺パルムがいい」とだけ送り付けてきた。続いてパンケーキが更に「フッちゃんはチョコモナカジャンボだって」と続ける。ひとの分まで勝手に注文すなや、と思っていると、案の定勝手に注文されたギタリストから「おい勝手に送るなよ!」とツッコミが入った。絶対フリー素材かなんかから適当に選んだやろ、という感じの、何やら浮世絵調の黄色い着物を着た男の絵のアイコン。すかさずパンケーキが「え?チョコモナカジャンボじゃないの? 笑」と続けると、「いやチョコモナカジャンボがいいけど普通に」と帰ってくる。どうでもいいが顔合わせてるんだから、そういう漫才は口頭で勝手にやってほしい。おれはふたりの漫才によって押し流されたリクエストを辿り、アイスの実とパルム、チョコモナカジャンボ、そしてクーリッシュチョコレート味を確保した。

アイスの群れとハンバーグカレードリア、チキンカツサンド、ほうじ茶とアクエリアスそれぞれ五百ミリリットルペットボトルが入った有料三円のビニール袋を提げ、『下北沢南口商店街』と書かれた緑色のアーチ看板を潜るおれはバンドマン。一昨年の音楽での稼ぎは完全にマイナスだったが、去年はこの街では名の知れた老舗の小さなライブハウスで初のワンマンライブを成功させた。ここ数週間でぐっと気温が上がった三月の、賑やかな土曜の午後の商店街。「一枚五百円から」と書かれたポップが店先に踊るチェーン展開の古着屋の前を通って、行き慣れたスタジオを目指す。一時間一〇八〇円の、良心的激安プライスなリハスタ。ワンマンまで漕ぎ着けたヤツらがなんでそんなスタジオ使ってるのかといえば、ワンマンライブ前におれたちがネットに公開していたMVを観てマネジメントを名乗り出てくれた老舗のインディーズレーベルが、ワンマン直後に倒産したからだ。渋谷の奥地に居を構えてもう三十年になるというそのレーベルは夢にまで見たメジャーのレコード会社とも付き合いがあり、そのまま行けばメジャーレーベルとの契約も夢じゃないはずだったが、ワンマンライブの収益に喜ぶ幼気なおれたちのスマホに届いたプレスリリース一本で、呆気なくその歴史を終えていた。息が止まったような心地で井の頭線に乗り、四人でオフィスがあった場所までわざわざ足を運んでみたが、そこはまるで夜逃げでもしたかのように、デスクや書類棚など大きな家具を残したままもぬけの殻になっていた。ちなみに、ワンマンで稼いだギャラは勿論倒産したレーベルの夜逃げの資金に消えたようだった。そんな、狐につままれたような気分を引きずったまま、それでもバンドは続いている。

ドラッグストアが一階に入居した雑居ビルの小さな入り口をくぐって階段をのぼる。目指すのは三階。ツイてないのがスタンダードな人生が長いせいか、〝ツイている〟という状況に怯えるようになってしまった。たかだか赤信号に引っかからなかっただとか、電車が混んでいないだとか、そんなことでも簡単に怯えてしまう。心の安寧を取り戻すために、いつからかおれは自分のギフトを使って、自分自身にちょっとした不幸が降りかかるように仕向けるのが癖になっていた。これほどまでに非生産的なギフトの使い方はなかろうとは思うが、やめられないのだから仕方がない。幸せになるのが怖い幸せになるのが怖い不幸になる準備はできても、と吉澤嘉代子も歌っている。

ベビーメタルのライブTシャツを着た不愛想な受付のドレッドヘアに手続きをしてもらい、メンバーの待つ部屋へ向かった。店内一番奥の、重い扉を引く。清掃が行き渡っているのか果たして心配になってくるほど煙草臭い部屋の中央に、見慣れないド派手なギターを目撃して思わず部屋を間違えたかと思った。

「ジミーペイジのシグネチャーモデルだよ」

当のギターを床に立てるようにして手にしている長身のギタリストは、ニューエラの黄色いキャップを外して彫りの深い眉間に皺を寄せ、困り果てたように言った。

確かによく見ると、焼けたような木板のボディに赤と緑で炎と花のような模様が描かれた、見覚えのあるテレキャスターだ。通称ドラゴンテレキャスター。「どしたんこれ」純粋な疑問を投げかけながらビニール袋からチョコモナカジャンボを手渡すと、「貰ったんよ」とだけ帰ってくる。部屋の右手側にある休憩用のボロいソファに埋まっていたドラマーが、スマホから顔を上げて我がことのように嬉しそうな声を出した。「そうそう! フッちゃんこないだの怪談コンテストで準優勝だったんだって! そんで、景品で店長から貰ったらしいよ、ジミーペイジのギター。すごくない⁉」彼が手にしているスマホからは、小さな音でKPOPアイドルのライブ音源が漏れ聞こえている。

「ああ、あの、バイト先で主催してたってやつ?」おれが言葉を返すと、本人よりも数段嬉しそうにドラマーが頷いた。数え切れないほどブリーチをかけているはずのピンク色の髪が、少女漫画に出てくる男のようにサラッと揺れる。おれが手渡したアイスの実を開封するドラマーの隣に腰かけたギタリストは、やはり不服そうにチョコモナカを齧って言った。

「でもさすがに俺がジミーのギター持ってんのはさ、悪い冗談くない?」

ギタリストの八重樫藤丸通称フッちゃんは、金髪ロン毛でライブハウススタッフのバイトをしている絵に描いたようなバンドマンだが、実家が沖縄で代々続いている由緒正しい霊能者、いわゆるユタの家系だ。本人曰く「子供の頃からロックスターになりたかったから後を継ぐ気はなかった」とのことだが、現実は裏腹に彼に人智を逸した視力を与えたもうた。これもまたギフトの一種で、昔は千里眼、と呼ばれたようなやつだ。ギタリストとライブハウススタッフの傍ら、その特性を活かしてライブハウスのお客さんや関係者、バンドマン仲間などからの依頼を受けて人探しやモノ探し、迷子のペット探しに精を出したり出してなかったりするお人好しのフッちゃんは、その性質上他人の心霊体験などの話を耳にすることも多い。自分でも口から生まれてきたと自称するほど喋り好きなのもあってか、そんな体験を活かしてライブハウス関係者の主催する怪談イベントなんかに出演することも多いのだが、当の本人には信じられないほど霊感はないのだという。

よりによって悪魔崇拝の噂があった偉大なギタリストのシグネチャーモデルをゲットしてしまったユタの末裔に、思わす両手を合わせる。南無阿弥陀仏。すると、背後から茶化すような声が飛んできた。

「残念、俺がギタリストだったら代わりに貰ったんだけど」

振り返ると、ベースボーカルがパイプ椅子から立ち上がり、おれが腕にかけているビニール袋から勝手にパルムを取り出していた。手にしたアイスの赤い袋で、おれの鼻先を指す。「組長は? 要らない? ドラゴン」おれは簾のような金髪の前髪に透けた、眠たげな垂れ目といかにも軽薄そうな泣きぼくろを睨み返して言った。「置いとく場所がないわ」ベースボーカルは大して残念そうな顔も見せず、パイプ椅子に戻って黒スキニーパンツの脚を組み、パルムをくわえながら片手に持った涼宮ハルヒの消失に目を落とした。

「今年ももっとイベント出んの?」「正直勘弁したいとこだけど、広報活動してくるわ〜」「おれまた観に行く! 絶対行く‼」「やめとけやめとけひとりで帰れなくなるぞ! 寝る前にトイレも行けなくなるし」「大丈夫だって! でもやっぱパワースポットって効果あるのかもね〜」小学校一年生の頃からの幼馴染み同士だというふたりは、ひとつのソファの上で楽しそうにじゃれているが、それを横目におれは要らんことを思い出していた。ドラマーが言うパワースポット……おそらく今年の正月にメンバー全員で初詣に行った北澤神社のことかと思うが、おれたちを路頭に迷わせた例のレーベル倒産の一報は、その帰り道に舞い込んできたはずだ。すると、すかさずドラマーが悲しそうな声で「それは言わない約束でしょお」と返す。まるでおれの心を読んだかのような言い草だが、実際、多分そうなのだ。

ドラムの九野ヒロ通称九野ちゃんは、いわゆるエンパスのようなギフトを持って生まれている。他人の気分を察知しやすいだけでなく、口から言葉として出る前の、脳内で言語化されたばかりの思考を読み取ることができるらしい。相手の本音が読めてしまうなんて随分と病みそうなギフトだが、本人曰く「言語化されてる思考なんてどのみち口に出す予定のものだろうからそんなにつらくなるほどのものでもない」のだという。メンバー随一の美形の割には女絡みの揉め事もほぼなく、竹を割ったような性格の彼を見ていると、さぞ素敵なご両親ご親戚方に育てられたのだろうと、幼稚園児時代の彼を育んだ埼玉県飯能市の土壌に感謝したくなるほどだった。ちなみに専門を卒業してすぐから昨年まで地下アイドル活動をしていたらしい、が、そのときのことを話すと本人が怒るのでここで書くのはやめておく。

「人の心勝手に読むなや、便利なギフトやなあ」天邪鬼な気持ちで言ってやると、純粋なドラマーは「そうでもないって!」と謙遜した。「だってほら、キヨちゃんの気持ちだけは読めないし」

純情なドラマーに名指しされたベースボーカルは気付かぬうちに平らげていたパルムの棒を口の端に咥え、目は文庫本のページに落としたまま、厚い唇をニヒルに曲げた。「光栄だね、魔女の弟に褒められるとは」

嫌なことを言う奴やな、と思った。

ギフトは基本的に遺伝で受け継がれることが多い。九野ちゃんと同じ強力なエンパスを持って生まれた彼の三歳年上の姉ちゃんは、〝現代魔女〟を名乗って動画配信者として最近ちょっと人気を集めている。とはいえその取り巻きは、陰謀論者や暴露系配信者など……いわゆるが多く、彼はそれを少し嫌がっていた。つい先日は九野姉曰く「魔女の透視」によって、元アイドルと人気俳優のビッグカップルの離婚を予知して双方のファンから大バッシングを受けながらもチャンネル登録者を爆増させていた、らしい。


ギフト保有者は脳の機能が高次に働きすぎるために五感が鋭敏になりやすく、脳が疲労を起こしやすくなる傾向にある、と言われている。しかしその分五感の解像度が高いため、優れた芸術的才能を有することが多いという研究結果もあるのだと、昔なにかのネット記事で読んだ。高名な医学博士か誰かが監修していたはずのその記事の通り、確かにテレビでよく見るタレントやSNSで人気の芸術家、作家、それにミュージシャンにも、ギフト持ちだとカムアウトしている人間は比較的多い気がする。でもおれは、そんなもんは単なる確率論で、別の理由があると思っている。いわゆる〝経験者は語る〟ってやつだ。当事者であるところのおれの実体験から言わせてもらえば、そんなものは結果論にすぎない。個性という小綺麗な言葉では済まされないほどに、いわゆる健常者とは違う部分を持っている人間は、芸術とやらに頼らないと心を保てなくなってしまうことがままある。良く言うならば、心の支えってやつがどうしても必要になるのだ。強欲で感情的な生き物である人間は、衣食住が揃うだけでは生活を保てない。心の支えを求めて音楽や小説や映画やテレビや動画に没頭する必要がある。没頭すればするほど、表現する側に回りたくなるのが人情だ。その結果、ギフト保有者に〝芸術的才能〟があるように見える、というだけの話だ。

ギフトがあろうがなかろうが、今も昔もみんな同じだ。才能なんてもんを発揮できるのは、ごく一部の選ばれた人間だけ。大半のギフト保有者は自分に果たして才能があるのかないのかすらはっきりしないまま、単なる落伍者として必死に社会生活にしがみついて生きていくことになる。その点、ワンマンライブまでさせてもらえたおれたちなんてまだ、ツイてる方なのかもしれない。

そんな落伍者だらけのイカれたメンバーの中で、ベースボーカルの平清澄は、おそらく唯一ギフト持ちではない。彼はメンバーの中で一番常用している薬の数が多く、そして、一番の天才だ。

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