解釈

 イギリスにH・G・ウェルズという作家がいる。『透明人間』という作品を書いて、話題になった。ところが、何年かして、完全に透明な人間は存在しない、という読者の反論が現れた。仮に人体の全ての部分は透明でありうるとしても、ただ一箇所、不透明でなくてはならない部分がある。眼球である。目が物を見るには、眼球が曲折を与える必要があるけれども、透明な目では曲折を与えることはできず、したがって物を見ることは不可能である。ほかの所は透明にできても、目だけは、そうならない。つまり、外から見ても目は見える、すなわち、不透明でなくてはならない、という批判である。作者のウェルズもこれをいれて、自分の誤りを認めた。

 文学の研究において、表現をあるがままに読む、ということが言われるたびに、ウェルズのこの透明人間のことが思い合わせられる。結論を先に述べてしまえば、作品をあるがままに理解することはできないということである。もし、完全にあるがままを読み取る読み方ができるなら、その人は精神的にも透明人間のようであることになる。つまり人間としての理解力を持っていないのである。そうでなくてはあるがままを理解、つまりコピーを作ることはできない。

 人間はみな、理解力によって、対象を解釈して初めて分かるのである。それは対象の完全なコピーではなく、理解による加工、処理とも言うべきもので、元のままではない。理解力は対象を自己の内部へ取り入れるのに不可避的な改変を施す。それを否定するならば、対象は、物理的にも心理的にも元のままでありうるであろうが、対象に向かっている人間そのものは存在しないも同然というとになるのである。

 人間は物事を受け入れようとすれば、必然的に理解という加工、修正、変形を加えないわけにはいかない。言い換えると、人間は解釈によってのみ物事を理解すること、我がものとすることができる。あるがままを取り入れるのは理解ではない。解釈を経ないものは存在しない。

 我々が読むものは、好むと好まざるとにかかわらず、いかなる場合も、我々の解釈を受ける。その結果、理解されるものは、必ず、元のものとは多少とも違ったものになる。完全に元と同じものを受け取ることはできない。人間であるならばこの解釈を否定することは不可能である。いかに己を殺して対象に参入しようとしても、やはり解釈者の考えがどうしても混入することになる。対象をあるがままに理解するということは、言葉のうえでしか存在しえないことになる。

 意味などはお構いなしに、原文をただ丸暗記するのは、解釈が加わっていないから、いちおうあるがままを再現しているようにみえる。宗教における教典の朗唱は、その点で、没我的受容と言うことができるが、それだけではしかし、本当に理解していることにならない。いわば、論語読みの論語知らず、の類いである。

 ただ、口まねで声を出して読むだけならばともかく、訳を分かろうとすれば、そのとたんに、広い意味での読む側の主観が働く。それによって、テクストはその都度新しい姿のものにならないではいない。教典にしてもさまざまな異なった解釈を受けるのを免れることは困難である。

 以上が、受容者側において避けることのできない解釈の原理によって、対象、表現は、あるがままの姿において内容が伝達されたり、移動したりすることがないとする理由である。これは受容者側の事情であるが、あるがままに理解できないのは、これだけにとどまらない。受容者とは別に表現そのものに内在する性格によっても、完全な再現的理解ができないようになっているのである。

 表現というものは、どのように細密に再現的であっても、なお完全に全てのことを表すことはできない。表現は必然的に、省略をしなければ成立しない。

 表現にはいたるところに、空白部がある。読み手は、それを適宜、補充することによって初めて意味を了解する。その補充は極めて個人的なものであるから、読み手が変われば、補充も違い、したがって、微妙とはいえ、必ず、各人各様の違った解釈、意味になるはずである。十人の読者がいれば、十人の異なった解釈が生まれる道理である。

 表現は、目に見えない、うっかりしていては意識されることもない多くの不確定な部分を多く内包している。これを確定的なものにすることによって初めて表現は理解され、コミュニケーションが成立するのである。表現は書き手の創造性によって生まれるが、これが読まれ、公的に流通するには、受容者の二次的創造性とも言うべきものの助けを借りなくてはならない。これまでの文学研究は、作品の全てが作者の創造であるとして、それをそのまま読者に受け入れることを要求してきた。 読者の創造性が全く問題にされなかったのは、極めて不当であると言うほかはない。

 読者の解釈ということと、読者による表現に在する空白部の補充ということは、実は同じことである。人間に解釈本能とも言うべきものが備わっているからこそ、表現が、白、欠落を内蔵しながらも存在を許されるのである。逆に言うならば、表現が自律完結性を持ってないからこそ、人間は解釈本能を発揮できる、しなくてはならなくなる。読者の解釈と表現の不確定性とは表裏をなし、 補完的関係にあるとしてよい。

 あるがままに読む——実に長い間、我々は、この不可能な呪文に縛られて、表現理解の実態がら目をそらしてきたことになる。それは読者が作者に比べてはるかに未成熟であったという状況によって支えられてきたにすぎない。表現の意味の成立、理解は作者と読者の協同によって成立するものであることをはっきり認めなくてはならない。

 読者は透明人間ではない。解釈という創造を行う個性である。そして、これが、作者の手を離れたときの作品とは違ったかたちの古典作品をつくる原理になる。

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