言葉は世界を切り分ける

 私たちは母語である日本語で、膨大な語彙を持っていて何万もの言葉を知っていて、それらの言葉の大半を実際に使い、人と会話をしたり、文章を理解したり、書いたりしている。しかし、「言葉 (単語)の意味を知っている。」ということはどういうことなのだろうか。「知っている」言葉は必ず実際にコミュニケーションで使えるのだろうか。

 実際に使うために言葉について何を知らなければならないかということは、母語よりも外国語のことを考えたはうか分かりやすいかもしれない。外国語では言葉を自在に使ってコミュニケーションを取ることは難しい。多くの人は、それは「知っている言葉」が少なすぎるからだと考える。外国語の習熟度の測定では、辞書の語義を与え、多肢選択の形で複数の語の候補から語義に合うものを選ぶとい形式のテストが一般的だ。正しい選択肢が選べれば解答者はその単語を「知っている」と判断されるわけである。しかし、語彙数が多ければ外国語が使えるというわけではない。日本人には外国語の難しい文献を読むことができても、話したり書いたりするのは苦手という人がとても多い。その原因はほとんど、辞書に書いてある語の意味を覚えていても、語の使い方が理解できていないことにある。では、辞書の定義を覚えていて多肢選択問題では正しく選べるという意味の知り方と、実際にその言葉を「使える知り方」は何が違うのだろうか。

 前者の知り方は「点」としての意味を知るだけだが、実際に言葉を使うためには「面」としての意味を知らなければならないのである。単語の意味は単語単体では決まらず、それぞれの意味領域の中に属する一群の関連する単語どうしの間の関係の中で決まる。

 色の名前を例に考えてみよう。色は光の連続スペクトルであり、私たちの目には電磁波のうち三八〇ナノメートルから七八〇ナノメートルの波長の範囲でさまざまな色彩が連続して映っている。色は色相、彩度(鮮やかさ)、明度(明るさ)という三つの属性で物理的に数値として表すことができる。私たちの目は何万もの「物理的に違う色」を識別できるが、それらの「違う色」をごく少数のがテゴリーに分節して名前を付け、分類をしているのである。トマトの色、消防車の色、イチゴの色はそれぞれ物理的には異なる色であるが、私たちは皆「赤」とよぶ。つまり、「赤」という言葉は特定の物の色、つまりスペクトルの中の点を指すわけではなく、連続スペクトルの中の特定の範囲を指す。そしてその範囲は「赤」を取り囲む色の名前が指す範囲との関係によって決まるのである。

 一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中でその単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。これは母語でも外国語でも同じである。母語と外国語の意味領域が同じように切り分けられていて、母語の単語と外国語の単語が同じ範囲できれいに対応するのなら、外国語を学習するときには、単に母語の単語を、それに対応する外国語の単語に置き換えればよい。つまり、音をすげ替えればよいだけの話である。しかし、実際にはそうはいかない。異なる言語は世界を異なる仕方で文節するからだ。

 日本語と英語の色名の数は大体同じで、ほぼ一対一対応が可能な色の語彙を持つようにみえるので、色の名前の付け方は人類共通なのかとってしまいそうだ。しかし実際には、世界の言語の中に色の名前が二つしかない言語もあるし、大多数の言語は色名が四つから七つの間である。日本語や英語のように十前後も色の基礎名がめる言語は少数派なので ある。ほぼ 一対一対応が可能な色の語を持つようにみえる英語と日本語の間でも、詳しく調べてみると、日本語と英語のそれぞれの色の名前の範囲は実はぴったりと同じというわけではないことが分かる。英語で書かれた小説を読んでいるとよく “orange cat”という言い方が出てくる。しかし、それは私たちの思い浮かべる鮮やかなオレンジ色を指しているわけではなく、少し赤みがかった薄茶色を指している。つまり、英語と日本語ではオレンジ色と茶色の境界が大きく異なっていて、日本語で「明るい茶」や「ベージュ」は英語では“brown”ではなく“orange”の範疇はんちゅうに入るのだ。「青」と“blue”も同様に、範囲は同じではない。私たちが 「灰色」とよぶ、ほんの少しだけ青みがかった色は英語では「ブルー」と見なされるようである。私は以前「ロシアンブルー」という種類のネコを飼っていて、毛の色は「灰色」としか言いようがないのに、なぜ「ブルー」なのだろうと不思議に思っていたが、さまざまな言語話者の色の認識についての研究をしている中で、英語 をはじめとしてヨーロッパの言語では、紫や青みがかった灰色も「ブルー」として見なされることを知ったのである。

 このように言語は連続的で切れ目のない世界に対 して線を引き、世界を切り分ける。人は当然ながら無意識にそれぞれの母語の言葉での区切り方があたりまえで、最も自然な世界の分割の仕方だと思っている。しかし、言語によって線引きの仕方は多様だ。それにもかかわらず、母語と外国語で、一見対応する単語があると——つまり本来「面」である意味のどこかの「点」で二つの言語の単語の間に重なりがあるとき、その外国語の語が「面」としても母語の語の意味と重なる、と考える思い込みは非常に根強い。塗り分けられた概念の意味地図自体が母語での塗り分け方と同じだと思ってしまうからで ある。

「言葉を知る」ということは単語一つの意味を点として漠然と知るということではなく、その言葉を取り囲む他の単語との関係を理解し、それらの単語群が意味の地図の中でどのように面として塗りけられているかを知ることだ。言い換えれば、コミュニケーションを取るために言葉を「知る」ということは、意味の地図——これを語彙のシステムと言ってもよい——を持ち、その中で、それぞれの言葉の場所が面として分るということなのである。

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