「身銭」を切るコミュニケーション

 ブザンソンのスーパーでグラスを買った。レジでお金を払おうとしたら、店員に何か言われたが、聞き取れない。もう 一度言ってもらったが、やっぱり聞き取れない。呆然としていると、店員が肩をすくめて「もう、 いいよ。」という諦め顔をした。

 スーパーのレジで、キーボードをたたく片手間に発した質問である。それほど答えに窮するような難しいことをきいてくるはずがない。気になるので、カウンター越しに身を乗り出して、「今の質問、私に何をきいたのか、気になるので、教えてください。」と一言一 言区切って言ったら、向こうも一 言一言区切りながら「『郵便番号は何ですか?』ときいたのだ。」と答えた。「グラスを買うのに郵便番号が必要なんですか?」と重ねて問うと、「どこから来たお客が、どんな商品を買うのか、統計を取っているのだ。」と教えてくれて、ようやく腑に落ちた。

 今回私が聞き取り損ねたのは「郵便番号」code postaleコード ポスタルという単語である。予想もしていないことをきかれると、簡単な単語でも頭に浮かばない。レジで「年齢はいくつですか?」ときかれても、たぶん私はぽかんとしていただろう。私たちの聞き取り能力は多く文脈に依存している。だから、「予想の地平」にないものは簡単な言葉でも聞き取れないことが ある。

 前に家の近所のスーパーのレジでも、やはり店員に何かきかれて意味が分からず尋ね返したことがある。商品のバーコードをせわしく読み取りながら、店員が「ホレーザ、ゴリョスカ?」ときいてきたのである。「は?」と二度尋ねてから、ようやく「保冷剤」という漢字が頭に浮かんだ。こういう種類のコミュニケーション不調を以前はあまり経験した覚えがないような気がする。

 卒業生が家に遊びに来たので、その話をしたら、婦人服の店で働いている一人が「そうなんです。」と応じてくれた。彼女の店ではレジで支払いのときにお客に「サービスカードはお持ちですか?」ときくのだそうである。お客の中のかなりの人は「サービスカード」を聞き取れずに「は?」と問い返す。二度目のときに彼女は両手の指で四角を作り、「お買い上げ分のポイントをつけるカードをお持ちですか?」と説明を変えるのだそうである。それでめでたく話は通じる。

 ところが、最近入社してきた若い店員の中はこの「言い換え」ができず、「サービスカードお持ちですか?」を同じ口調、同じ早さで幾度も繰り返す者がいるのだそうである。だから、話が通じない。しかたなく、肩をすくめて話を打ち切ることになる。

 私は「話が通じないので、肩をすくめて話を打ち切る。」という作法を好まない。そのような態度をとる人は、自分の言葉が相手に通じない理由を、もっぱら相手の理解力の不足に帰し、自分が相手の「期待の地平」から外れた言葉を口にしている可能性を吟味していないからである。

「保冷剤」も「サービスカード」も普通の日本語である。成人の日本語話者が理解できぬ言葉ではない。それが聞き返されるのは、「期待の地平」の設定にずれがあるせいである。そういう場合には両者のどちらにとっても誤解の余地なくコミュニケーションが可能なレベルを探り当て、そこから再度スタートする努力が必要である。この努力のことを「コミュニケーションのコミュニケーション」あるいは「メタ・コミュニケーション」と言う。電話で「もしもし」と言ったり、大教室で「後ろの方、聞こえますか?」と言ったりするのがそれである。コミュニケーションが成立していることを確認するための手間暇のことである。

 実は、「肩をすくめて、鼻をフンと鳴らす。」というのも一種のメタ・コミュニケーションなのである。この動作によって、「私のメッセージはあなたに届いていないが、このコミュニケーション不調の原因は主にあなたにある。」というメッセージは誤解の余地なく相手に伝ええているからである。私たちの言語状況の問題点は、メタ コミュニケーションの能力が衰えているということではない。そうではなくて、このような他責的なメタ・コミュニケーションが発達しているということにある。

 しかし、コミュニケーション不調の原因は必ず両者にある。一方だけが有責で、他方にはとがめられるべき瑕疵が全くないということはありえない。だから、コミュニケーションを回復するためには、まず自分が「身銭」を切って、分岐点まで戻るための一歩を踏み出さなければならない。

 私がカウンターから身を乗り出し、言葉を一言一言区切って発音したのは、その「身銭」であり、それに一言一 言区切って答えたのは、店員なりの「身銭」である。私は彼女のこの「手間暇」を多とするのである。

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