水の東西
「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、何となく人生のけだるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこばす。緊張が 一気に解けて水 受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが 一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在強調しているといえる。
私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を魅きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持っをくつろがせていた。
流れる水と、噴き上げる水。
そういえばヨーロッパでもアメリカでも、街の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水はさまざまな趣向凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添え物にすぎず、壮大な水の造型が轟きながら林立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音を立てて空間に静止しているように見えた。
時間的な水と、空間的な水。
そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので、現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、街の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。
西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもある だろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由はそういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が 美しいのであり、圧縮したりねじ曲げ粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。
言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、恐らく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」いう仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の表れではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聴いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。
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