技術が道徳を代行するとき

 愛知万博では、微生物によって分解される生分解性プラスチックでできた食器やゴミ袋を使用したことによって、七二〇トン分の二酸化炭素の排出を削減できたという。 トウモロコシを原料とするコップや皿などの食器ニ〇〇〇万個、ゴミ袋五五万枚を使ったためだ。何度も使い回せる食器で余分なゴミを減らす、二酸化炭素を出さない ような製品に変える、などの技術のおかげである。環境との共生を謳った愛知万博らしい成果であったと言える。

 しかし、ふと疑間に思うこともある。道徳が技術に肩代わりされていくことでよいのだろうか、という疑問である。愛知万博では、食器やゴミ袋に環境に優しいものが使われるようになって、 何も気にすることなく容を捨てることができた。これが堆肥になると思えば、使い捨てすることの後ろめたさを薄れさせてしまったのだ。技術が道徳の代行をしてくれたためである。

 本来、私たちは、自らの良心と行動によって地球環境を守るよう求められている。地球に優しいと自ら感じたことを自発的に実行し、生活まで変えていこうとする覚悟が重要なのである。そのような意識は人間が持つべき「道徳」として定着しつつある。道徳と言えば堅苦しいが、人間としての行動の規範のことで、そのような発想(環境倫理というべきかもしれない。)を身につけた人間が増えていくことこそが人類の未来への希望とも言えるだろう。

 ところが、そのような個人の道徳心を涵養するのではなく、 技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている。それによって表面的には道徳が機能しているかのような状態が作りだされるのである。(『情報倫理学入門』後藤弘志ごとうひろしの論文による。)

 映画館や学校では通信妨害電波を発信して、ケータイを実質的に使えなくする方法が広がり始めている。これによって映画館や学校の静寂が守られるというわけだ。また、クルマの速度制御装置を阿限速度以下になるう設定しておけば、スピード違反をしなくて済む。速度制御装置を取り付けようと考えたのは道心からきたものだが、後はそれにお任せしておけばもはやクルマのスピードのことを考える必要がない。

 確かに、それらによって公衆の安寧と安全が保たれ、地球環境に優しい行為が自動的になされるようになるのだから、けっこうなことと言うべきかもしれない。

 しかし、技術が発達すれば、その分だけ私たちの能力が失われていくことに注意する必要がある。鉛筆に替えてシャープペンシルを使うようになって子供たはナイフを使うことができなくなり、クルマを使うことが増えて走力が衰え、エアコンがあらゆる場所に普及して体が汗をかかなくなった。パソコンを使うようになって漢字の書き方を忘れることも増えた。技術が手や足や体や頭脳の役割を肩代わりしくれることによって、知らず知らずのうちに私たちが原初的に持っていた能力を失っているのだ。

 これと同じだとすれば、技術が道徳の代行をするうちに、私たちが生来的に持ち、 あるいは成長の過程で獲得してきた道徳的な判断力が衰えていくことならないだろうか。大勢の人がいる場でケータイを使わないのは、人に迷惑をかけないよっにする配慮のためではなく、妨害電波があるためになってしまう。スピード違反をしないのは、事故で人を殺しかねないためではなく、速度制御装置が働いてくれるためになるかもしれない。本来の道德的な目標が忘れられ、ただ技術が命じるまに行動しているだけになりかねないのだ。

 このような技術はまだ一部でしか使われていないから考え過さと思われそうだが、それが全面的に広がってあたりまえになってしまったらどうなるかを想像する必要があるだろう。ひょっとすると、人々は道徳心を失ったロボット同然の行動しかしなくなるかもしれ ない。

 迂遠うえんなようだが、人々の道徳心を涵養し、どのように判断すべきかを決めていける人間であり続けねば、社会は荒廃してしまうだろう。道徳を技術で置き換えることの危なさを考えておくべきではないだろうか。

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