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@hianna07

木を見る、森を見る

 新聞の上に羽アリが一匹。左右の脚のバランスが悪いのか、あっちに進んだかと思うと、くるくる回って、またこっちに戻る。ちょうど体調不良が続いて悶々としていた時期だったので、右往左往するアリに自分を重ねてしまった。運の悪いことに、そこは株式欄。数字の海ですっかり迷ってしまったアリだ。延々と続く数字の列に、白や黒の三角印がときおり現れる。△を道しるべに前に進むと、▼があって戻らなければならない。

 アリの目線で変な空想をしていたら、じわじわとおかしくなってきた。人間の迷いも、大きな視点から見たら、所詮こんなものなのだろうと思えた。

 悩んだとき、行き詰まったとき、自分の視点から少し離れるだけで、 気持ちが楽になる ことがある。今自分に見えているのは、世界のほんの一部にすぎない。ちっぽけな視界の 外側に大きな世界の存在を感じると、やはりほっとするのだ。

 視点を変えると、世界はまるで違って見える。

 自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わるけれど、わざわざアリにならなくても視点を変える方法はある。

 一つは見る角度を変えること。正面から、横から、上から、下から。 立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。対象が大きければ大きいほど、見え方の違いも大きい。ほかの物との関係性も、見る角度によって全然違ってくる。もう一つが、倍率を変えることだ。カメラのように、寄りの視点で細かい部分を見るのと、引きの視点で全体を捉えるのとでは、まるで違う。実際に近づいたり遠ざかったりするのがいちばん効果的だが、目の使い方次第でも見え方は変わってくる。

 引きの視点で提えると、ばらばらな部分が、まとまりとして見えてくる。この「まとまり」をゲシュタルトという。

 人間は特にゲシュタルト的な見方をしようとする傾向が強い。例えば複数の図形の中から仲間外れを探すとき、部分的な達いがある図形よりも、全体的な違いがある図形のほうが見つけやすい。このことは、目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖とも関係している。 例えば、虫食いの葉っぱに顔を見つけるとき。一つ一つの虫食いの穴を、ここは目、ここは口、と顔のスキーマの要素に当てはめて、ひとまとまりとして捉える。人間が物を「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしているのだ。

 私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。逆に、細かい部分にとらわれていると、全体が見えなくなる。

 視点の倍率の切り替えは、かなり意識的に行う必要がある。

 ゆがみデッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンパスから離れて全体を確認する。

 つまりデッサンのときは、部分的な見方と全体的な見方を行き来する。それも両極ではなく、さまざまな倍率で形を階層的に捉える必があるように思う。

 作品を置するときにも、視点を変えることを意識している。ぱっと見だと、全体的な視点からテーマが「何か」を認識するだけで終わってしまう。でも一つの作品を、遠くから、近くから、斜めから、動きながら、人の邪魔にならない程度に視点を変えてみると「!」が見つかることが多い。筆跡などの部分に注目したり、全体を眺めたりを繰り返すと、作者の視点を追体験する気分も味わえる。

 例えばセザンスのリンゴ なら、手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上が って、どきっとしたりする。一方モネの睡蓮は、画面よりも遠くにピントを合わせて、ぼんやり眺めるのが好きだ。うつろな目で 見ていると、睡蓮が水面に反射する境界の辺りから空気感のある空間が立ち上がって、むしろ写実絵画以上にリアルに感じることもある。近寄ると、絵の具が荒くのっているだけなのに不思識だ。

 これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。一つの視点を追求することは、ときにはルーペや頭微鏡まで使って見るようなもの。詳細が見えてくるほど、それが絶対的な視点だと錯覚してしまう危うさもある。

 ときには木を見たり、森を見たり、自在に視点を変えられる目を持っていたい。同時に複数の視点を持つことはできないから、見えない視点を補う想像力も必要だ。そしてアートこそ、柔軟な目を養ういちばんの方法かもしれない。

 森の中で見上げると、葉っぱの一枚一枚が青空に透けて心地よく揺れている。その木漏れ日は林床まで届き、瞬間ごとに移りゆく模様を描く。光と影のゆらめきに目を凝らすと、二ミリほどの実生がつんと立ち、その周りをアリが忙しそうに歩いている。

 実際のところ、アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。

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