20話 それでも月はそこに

「よしっ!後は煮込んで完成!」


あれから私はセレーナに適宜教えてもらいながらも、ようやく夕食が完成させることができた。

慣れないことばかりだったが、たまにはこういうのも悪くない。

なんなら結構興味が湧いてきている。

……たまには自分で料理してみるのも、楽しいかも。


そんなことを考えていると、がちゃりと玄関の方から音が聞こえた。


「あ、おかえり〜」

「ただいま」


セレーナの母が帰ってきたらしい。


「お邪魔してます」


キッチンから顔を出し、挨拶する。


「あら、二人で夕食を作ってたの?」


「うん、今日は私達二人の特製スープ!さ、早く食べよ食べよ」


セレーナは母親の背中を押し、テーブルまで移動する。

私達は食器や先に出来てたサラダなどを食卓に並べた。

丁度よくキッチンからぴぴぴぴ、とタイマーの音が聞こえる。

スープが完成したのだろう。

タイマーを止め鍋の蓋を開けると、白い湯気と共にコンソメ風味の香りがふわりとやってきて、食欲をそそる。

出来立てのスープをテーブルに並べ、これで夕食の準備が整った。

おいしそうな料理を目の前に三人で席につく。


「いただきます!」


食卓に並んだのは大きめに切った野菜や肉、ウィンナーが入ったスープに、ドレッシングのかかったサラダ、切り分けられたパンの三種類だ。

まずはスープに口をつけると、出来立ての温かいスープからはコンソメの良い香りが広がる。

また一口、今度は野菜と一緒に口へ運ぶ。

キャベツが汁を吸ってなんとも程よい風味だ。

今度はパンをかじる。

耳のサクサクした食感を感じながらも、パン全体としてはふわふわしてる。

小麦の風味を感じるこのパンは、スープに良く合っていた。

次はサラダだ。

ドレッシングの酸味が野菜本来の味を引き立てている。

トマトから感じる若干の甘味がいい。

私は黙々と美味しい料理の数々を口に運んでいった。


「ん〜美味しい!」


セレーナが満面の笑みでそう言った。

私もパンを齧りながら頷く。

三人は今日のことを話しながら、あっという間に完食してしまった。


「ごちそうさま!」


セレーナはそう言うとあっという間に席を立ち、食器を運んでいった。

私も手伝おうと席を立つと、


「洗い物は私がやっておくから、リリィちゃんは先に休んでていいよ。あ、部屋は二階の一番奥ね」


彼女はそう言うとキッチンの方へと向かい、食器を洗い始めた。

彼女の母親も席を立つ。


「先に風呂にでも入ってきちゃったらどうかしら。それと、二階の空き部屋だけど、もし何か不便なことがあったら、私かセレーナに言ってくださいね」


「ありがとうございます」


そのままセレーナの母親は二階へと向かっていった。

私はお言葉に甘えて、シャワーを浴びようと浴室に足を運ぶ。

キッチンに立つセレーナをチラリと見る。


「私はまだ洗い物があるから、先に入ってて」


「うん。先に入っちゃうね」


セレーナに促され、私は浴室へと向かう。

脱衣所で着ていた服を脱ぎ浴室のドアを開くと、中にはシャワーと浴槽がある。

一般的な家庭の、ごく普通の浴室だ。

……と言っても私は普段シャワーを浴びるだけだから、これだけでも新鮮だ。

水栓をひねると、シャワーヘッドから水が吹き出し、身体についた汚れを洗い流す。

ザーッと吹き出す水の音だけが浴室に響く。

瞳を閉じ、全身をその雨のように降る水の中へと浸す。

吹き付けるお湯がなんとも心地よい。

ひと通り身体を洗ったあと、私はお湯の中へと足を入れた。

そのまま体育座りの形でちゃぷん、と肩まで浸かると、全身があったかくて気持ちいい。

味わったことのない感覚だ。

このまま溶けてしまいそう。


「…………」


ちょっと狭い浴槽の中に、耳の辺りまで顔を沈める。

私は今日、セレーナと一緒に働いて、ご飯を食べて、こうして今お風呂に入っている。

すごく普通で、楽しくて、平和な一日だった。

……水中で少し息を吐き出し、ぶくぶくと空気を出す。


「着替え、置いとくねー」


脱衣所からセレーナの声が聞こえた。


「あ、ありがとー!」


じゃばっ、と浴槽から顔を出し、私はそう答えた。

浴室のドアの磨りガラスに、彼女の影が見える。

服は彼女のを借りることにしたんだった。

身長は同じくらいだから、サイズは合うはずだ。

彼女の影が、磨りガラスの先から消える。

私は再び肩まで湯船にかり、ふぅ、と息を吐き出す。


「…………お泊まり、かぁ」


開発局と戦場以外で過ごす、初めての夜。

……正直、少しワクワクしている部分はある。

セレーナと一緒に夕食を食べ、こうしてお風呂に浸かり、これから知らない天井で眠るのは楽しみだ。

楽しみ、なんだけど……。


「…………あんまり、長湯しない方がいいよね」


私は浴槽から立ち上がり、浴室を出た。

身体をバスタオルで拭き、セレーナが持ってきた着替えに袖を通す。

薄いピンク色のパジャマで、サイズも私にぴったりだ。

……ごく一部、胸の部分を除いて。


「むぅ……」


若干の敗北感を感じながらも、私はリビングへと顔を出す。


「いまあがったよー」


「リリィ、服のサイズは大丈夫だった?」


「ちょっとおお……いや、大丈夫だったよ。うん……」


私は出かけた言葉を飲み込みながら、とぼとぼと二階の客室へ向かうことにした。

階段を登ると部屋が三つ。

手前二つには名前の付いたプレートのようなものがかけられており、一番前には「セレーナのへや♪」と書かれている。

奥の部屋には誰の部屋とも示されていない。

あれがおそらく空き部屋だろう。

そのまま奥へ進み、扉を開いて部屋を見渡す。

中の様子は至ってシンプルだ。

ベッドに机、姿見が置かれているくらいで、他にめぼしい物はない。

クローゼットを開いても中には何もなく、本当にただの空き部屋という感じだ。

一階の雰囲気とは違って、少し物哀しい感じがする。

温まった身体のまま、ベッドの上に腰を下ろす。

当たり前ではあるが、使われた形跡はない。

しかし、セレーナの母が急いで準備してくれたのか、しっかりと洗濯されていてふかふかだ。

とてもありがたい。

私はベッドの上にばたんと倒れ、天井を見上げる。


「…………」


とても、静かだ。

かち、かちと時計の針が進む音だけが聞こえる。

私は寝転んだまま横向きになり、窓の外を眺めた。

……今日は、月が見えない。

ちょうど新月なのだろう。

夜の空は真っ黒だ。

街の光がある都市部では、星の光も見えそうにない。

寝転んだままの体勢では、街の光すらも見えない。

……部屋の電気を消したら、何も見えなくなってしまいそう。


「…………」


ごろん、と今度は窓を背にする。

そうすると今度は部屋の景色が広がっている。

何も置かれていない机。

壁にかけられた何の変哲もない時計。

がら空きのクローゼット。

部屋ではあっても、生活感を全く感じられない雰囲気だ。

この家に似つかわしくない、寂しい雰囲気。


「…………」


かち、かち、かち、と、時計の針が進む音が響く。

瞳を閉じたが、どうにも眠る気になれない。

まぶたを閉じたが故の暗闇は、どうにも私の意識を眠りへといざなうことはなかった。

ぱちりと目を開くと、また無機質な部屋の景色がまた飛び込んでくる。

いつも寝ている私の部屋と違う分、どうにも落ち着かない。

セレーナに貰った百合の花が窓辺に飾ってあったり、セレーナと一緒に買ったぬいぐるみがベッドに置いてある、いつもの部屋とは違う景色が私の周りにはある。


「…………」


手持ち無沙汰だ。

寝る気も起きず、かと言って面白いものは部屋の中にも窓の外にもない。

私は瞳をぱちぱちさせながら、ベッドの上を何も考えず左へ右へと転がった。

そのまま無意味で無意識な行動を繰り返してるうちに、勢い余ってベッドをはみ出した。


「あいたぁ!?」


思いっきり床へと落下した。

普段ならあり得ない不調だ。

どうにも落ち着かないからか、ついうっかりしてしまった。


「いたた……ん?」


地面に倒れ込んだままベッドの下を見ると、何か平べったい物があるのを見つけた。

ベッドの下へと手を伸ばし、を取り出す。


「これは……」


地面に寝転がったまま、それを見る。

どうやら絵本のようだ。

埃を手で払い、表紙を確認する。


「ぽんこつロボと、リボンちゃん……?」


聞いたことのある名前だ。

たしか世界的に有名な絵本だった気がする。

私はちゃんと読んだことはないが、ロボットと女の子が仲良く遊ぶお話だったはずだ。

でも、なんでこんな所に……?

私がそう考え込んでいると、部屋のドアが開いた。


「リリィ、大丈夫?なんか大きな音がしたけど」


セレーナが、顔を部屋の外から覗かせている。


「うん、大丈夫……ベッドから落ちただけだから」


私は寝転んだ状態から起き上がった。


「ケガとかは……いや、無いよね。リリィ頑丈だもん。……あ、その本」


「なんか、ベッドの下にあったよ」


彼女に、その少し汚れた絵本を手渡す。


「へぇ〜……そんな所にあったんだコレ。懐かしいなぁ〜……昔よく読んでもらってたな」


彼女はその本を見つめている。

その表情は笑顔、で……


「……?」


「どうかした?リリィ」


「……ううん、何でもない」


……何故だろうか。

彼女の笑顔が、いつもと違った気がする。

その顔は、少し、哀しそうな———


「本、見つけてくれてありがと!前に探したことあったんだけど、なかなか見つからなくてさ〜」


彼女はいつも通りの笑顔を見せた。

……少しヘンな感じがしたのは、気のせいだったかもしれない。

どうやら表情の認識にすら不調をきたしているらしい。

我ながら少し浮かれすぎているのか、それとも……


「それじゃ、私は部屋に戻るね!おやすみ!」


「……あ」


立ち去ろうとする彼女の姿に、思わず手を伸ばす。


「……ん?どうしたの?」


彼女はこちらを向いて、首を傾ける。


「そ、その……まだ、一緒にいたいな、って……」


どうにもこの部屋は落ち着かない。

気分を変えようと思ったのだ。


「ふぅん……♪」


彼女はニマーっと笑った。

……今の笑顔、なんかいつもと違った気がする。

いや、これも私の気のせいだろう。


「いいよ。じゃあ、私の部屋に行こっか」


私達はそのまま部屋を出て、先程見た陽気な雰囲気のプレートが掛かっているドアを開いた。


「今日はなんか、その、寝つけなくて」


「……まぁ、まだちょっと寝るには早いかもね。私もまだ眠くないし」


そう言葉を交わしながら、私達は部屋に入った。

部屋の中は電気が消えていて見づらいが、街の光が窓から差し込んでいる分様子は認識できる。

少し大きめのベッドに小物類がたくさん置かれた机、その隣には小さめの鏡とメイク道具が置いてある。

ベッドの近くにある小さな机の上にあるのはアロマディフューザーだろうか。

小瓶のような容器に棒状のようなものが刺してあり、ほのかに花の香りがする。


セレーナは部屋の電気をつけ、ベッドの上に座って隣をぽんぽんと叩く。

うながされるままに、私は隣に座った。


「いやー今日は助かっちゃった。ありがとねリリィ」


「ううん。感謝されるようなことはあんまり出来なかった気がするな。けっこうセレーナに頼ってばっかだったし」


「そんなことないよ!いっつもお母さんと二人でやってるからいつも大変でさー」


セレーナはそのままベッドに倒れ込んで、そうぼやいた。


「そういえば、いつも二人だけでやってるの?あのお店」


「うん。お母さんがおばあちゃんから受け継いだ店で、私たち家族だけでやってるんだ。いっつも大変だから、どうせならばバイトの一人や二人でも雇えばいいのに」


「ふーん」


「……そうだ!リリィ、うちでこれからもバイトしない?今日みたいに手伝ってくれると、すごい助かるからさ!」


「セレーナと一緒に花屋、かぁ……」


セレーナの花屋で働く自分の姿を想像する。

今日みたいに一緒にセレーナと働いて過ごす生活。

穏やかな街の中で、綺麗な花に囲まれながら、街の人々を相手に交流して、平和に過ごす。

すごく、魅力的だ。


「でも、難しいかぁ。リリィ、忙しいもんね」


「あ……うん」


魅力的な提案ではあるが、私はアダバナだ。

長い間戦場を離れることは出来ない。


「…………」


「…………」


しばらくの間、沈黙が流れる。

……ちょっと、気まずい。

私からも、何か話題を振らなければ。


「セレーナは、最近忙しい?」


「うーん。結構余裕はあるかなぁ。学校も今冬休みだし」


そういえば、彼女は普通の高校生だった。

私とは違って、学校に通っている普通の女の子だ。

……普段そういった話は、あまり私から聞いたことはなかった。


「学校って、楽しい?」


「んー。普通、かな」


「普通」


普通、と返されても私はその普通を知らない。

彼女の学校生活は想像できないのだ。

一般的な知識として、彼女くらいの年齢の子は学校に通って学習をしているということくらいしか知らない。


「学校での勉強……はあんまり面白くない、というか退屈だし、友達とかと会って話すのも……まぁ、楽しい、といえば楽しい、かな?」


……何故そんなにも疑問形なのだろうか。

学校生活で楽しいことといえば、友達との生活だと前にクリス博士は行っていた気がするが……。


「もしかして、セレーナって友達が少ない……?」


「ちーがーいーまーす!友達は結構いるって前にも言ったでしょ!私、自分で言うのもなんだけど学年の中でも結構人気で、モテてたりするんだから!」


「……モテ、っ!?」


「冬休み入る前だって、男子から告は───」


「わわわ分かったから!その、そういう話は、その……」


そういう話が飛び出してくるとは思わなかった。

言われてみればそうだ。

これだけ容姿端麗で明るい性格なのだから、人に好かれて当然だ。

正直、気になると言えば気になる。


「それで、返事は……?」


恐る恐る聞いてみる。


「断ったよ。好みじゃ無かったし。……それに、リリィと一緒にいる方が楽しいからねー♪」


そう言って、彼女は私の肩に頭を預けてきた。


「そ、そうなんだ……」


思わず黙り込む。

彼女は普通に学生生活を謳歌している。

それは私にとって、少し、羨ましいものだ。


「……ねぇリリィ、今度遊びに行くとき、どっか行きたい場所とかある?」


「んー」


今までに行った場所を思い出す。


「いつもはショッピングだったり、スイーツ巡りだったりが多かったよね」


「そうだねー。いつも私の趣味に付き合わせてるから、リリィが行きたい場所とかある?」


「私の行きたい場所、か……」


思考を巡らせる。

一般的に行楽地とされている、このフローヴァ中央都市の名所を頭の中で検索する。

……浮かんできた案のどれも、セレーナの趣味では無かったり、既に行ったことのある場所だった。


「……うーん」


「あ、そうだ!ちょっと遠いけどフローヴァ西部にある遊園地なんてどう?」


「遊園地、かぁ……」


「……あんまり行きたくない?」


「いや、そういうわけじゃ無いんだけど……」


彼女の提案は魅力的だ。

魅力的であるはずなのだ。

いつもの私ならもう少し食いつくジャンルだ。


「今は、あまり気分じゃないかな、って……」


「…………」


今日何度目かの沈黙。

彼女は楽しげに話しかけてくれるが、私はどうしても話に身が入らない。

楽しい話ばかりなのに、どこか心に何か引っかかる。


「……そろそろ、聞いてもいい?」


「……」


私は沈黙したまま、下を向く。


「なんか今日、元気ないみたいだけど。何かあったの?」


「ううん、なんでも……」


何でもない、と言いかけて言葉をつぐんだ。

取り繕うことはできる。

でも、それは私が抱えてるから逃げることになる。


「…………」


セレーナになら、話してもいいかもしれない。

私が「元気がない」理由。

今日なぜか眠れない理由。

料理中にふらついた理由。

……振り上げた剣を、下ろせなかった理由。

その全ての理由は、原因はたったひとつだ。

───頭の中に、が浮かぶ。


「……もし何か悩みがあるなら、話して欲しいな。私、リリィの力になりたいから」


その言葉を聞いて、私の口はせきを切ったように言葉を呟き始める。


「……怖いの」


「怖い?」


「……私、誰かが傷つくのが、誰かが傷つけられるのが、怖いの。

……殺して、殺される、そんな命のやり取りが」


手に、思わず力が入る。

私はあの日、見てしまった。

私の隣にいる大切な人が、死ぬ瞬間。

大量の血飛沫とともに命が終わる瞬間を。

あの時、私は最後の手段とも言える機能を使い、時を巻き戻して、敵を破壊した。

そして彼女を、セレーナを助けたのだ。

……でも、たとえ助けたとしても、私は見てしまった。

してしまった。

人が死ぬと言うことはどういうことなのかを。

これが、戦うという事なのだと。


───私のやってきた事だってそうだ。

何人もの命を、その剣の一振りで終わらせてきたのだ。

ひとつ、またひとつと、剣を赤い血で染め上げて。

その死という現実が、今更になっておどろおどろしい感触として襲いかかる。

……私は、それが怖い。


柔らかな布団の上でうずくまりながら、再び言葉を紡ぐ。


「いままで……たくさん、たくさん切ってきた。人を、命を。……でも、それが、こわいことで、おそろしいことだって、いまになって感じて、きて……っ」


「リリィ……」


ぽろぽろと、私の瞳からしずくが零れ落ちる。

ピンク色の寝間着の上に落ち、くすんだ色の染みを作り出していく。

一度溢れた涙は、止まらなかった。

胸が押しつぶされそうな感覚。

今まで気づかない、……いや、気づかないふりをしてきた事実が、重くのしかかり、私の中をぐしゃぐしゃにしていく。


「……もう、戦いたく、ない」


兵器として、あるまじき言葉。

自らの存在の否定にも等しい感情が漏れ出す。


「…………」


……もし。

もし、私が兵器としてではなく、彼女のように普通の女の子として生まれていれば、こうして悩むことも無かったのだろうか。

普通に生きて、普通に生活して、普通に人生を送る。

……私には、許されないのだろうか。

私は兵器だから、これからも殺し続けるしか無いのだろうか。

こんなにも残酷な、痛みを、苦しみを振りかざす存在として。

…………嫌だ。

私は、もう、そんなことは……。


「……逃げたい」


俯いたまま、こぼれ出してしまった言葉。

それが、今の私の願いだった。


「…………」


暗い部屋の中を、静寂が包む。

そんな中、隣にいたセレーナは勢いよくベットから立ち上がった。

そして、窓の前へと立ち、こちらを見ることみることなく呟いた。


「……じゃあさ、一緒に逃げちゃおっか」


「……え」


彼女の口から飛び出した、予想外の提案。


「……どこか遠い、争いがない場所へ二人で。そこで今日みたいに花屋をやって暮らすの。二人でお金を稼いで、休日はおいしいものを食べたり、お買い物をしたりして、いつまでもずっと。ずーっと一緒に。……たしか、外国にも私の店で扱ってる花の取引先があるから、そこに相談すればきっとそっちでも花屋でやっていけると思うんだ。うーん……そうなるとどこに住むか……。例えばここから南にあるサウシア国とか。南東にある海に囲まれたアトラテスト国とかでバカンスとかもいいかも……あ!いっそのこと極東にあるイズモ国とか!あそこは平和だし、珍しい料理や建物なんかも多いから、絶対楽しそう!」


まるで夢を語る幼子のように、彼女は空を見上げて楽しげに語る。


「今日みたいに二人で看板娘として花屋を盛り上げるの!実店舗だけじゃ無くてもいまは通信販売とかできるから結構稼げそうだし!……と言っても、私たち二人分の生活費さえ稼げばなんとかなるから、別にそこまで頑張ろうとしなくてもいいかな。店舗経営のノウハウはあるし、正直お母さんがいなくても全然やっていけるっちゃいけるから、そこら辺に関しては心配しなくていいよ。リリィがいれば多分私なんでもできると思うんだ。この国を二人で抜け出して、遠い、遠いところに逃げて、二人でずっと一緒に。戦争や辛いこと、苦しい事なんて全部忘れて。毎日できる限り楽しい事で埋め尽くして生きていくの」


それの提案はあまりにも魅力的で、理想的で、輝かしい。

涙でにじんだ視覚に、夢のような錯覚を覚える。


「……私はリリィと一緒にいられるなら、何だっていい。今ある全てを棄てたっていい」


「……でもさ」


その後ぴたりと止まり、窓を背にこちらを向く。


「……リリィは、そうしたい?」


「……?」


突然な彼女の問いを、私は理解できなかった。

その言葉の意味———真意は何なのだろうか。

問われた言葉の意味を、再び自分の中に飲み込む。

…………私は、「そうしたい」のだろうか?

自分の心の中にある願い。

それを見つめ直す。


「逃げたいのならば、逃げちゃえばいい。私と一緒に。

……でも、もし心のどこかで、引っかかる何かがあるなら、逃げたら後悔しちゃうと思うから」


「…………」


「……命のやりとりとか、戦う恐怖とかは、私にはわからない。……でも、私はリリィには幸せになってほしい。リリィが一番満足できて、リリィが一番後悔しない選択をしてほしい」


「私の……選択……」


私はどうするべきなのか。

いいや違う。

彼女が聞いているのは、私がどうか。

……私自身の意思の話だ。

私は改めてセレーナの言葉を思い返す。

私が一番満足できて、私が一番後悔しない選択。

一緒に戦うことからどこまでも逃げて、二人で平和に、穏やかに過ごす。

それはとても幸せで、憧れる選択肢だ。

…………でも、それは、そこには何かが欠けてる気がした。

大事な、大事な何かが。

頭を上げ、セレーナの方を見る。


「…………あ」


彼女の後ろ。

星が見えず、月すらも影を落として見えない夜に、街の明かりがぽつぽつと灯っている。

それは、事件の後も立ち直り、日々の生活に戻ろうとする街の景色だった。

───私は、何度もこの街を歩いた。

ショッピングをしたり、美味しいものを沢山食べたり、かけがえのない時間をここで過ごした。

街の後ろにはアンドロイド開発局だって見える。

ソレイユやリコリス───私の大切な妹たちは今どうしているだろうか。

…………そうだった。

私が今まで戦ってきたのは、この街を、暮らしを、大切な人を守るためだ。

誰かを殺すためではなく、誰かを守るため。

……傷つけるのも、傷つけられるのも、もちろん怖い。

でもそれは、今ここにあるものが大切だからだ。

大切なものを守るために、私は戦っていたんだ。

───だったら、今逃げ出したら、必ず後悔する。


「…………私、は」


思いを、束ねるように言葉にする。


「……私は、逃げたくない。守りたい。この街を、みんなを、守りたい。

………………守りたい………………けど…………」


そう言葉を、思いを口にしようとしたところで、私は言葉に詰まった。

私の記憶の中にあるあの鮮烈な血飛沫が、それを拒んだのだ。


私の目の前で散った血の花。

そんな目の前の惨劇すら、私は未然に防げなかった。

あの時の光景を、私はこれから何度も見ることになるかもしれない。

大切なものが一つひとつ、私の目の前で消えていく光景。

……私に、大切なものを守るだけの力があるのだろうか。


「私には、っ…………できない……っ、出来ないよ、無理だよ……っ」


また涙が溢れ出す。


「怖い……っ、怖いよ、私……。私には、っそんな力も……ぐすっ……戦う覚悟も、ないんだもん……っ……。いつも、いつも精いっぱいで……必死で…………

守れるか……っなんて……ぜんぜん……っぐ……自信ないんだもん……っ」


ぺたりと座り込んだまま、大粒の雫が零れ落ちる。

己の無力さ。

命の奪い合いへの恐怖。

戦う覚悟の不足。

そのすべてがぐちゃぐちゃに融け合い、混ざり合い、私を縛り付ける血のなわとなって動けなくなる感覚。

汚泥の底。

どす黒い血肉に埋もれたような感覚。

こわい。つらい。くるしい。

負の感覚が積み重なり、もう私の体は動かない。

もう立ち上がれない。もう前に進めない。

……私は、もう戦えない。


「……リリィなら、出来るよ」


そんな言葉が返ってくる。

彼女の信頼が、今は痛い。


「………………無理だよ……私には……もう、何も、守れないよ……」


「…………」


「だって……私は、弱くて、未熟で……」


「…‥リリィ」


彼女の白い手が、私の頬に伸びる。

そっと添えられた細くて、綺麗な手。

その手につられ、顔を少し上げたとき———。


「──────!?」


柔らかな感触が、唇に触れた。

視界が滲んでよく見えないけど、瞳を閉じた彼女の、綺麗で、美しい顔が目の前にある。

右手を頬に優しく添えられて、逃げられない。

彼女の熱が、頬と唇から伝わってくる。

甘くて、優しくて、とろけてしまいそうな感覚。


「ん……ぅ……」


時間が、まるでスポンジケーキにクリームを塗るように、うすく、うすく引き伸ばされていく。

いつまでも、いつまでも、まるで永遠のよう。

その緩やかな心地よさが、私の中の不安を掻き消していく。

優しい月の光のような感触が、痛みを和らげていく。

いつのまにか、心にのしかかった重みが、すっと引いていた。

私が少し落ち着いたのを見て、彼女はその時を惜しむようにゆっくりと唇が離していった。

外の光にほのかに照らされた、彼女の優しい顔が私を見つめている。


「……リリィは、強くて、立派だよ」


優しい微笑みのまま、彼女はそう言った。


「いつも、みんなのために戦って、みんなを守ってくれる。すごく優しくて、すごく強くて、すごく可愛くて、すっごく大好きな、私の理想で、私の憧れ。だから、リリィならみんなを守れるよ」


一切の疑いのない、彼女の言葉。


「守れる、かな……?」


「守れるよ。絶対に」


彼女は強い確信を持って、そう言葉にする。


「だって、あのとき貴女あなたが守ってくれた私が、ここにいるんだもの」


「───────」


いつも見せる、ぱあっと晴れるような笑顔。

その輝きが、私の心の重さを優しく溶かしていく。

その姿は、まるで満月の如く優しい光だった。

そこにる、たった一つの事実。

戦うべき理由。

私にとっての光。


「……セレーナ」


そっと手を伸ばす。

セレーナは優しく私の手を取り、それを胸へと持っていった。

どくん、どくん、と彼女の鼓動が伝わってくる。

───今、この場所で、確かに彼女は生きている。

そっと、互いに身体を寄せ合い、腕を背後に回す。


「……私、なんだか、すこし、頑張れる気がしてきた」


「……うん」


「まだ、ちょっと怖いけど、頑張るね。私」


「うん」


セレーナは、何も言わずに私の頭を優しく撫でてくる。

……とても、落ち着く。

月明かりの見えない夜の中。

私は確かに優しい、まるで月のような光に包まれていた。
























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