【完結】「大将! 好きになっちゃダメですか?」(作品240421)

菊池昭仁

「大将! 好きになっちゃダメですか?」

第1話 

 夕方5時。鮨処『野島』の看板に明かりが灯った。


 店の玄関に盛塩もりじおをして、店主の野島は暖簾のれんを掛けた。

 野島は寡黙でこだわりのある寿司職人である。

 いつも店を開ける準備をスタッフに任せることはない。

 それが自分の握る寿司を食べに来てくれる客への礼儀だと思っていた。

 

 政財界や芸能人の御用達ごようたしだった、銀座の老舗しにせ高級寿司店で研鑽けんさんを積んだ野島は35才の時、ここ大宮駅の東口に店を構え、今年で13年になる。



 常連の相沢社長とクラブ『楓』のチイママ、輝子が店にやって来た。


 「おう大将! 今日は俺たちが一番乗りか?」

 「相沢社長、いつもありがとうございます」

 「取り敢えず生2つ! それから刺身をおまかせで頼む!」


 相沢は声がデカい。開店直後の静かな店に活気が湧いた。


 「かしこまりました」


 相沢は不動産屋の社長である。いつものように愛人の輝子とカウンター席に座った。



 「相沢社長と輝子さんに生ビールをお願いします」


 野島は店のスタッフに対しても、寿司を握るようにやさしく丁寧な言葉遣いだった。


 「ハーイ! いらっしゃいませー、相沢社長、輝子さーん!」

 「樹利亜ちゃんはいつも元気で可愛いいなあ?」

 「ウチのお店で働かない? アンタならきっとナンバーワンになれるから」

 「ありがとうございまーす! 

 でもごめんなさい、私、大将の握るお寿司が大好きなんですう!」

 「それは俺たちも同じだよ。

 どうしてこの「ダサイタマ」の大宮駅東口で、こんなに旨い寿司を握ってんのか不思議だぜ。

 銀座でも赤坂でも十分やっていけるのに勿体ねえよなあ!」

 「神楽坂でもいけるんじゃないかしら? 大将はイケメンであまりしゃべらないから。私たちみたいなにはありがたいことだわ。ねえ社長? うふっ」

 「おいおい、テル。この『野島』がなくなっちまったら俺たちはどうすんだよ? ガハハハ」

 「バカねえ、大将が大宮を出て行く訳ないじゃないの。

 だって私たち、この「ダサイタマ」が大好きなんだから」

 「あはははは 違いねえ!

 でも大将がどこに行こうと俺たちは追い駆けていくからな!」

 「ありがとうございます」


 野島は微笑んでマグロのサクに柳刃を引いた。



 樹利亜が生ビールをカウンターに置いた。

 今日のお通しはホウレン草のお浸しの上に、カレイの魚卵を醤油漬けにして乗せた物だった。



 「それじゃあ、テル。お疲れさん!」

 「これからでしょ? お疲れさんになるのは?」

 「えへへ、そうだったそうだった」

 「大将、私に揚げ物をお願い。今日のおすすめは何?」

 「目光めひかりはいかがですか? 天ぷらか、唐揚がお勧めです」

 「それじゃあ天ぷらで」

 「俺も同じ物をくれ」

 「社長はダメよ。中性脂肪が高いんだから。それに血糖値も」

 「いいじゃねえか、ちょっとくらい」

 「ダメよ、社長にはもっと長生きしてもらわないと」

 「輝子」

 「だってあいちゃんは私の大事ななんだから」

 「いいよいいよ、俺はお前の財布になってやるよ」

 「ありがとう、相ちゃん大好き!」



 店は店主の野島と板前の土井垣どいがき、そしてバイトの塩谷樹利亜しおたにじゅりあの3人で回していた。

 カウンター席が10席と4人掛けのテ-ブル席が4つの小さな店だった。

 板前の土井垣は野島の弟子だった男で、野島の妹、さちの夫でもあった。

 店は大宮の歓楽街にあり、寿司はもちろん、野島たちの人柄にも人気があり、店は繁盛していた。


 店主の野島祐三は48才、独身だった。

 鮨を握るその所作しょさは、まるで歌舞伎役者の女形のようにみやびで美しかった。

 野島が今まで独身でいるのには訳があった。

 野島が30の時、恵理子というグルメ雑誌の編集者と付き合っていて、ふたりは春になったら結婚する約束をしていた。


 クリスマス・イブの3日前、悲劇が起きた。

 交通事故で恵理子が死んでしまったのだった。即死だった。

 それから野島は銀座の店を辞め、半年間、酒に溺れる生活を送っていた。


 (これから先、俺は女を好きになることも結婚することもない)


 野島はそう心に決めていた。

 そして気付けば野島は今年で48になっていた。




 次々とお客が店に入って来た。


 「もう混んで来やがった。大将、サヨリと〆鯖、それから大トロとボタン海老をくれ」

 「私はアナゴと鯛。それから生シラスをお願いね?」

 「かしこまりました」



 店は急に慌ただしくなった。

 そして今夜もまた、色んなドラマがこの店から始まろうとしていた。 




第2話

 「こんばんはー」


 常連の北村信二がやって来た。

 北村は毎週金曜日の夜に『野島』にやって来て、いつも同じ物を注文する。


 「生ビールと海老の天ぷらを下さい。それから・・・」

 「赤海鼠あかなまこの酢物ですよね?」

 「流石は樹利亜さん、よく覚えてくれているね?」

 「それはそうですよ~。北村さんはこの『野島』の大切な常連さんなんですから。

 ハイ、生ビールです」

 「ありがとう、樹利亜さん」


 北村は喉を鳴らし、旨そうにビールを飲んだ。


 北村信二、30才。検察事務官をしている。

 北村は樹利亜のことが好きだった。

 担当検事の鎌田に誘われ、初めて『野島』に来て樹利亜を見て、恋に落ちた。

 ひと目惚れだった。


 店に通い始めて3カ月が経っていたが、未だに樹利亜に何も言えずにいた。

 北村は今まで女性と付き合ったことがなかった。

 彼女いない歴、30年。


 男子校から法学部へ。弁護士になるために勉強に明け暮れた青春時代だった。

 司法試験の壁を知り、弁護士の道を諦めて検察事務官になった男である。

 いたって真面目な性格ではあったが、恋愛には無縁の「童貞君」であった。

 結婚相談所にも登録をして、色んな女性とも会ってはみたが、中々話はまとまらなかった。



 「北村さん、あなたは身長183cmのイケメンで、出身大学は早稲田の法学部。

 お勤めも公務員で高収入。つまり高身長、高学歴、高収入の三拍子、女性からすれば理想の結婚相手なのよ。

 おまけに次男だなんて、最高の条件なのよ!

 私が旦那と別れて結婚したいくらいよ。一体何が気に入らないの?

 このお嬢さんだって日本女子大を出て、ご実家は会社経営。

 あっちの方も上手そうで巨乳だし、私はいいと思うんだけどなあ? どう? 一度会ってみない?」

 「はあ・・・」


 大手結婚相談所のベテラン・コンサルタントはそう言うが、北村はあまり乗り気ではなかった。



 (やっぱり樹利亜さんがいい!)


 しかし、北村には自分から樹利亜を誘う勇気はなかった。




 塩谷樹利亜は子持ちのバツイチで28才。

 前の旦那とは樹利亜が携帯ショップで働いていた時のお客だった。

 イケメンだがだらしなく、仕事も長続きせずに転々としていた。

 別れた原因は旦那の浮気だった。

 周囲からは非難された。


 「だから言ったじゃないの! アイツだけは辞めときなって!」



 樹利亜は離婚して実家に戻り、3歳になる花音かのんを育てていた。


 実家には両親と3つ下の弟がいた。

 家族仲はとても良く、花音は家族のマスコットであり、愛されていた。


 父親は野島のふたつ上で50才。

 電気工事士をしていた。

 母親は48才で野島と同じ歳である。

 弟の修斗は26才。バンドリーダーをしているが誠実な若者だった。

 当然バンドでは食べては行けないのでコンビニバイトをしていた。

 姉弟きょうだいはとても仲が良く、花音も弟の修斗が大好きだった。


 「修斗くん、花音ちゃんね? アイスが食べたいの」

 「よし、店のアイスを買って来てやるからな?」

 「うん! 小さいアイスだよ」

 「わかってるよ、ハリケーン・ゲッツだろ?」

 「それそれ、ハリケーン・だっちゅ! イチゴのだよ」

 「よしよし。9時になったらアーちゃんと寝るんだぞ?」

 「うん、アーちゃんとねんねして待ってる」


 花音は修斗の父の胡坐あぐらの上に抱っこされていた。


 「偉いぞ花音。それじゃおふくろ、親父、行ってくるわ」

 「気を付けてね?」



 父親の給料が入り、店が比較的空いている月曜日には樹利亜の家族たちが店にやって来る。

 娘の様子が気になるのと、野島の握る鮨が家族のお気に入りだったからである。



 「ああ、すっんげえ旨いっす! 野島さんの握る寿司!」

 「あたりめえだ。ここの鮨は世界一だぜ」

 「おじちゃんのお寿司、おいしいね?」

 「ありがとうございますみなさん、花音さん」

 「野島さんがうちの樹利亜の旦那さんだったら良かったのにねえ。

 男前だし腕はいいし」

 「ダメダメ、うちの樹利亜はまだガキみてえなもんだ。

 大将にはよお、いしだあゆみの若い頃のようなさあ・・・」

 「親父、誰だよその「いしだあゆみ」って?」

 「バカ野郎、お前それでよくミュージシャンなんてやってんなあ?

 知らねえのか?『ブルーライト・ヨコハマ』

 街の明かりが~♪ とてもきれいねヨコハマ~♪ ブルーライトよこ~はま~♪・・・」

 「お父さん修斗がそんなの知るわけ無いでしょう? 私も知らないもん」

 「そうか? あはははは!」



 野島はそんな樹利亜の家族からも信頼され、したわれていた。

 野島も樹利亜たち家族が、自分の家族のように大好きだった。

 

 


第3話

 大手通信会社に勤める田中主任と部下の中川聖子が店にやって来た。

 すでに田中はかなり酔っていた。

 ふらつく田中を聖子が必死に支えていた。


 「大将、大将! おはよう、ございまーす!」

 「田中主任、芸能人じゃないんですから、おはようございますじゃないでしょう?

 「こんばんは」ですよ主任、しっかりして下さい!

 すみません、みなさん」


 聖子は店にいる人たち全員に頭を下げた。


 「田中さん、今夜は随分楽しそうですね?

 何かいいことでもあったんですか?」

 「あったよ、あったあ! 最高の一日だった! 聞いてくれよ樹利亜ちゃん!

 俺、帯広支店に転勤だってさー! わたくし田中! 北海道へ行ってまいります!」


 田中主任はおどけて敬礼をしてみせた。


 「えっ? 北海道ですか?」


 聖子は少し、困ったような顔をした。


 「主任、課長と大喧嘩しちゃったんですよ。それで帯広支店に転勤することになっちゃって・・・」

 「それで北海道ですか?」

 「ええ、そうなんです」

 「大体よ~、アイツ、元は俺の部下だったんだぜ!

 それは俺は偏差値42の微妙な商業高校卒で、アイツは高崎経済大卒だ。どっちも同じようなもんじゃねえか?

 アイツの父親は本社の役員。

 俺は38にもなるのに独身でいまだに主任止まり。

 世の中どうかしてるぜ! まったく!

 だから今日はコイツと「最後の晩餐ばんさん」、じゃなかった、「最期の晩酌」に来たってわけよ。

 樹利亜ちゃん、とりあえずビール、50人前!

 あとホタルイカの沖漬。それからコイツが好きなの握ってやってくれ!

 聖子、何でも注文していいぞ!

 今日は大トロでもウニでもアワビでも、何でも好きな物を頼め! あはははは」

 「寂しくなりますね? 田中さんがいなくなると・・・」

 「主任はバカなんですよ、大人しくしていればいいのに」

 「バカとはなんだ? バカとは!

 俺はこれでもお前の上司だぞ! ただの主任だけどな? あはははは」

 「誰よりも一生懸命働いて、いつも場を盛り上げて。

 課長、自分のミスを主任に押し付けたんです」

 「アイツ、何様だと思ってんだ!

 社内の問題だけなら俺も黙ってるけどよ、いつものことだからな?

 でも今回はお得意さんにご迷惑がかかる話だ。

 ふざけんなってんだ!」

 「それで?」

 「みんなのいる前で、課長をグーで殴っちゃったんですよ」

 「あららら」


 田中主任は聖子とビール・ジョッキを合わせて乾杯をし、一気にそれを飲み干した。


 「それじゃ聖子、元気でな!」


 田中はホタルイカの沖漬を、大根おろしと一緒に食べた。


 「大将、ヒラメとホタテ。お前は?」

 「じゃあ、イカとネギトロを」

 「もっと高いのを頼めよ、今日でお別れなんだからよ~!」


 田中は野島の握ったヒラメを旨そうに食べた。


 「美味い! 同じ鮨なのに何でこんなに大将の握る寿司はうめえんだ?

 ヒラメと鮨飯のバランスが絶妙だぜ!」


 紋甲イカを食べた聖子もご機嫌だった。


 「ホント、『野島』さんのお寿司は最高です。

 他のお店のお寿司とは全然違いますもん!」

 「銀座の一流店での厳しい修行と、客に対する思い遣りがあるからなんだろうな?」

 「思い遣り?」

 「お客さんをいかに笑顔にするかだよ。

 そのために米を研ぎ、吟味した材料で酢飯を作り、毎日自ら市場へ出向いて魚を仕入れる。

 ただ握ればいいってもんじゃねえ、カネを払って食べに来てくれるお客への敬意があるんだ。

 だから何を食ってもここの寿司は旨い。

 このひとつの握り鮨に、どれだけの想いと手間がかかっているか?

 俺には分かる。それは俺たちサラリーマンも同じだ。誰のために、どこを向いて仕事をするかだ。

 俺は帯広だろうと奄美大島だろうとどこへでも行くぜ。

 左遷させん? 上等じゃねえか!

 聖子と会えなくなるのはちょっと寂しいけど、もうアイツの顔を見なくても済むと思うと清々するぜ」

 「会えますよ、また」

 「どうして?」

 「今度のお休みに、私が帯広に会いに行きますから」

 「えっ?」

 「主任、会いに行ったら泊めて下さいね? ホテル代が勿体無いから」

 「バ、バカ野郎・・・。ホントに俺に会いに来てくれるのか? 帯広まで? 帯広は遠いんだぞ!」

 「よかったですね? 田中さん」


 野島は店には出していない、とっておきの大吟醸を店のお客さん全員に振る舞った。


 「これは店からのサービスです。田中さん、お体に気を付けて。

 みなさん、田中さんと聖子さんのために一緒に乾杯して下さい。お願いします。それでは乾杯!」


 みんながグラスを挙げた。


 「乾杯!」


 あたたかい拍手が店内に沸き起こった。


 「がんばれー!」

 「おめでとう!」


 それは左遷だったが、新しい恋の始まりでもあった。

 素敵な夜だった。



 「いいなあー。私もしあわせになりたーい!」


 樹利亜はそう言ってチラリと野島を見たが、野島はそれには気付かずに鮨を握っていた。

 心を込めて。

 



第4話

 『野島』の営業時間はランチタイムの11時から14時、夜は17時から22時までの8時間だった。


 今日の店の営業も終わり、三人はいつものように店の後片付けをしていた。



 「あー、お腹空いたー」

 「それじゃあ『菊次郎』の味噌バターラーメンでも食って帰るか?」

 「私、味噌バターチャーシュー麺がいいです!」

 「よし、早く片付けて食いに行くぞ」

 「はーい!」




 『菊次郎』は酔っ払いやホステスたちでいっぱいだった。

 15分ほど待っていると、丁度カウンター席が3つ空いた。



 「菊次郎、随分と忙しそうじゃねえか?」

 「野島さんのところほどじゃないですよ」

 「味噌バターチャーシューを3つと生1つ」

 「かしこまり!」


 野島は店の2階が自宅になっていたので、生ビールを注文した。

 

 「花音ちゃんは来年、幼稚園か?」

 「そうなんですよー。子供ってすぐに大きくなりますよね?

 あっ、でも大将には子育ての経験はないか?」

 「健太郎とはよく遊んだけどな?」

 「アイツももう中三ですからね?」

 「えっー、健太郎君ってまだ中三なんですか? 高校生だとばっかり思ってた。

 だってあんなに背が高いから」

 「背だけはデカいんだよ。バスケやっているからなのかなあ?」

 「あんなに小さかったのにな?」

 「お寿司屋さんにするんですか?」

 「親が決めることじゃないんでね? アイツの好きにさせてやるよ」

 「でも自分の好きな仕事を子供が継いでくれたらうれしいですよね?」

 「そりゃあそうだけどな? 共通の話も出来るしな?」



 味噌バターチャーシュー麺がカウンターに3つ並んだ。


 「ハイ、おまちどうさまー。煮卵はサービスしといたからね?」

 「いつもすまねえな?」

 「美味しそー、バターがとろけてるー!」

 「さあ早く食って早く帰るぞ。いただきます」

 「いただきまーす!」

 「親方、いただきます」


 樹利亜は職人の娘だけあって、若いが礼儀はわきまえた娘だった。

 野島と土井垣が箸をつけるまでは手をつけない。

 そしてふたりが食べ始めてから、樹利亜も箸をつけた。


 「美味しい! 札幌に来たみたい!」

 「樹利亜ちゃんは札幌でも食べたことあるの? 味噌ラーメン」

 「ううん、テレビで見ただけ」


 野島も土井垣も、そして菊次郎も笑った。


 「菊次郎の味噌ラーメンは板酒糟いたさけかすを使い、いくつかの味噌をブレンドしたものをWスープで延ばして作っている。

 この中太縮れ麺も自家製だ。 「かんすい」が多めなので麺が他より黄色みが掛かっている。

 「かんすい」は簡単に言えば塩だ。塩化ナトリウムや塩化カリウムが含まれている。

 これを小麦と混ぜることで展延性が良くなり、コシが出て麺が滑らかになるんだ。 

 小麦に含まれるフラボノイド系と反応するから淡黄色になる。

 「かんすい」の名の由来は、モンゴルの塩分の強い「かん湖」の湖水で麺や点心の皮を作ったことによるものだ」

 「へえー、そうなんだあ。でも味噌の味にはこの黄色い中太縮れ麺が合いますよね?

 それにこの山椒がアクセントになって最高!」

 「山椒の良さがわかるなんて、樹利亜ちゃんは通だね?」

 「だってすごく合いますよ、この濃厚な味噌スープには山椒が」

 「味噌にはやっぱり山椒だよな? 樹利亜ちゃん、若いのに分かってるねえ」

 「若くなんかないですよー、バツイチ子持ちの28才ですから」

 「えー、ホントかい?」

 「こう見えて私、結構苦労してるんですよ」

 「苦労している奴は自分から「苦労している」なんて言わねえけどな?」


 野島は笑ってビールを飲んだ。




 「それじゃあ気をつけて帰れよ? 土井垣、樹利亜を駐車場まで送って行ってやってくれ。

 ヘンなやからも多いからな?」

 「わかりました親方、お疲れ様でした」

 「大将、ごちそうさまでした。お疲れ様でーす」

 「お疲れ様。気をつけてな?」

 「はーい」




 店が借りている駐車場は、少し店から離れた場所にあった。


 「ねえ土井垣さん? 大将は彼女さんとかいるんですか?」

 「いないと思うよ」

 「あんなにイケメンでやさしい人なのに?」

 「ホントだよなあ? 俺も大将みたいな鮨職人になるのが目標なんだ」

 「えっ、土井垣さんてBLなんですか!」

 「まさか。男として人間として、そして鮨職人として尊敬しているってことだよ」

 「お店にもよく、マスター目当ての女性の常連さんも来るじゃないですかあ?

 『楓』のチイママ、輝子さんとか?」

 「大将、モテるからなあ」

 「その気になればお嫁さんになってくれそうな人、いくらでもいそうですけどね?」

 「親方には親方の事情があるんだよ」

 「どんな事情ですか? 知りたい知りたい!」

 「それは俺の口からは言えないな」

 「ずるーい土井垣さん! そこまで言って「つづく」ですか! 気になって眠れないじゃないですかあ!」


 すると土井垣は立ち止まって言った。

 土井垣は樹利亜には伝えておいた方がいいと思ったからだ。

 それは樹利亜が野島に対して恋愛感情があることに気付いていたからだった。


 「樹利亜ちゃんは大将のことが好きなんだろう?」

 「好きですよ、大好き。でもそれは恋愛とは違いますよー。だって私のママと同じ歳ですよ? オジサンですよ大将は。

 ないない、それは絶対にない」

 「樹利亜ちゃんは分かりやすいね?」

 「止めて下さいよー、土井垣さん。

 私はね、どうして大将が結婚しないのか? 気になっちゃうだけなんですから。

 ただそれだけです。どうして結婚しないのかなーって」

 「親方には絶対に言っちゃダメだよ。約束出来る?」

 「するする、約束する!」


 土井垣は再び歩き出した。


 「親方は昔、結婚しようとした人がいたんだよ」

 「やっぱり」

 「でもダメになったんだ」

 「別れちゃったんですか?」

 「相手の人が死んだんだよ、交通事故で」

 「えっ・・・」


 樹利亜は土井垣の話を聞いて立ち止まった。

 土井垣も歩みを停めた。


 「その人はグルメ雑誌の編集者でね? よく親方を取材に来ていたんだ。

 恵理子さんって言ってね? 凄く素敵な人だった。

 今の親方からは想像もできないくらい、親方は嘆き悲しんだ。

 それ以来、誰とも付き合おうとはしなかった。おそらくこれからもずっと独身でいるつもりなのかもしれない」

 「死んじゃったんですか? その人。かわいそう・・・。

 大将もその恵理子さんって言う人も・・・」

 「そういうことだから、難しいかもしれないな? 親方と所帯を持つのは」

 「ドラマみたいな話ですね?」

 「あるんだよなあ、実際にそんな悲しい話が」


 三日月が出ていた。まるでそこに吟遊詩人が座り、竪琴を弾いているようなそんな月夜だった。

 樹利亜は深い溜息を吐いた。

 


 


第5話

 土井垣から野島の亡くなった恋人の話を聞た樹利亜の野島を見る目は変わった。

 鮨を握る野島の寡黙な姿には、そんな悲しい過去があったのだ。


 (その辛さを、どうしたら軽くしてあげられるんだろう?)


 ここで働くようになって1年、樹利亜はいつも野島のことが気になっていた。

 野島の寿司を握る真剣な横顔。お客さんや土井垣さん、そして樹利亜に対するさりげないやさしさが、いつの間にか樹利亜の野島に対する恋心へと変わっていった。



 野島は樹利亜の父親とはタイプは違うが、昭和生まれの同じ人情のある男だった。

 大人の男が秘めた強さとやさしさ、野島はそんな思い遣りを持った男性だった。


 前夫だった悟とはまるで正反対だった。

 樹利亜と悟は「デキ婚」だった。


 「赤ちゃん、出来たみたい」

 「マジかよ? おろせよガキなんか」


 悟は明らかに、面倒なことになったという顔をした。

 その時、樹利亜は自分が遊ばれていたことにようやく気付いた。

 「産みたい」という樹利亜に対して、悟は冷たかった。


 「なんとかなんねえのか?」

 「なんとかって?」

 「そこまで俺に言わせるなよ」


 悟には樹利亜の他にも付き合っている女が何人かいた。

 樹利亜はそれが分かる度、いつも泣いていた。


 悟は顔がジャニーズ顔で、話の面白い男の子だった。樹利亜は軽い気持ちで悟と付き合った。

 デートの時には食事はもちろん、ラブホ代からパチンコのお金まで悟にせびられた。


 「あんな「だめんず」、もうやめなよ樹利亜。

 あいつ、ただのクズじゃん」



 みんなから別れなきゃダメだと言われた。

 そんな悟だったが、たまにパチンコで勝ったりすると、


 「樹利亜、お前の好きな「シロクマ・アイス」買って来てやったぞ」


 と、言ってくれたりするだけでうれしかった。


 だがそれも今思えば、本当に自分はバカだったと思う。

 いつも酷いことをされているから、ちょっとした優しさが心に沁みたのだ。


 自分ひとりでも花音を産んで育てていくことを決めた時、


 「私、ひとりでも産むから」

 「しょうがねえな。俺もまだ人殺しにはなりたくねえからな?

 仕方がねえ、お前と結婚してやるよ」


 親からは滅茶苦茶怒られた。

 いちばん怒ったのは弟の修斗だった。


 「あんなチャラ男が俺のアニキだなんて、俺は絶対に認めねえからな!

 アイツ、ぶん殴ってやる!」


 無理もない、修斗にとって樹利亜は大切な姉だったからだ。

 中学、高校では、自分のお弁当と一緒に修斗のお弁当を作ってあげた。



 最初は悟も真面目に働らき、それなりに収入も増えたがむしろ、生活は派手になっていった。


 派手なクルマをローンで買い、ブランド品も身に付けるようになった。


 「営業マンは見た目が大事なんだ。客から舐められたら終わりだからな?」


 それがいつもの口癖だった。



 そんなある日、花音を実家にみてもらい、スーパーでレジのパートをしていると急に体調が悪くなり、半日で早退させてもらった。


 アパートに帰ると、仕事に行っているはずの悟のクルマが駐車場に停めてあった。

 イヤな予感がした。


 ドアを開けると、悟と女がその真っ最中だった。


 「帰ってくんなら電話くれえしろよ!」


 女は慌てて服を着て、自分は関係ないという感じでアパートを出て行った。


 樹利亜は無言で家の物を壊し始めた。

 掃除機を投げつけ、買ったばかりの45インチのテレビを引き倒し、女と飲んでいたであろう、飲みかけの缶酎ハイを悟へと投げつけた。


 「止めろ! お前が悪いんだ!

 花音にばかり掛かりっきりで、俺のことは相手にもしねえくせに!」

 「だからって何! 昼間から女を引っ張り込んで!

 私が毎日、どんな思いでパートに出ているのかも知らないくせに!」

 「わかった、もうたくさんだ! 離婚だ離婚!

 俺たちはもう、ジ・エンドだ!」



 そのまま樹利亜は実家に戻った。

 母は花音を抱っこしながら言った、


 「良かったじゃないの? あんなロクデナシと別れて。

 どうせこうなるのも時間の問題だと思っていたわ。あの男は最初から無理だって。

 変わらないわよ、あの男はただのクズ」


 父は悟を呼べと息巻いていたが、悟は来るはずもない。

 修斗が金属バットを持って出て行こうとしたが、樹利亜がそれを止めた。


 「お願いだから止めて! そんなことしても姉ちゃんはうれしくない!」

 「姉ちゃんと花音をこんな目に遭わせやがって! あの野郎!」

 「もういいの、もういいのよ。姉ちゃんが悪いんだから。

 ごめんね、また迷惑かけるけど、ここでまた一緒に暮らしてもいい?」

 「俺たち家族じゃねえか! 迷惑だなんて誰も思わねえよ!」




 裁判になり、月々27,000円の養育費を悟が支払うことで決着したが、それも2回で途絶えた。



 樹利亜が野島に抱く恋心は、自分と花音を助けて欲しいという想いからではない。

 ただ「この人を守ってあげたい、その苦しみを私にも半分分けて欲しい」と思った。


 これが本当の愛なのかと、樹利亜は思った。 



 


第6話

 北村は婚活アドバイザーに言われるまま、吉岡聡美と会うことにした。

 聡美は吉岡里帆に似た、キュートな美人だった。髪はセミロング。

 清楚な花柄のワンピースを着ていた。足の綺麗な女性だった。


 「はじめまして北村信二です」

 「吉岡聡美です。それじゃあ行きますか? ホテルへ?」

 「えっ? それは規定違反になりますよ。『真剣交際ガラガラポン』との契約違反になってしまいます」

 「北村さんって真面目なのね? ホテルで会っちゃダメなんて規定、ありましたっけ?」

 「性交渉は規定違反になります」

 「それじゃあ性交渉をしなければ大丈夫ですよね?」

 「性交渉をしない?」

 「ホテルなら他の人に聞かれたくないプライベートなお話も出来るでしょう? でももし、信二が私と「やりたい」と言うなら話は別ですけど?」

 「・・・」

 「それじゃあ行きましょうか? ラブホテル」



 

 北村はラブホテルに初めて入った。ドキドキして周囲を見渡した。


 (これがあの噂に聞くラブホテルかあ?)


 一方の聡美は慣れているようだった。


 「信二、何か飲む?」

 「それじゃコーラをお願いします」


 北村は喉がカラカラだった。


 「コーラ? お酒、飲めたよね? プロフィールにはそう書いてあったけど?」

 「ええ。でも今は・・・」

 「やっぱりここはビールでしょ? ユウヒ(朝日じゃなくて夕日)『辛口スーパー』だよ」


 聡美は北村に缶ビールを開けて渡すと、自分も美味しそうに缶ビールを飲んだ。


 「さてと、しようか? セックス」

 「セ、セックス? ダメですよ、それは規定違反です!」

 「その割にはもっこりしてるけど? ここが?」


 北村は聡美に股間を触られ、北村はまるで金縛りにあったかのように身動きがとれなくなっていた。


 「信二ってまさか、童貞君だったりして?」

 「やめて下さい、不謹慎な」

 「へえー、そうなんだあ。かわいい」


 キスをされた。初めてのキスだった。北村は蕩けてしまいそうだった。


 「ごめんなさいね? からかったりして。

 私、まわりくどいことが嫌いなの。

 結婚生活を楽しく送るには「カラダの相性」は一番大事でしょう?

 離婚の原因の「性格の不一致」は「の不一致」だから。

 「趣味は?」とか、「何が好きですか?」とかで相手のうわべだけ訊いてもセックスの相性が悪ければそれで終わりでしょ?

 結婚は人生最大のギャンブルなんだから、クルマを買う時みたいに一度、試乗してみないと。そう思わない?」

 「結婚が人生最大のギャンブル?」

 「そりゃあそうでしょう? 人生なんて何が起こるかわからないんだから。

 私はパチンコもパチスロもしないけど、競馬はするの。だって馬を見たり、オッズも見て、それに競馬新聞にサイトも見る。それに競馬が統計確率論も応用出来る頭脳ゲームだから。

 つまりギャンブルのリスクを極力抑え、当たる確率を上げるには情報収集と分析力が大事でしょう?

 だからお見合いもその情報収集が大切。リスク回避のために。

 人の本性は飲酒とセックスに出るから」

 

 聡美の話には妙な説得力があった。


 「シャワー、浴びて来るね? 信二も一緒に浴びる?」

 「僕は後でいいよ」

 「そう? じゃあお先に」


 聡美は北村の眼の前で服を脱ぎ始めた。

 北村は必死で見ないようにしていた。聡美が服を脱ぐ音が聞こえていた。


 「いいわよ見ても。大丈夫、訴えたりしないから。うふっ」


 北村はそっとその光景を見た。

 彼女の下着はレースの付いた白だった。

 

 「ねえ、ブラのホックを外してくれる?」

 

 北村は恐る恐るブラのホックに手を掛けた。


 「早く外して」


 ブラジャーを外すと聡美は振り返り、北村の腕を取った。


 「さわってみたい? このCカップ?」


 北村はゴクリと唾を飲んだ。そして聡美のに触れた。

 乳首と乳輪はきれいなピンクだった。


 (つまりそれはアソコもピンク? サーモン・ピンクなのか!)


 「なんて柔らかいんだ」

 「揉んでもいいわよ。あんっ」


 北村の理性は遂に吹っ飛んでしまい、聡美をベッドに押し倒し、無我夢中でオッパイを吸った。


 「痛い、そんなに強くしちゃだめ。やさしくしてね?」


 聡美の体はとても美しくしなやかで、なめらかだった。

 北村はパンティに手を伸ばした。


 「脱がせてちょうだい」

 「いいんですか? 脱がしても?」

 「そんなの許可取るバカはいないわよ」


 パンティを脱がせると聡美が言った。


 「ここ、見たことないんでしょう? 見せてあげる」


 聡美は北村の一番の関心事を見透かしたように、そこを指で左右に広げて見せた。


 「ここにあるのがクリちゃんよ」

 「舐めてもいいですか?」

 「だーめ、シャワーを浴びて来てからね?」



 

 行為が終わり、北村は放心状態だった。

 

 (セックスってこんなにいいものだったんだ)


 「初めてだったんだね? 信二」

 「うん、実はそうなんだ」

 「どうだった? 私、よかった?」

 「すごく良かったよ。僕と結婚して欲しい」

 「あはははは まだ早いわよ。それにプロポーズをラブホでする人はいないわ」

 「ごめん」

 「エッチビデオを見て、ひとりでオナニーするよりいいでしょう?」

 「・・・うん。でもお見合いするとみんなとしているの? セックス?」

 「まさか。それじゃあただのヤリマンでしょう? 試してみたいと思ったのは信二だけ。私のタイプだったから。

 他の男性とは殆どお茶して終わりか、良くて食事まで」

 「僕は吉岡さんに決めたよ」

 「聡美って呼んで。もう付き合っているんだから」

 「聡美」

 「信二。結婚っていいことばかりじゃないわ。喧嘩もするでしょうし、お互いに病気や怪我もするかもしれない。  

 そして私も信二もいずれ歳を取る。お爺ちゃんとお婆ちゃんになるのよ。

 それでも一緒に人生を添い遂げたい。そんな夫婦になりたい。私たち、戦友になれるかしら?」

 「なろうよ戦友に。僕は君を、そして君は僕をお互いに愛して生きて行こう。

 子供が生まれても名前で呼び合おう。子供はいつか僕たちの元を巣立って行く。

 そして僕たちはふたりで人生という名の海原を航海して行こう」

 「ねえ、もう1回しようか?」

 「うん」


 その日、北村は聡美と結婚を前提に付き合うことを決めた。


 



第7話

 北村が『野島』にやって来た。


 「こんばんは。ビールと・・・」

 「海老の天ぷらと赤海鼠なまこ酢ですよね?」 

 「それをお願いします」

 「かしこまりました。ビール一丁!

 土井垣さん、海老天と海鼠酢お願いしまーす!」

 「あいよ」


 北村はビールを飲むと樹利亜に言った。


 「樹利亜さん、今度、一緒に食事に行きませんか?」

 「それってデートのお誘いですか?」

 「そうです」


 北村は聡美によって女性に対する免疫がかなり出来たのだ。


 「いいですよ。焼肉がいいかなあ。

 美味しいお魚はここで食べられるから」

 「いいんですか?」

 「ええ、お食事だけなら。あはははは

 でも日曜のランチタイムの2時までですよ。お休みの日にはなるべく娘と一緒にいたいので」

 「では今度の日曜日に『焼肉・牛太郎』に11時半でどうですか?」

 「わかりました。それでは日曜日に」




 焼肉を食べながら北村は樹利亜に告白をした。


 「僕は樹利亜さんが好きです」


 樹利亜は笑って言った。


 「何で私なんですか? 私、子持ちバツイチですよ」

 「一目惚れでした。『野島』で樹利亜さんを初めて見た時から。

 そして『野島』で楽しそうに働く樹利亜さんに益々惹かれました」

 「ごめんなさい。私、好きな人がいるの。片想いだけど」

 「もしかして野島さん、大将さんですか?」

 「どうしてそれを?」

 「あの店で樹利亜さんを見ていればわかりますよ。

 そうですか? やはり野島さんかあ。

 野島さんでは敵いません。素直に諦めます」

 「お店には来てくださいね? 大歓迎ですから。

 でも大将にはまだ思いを伝えられないんですけどね?」

 「それは年の差があるからですか? それとも家族に反対されているとか?」

 「年の差なんて気にしていません。それに家族は「野島さんみたいな人だといいのにねえ」と言ってくれています」


 樹利亜は美味しそうにカルビ肉を頬張った。


 「どう思いますか? 私、大将に自分から告白するべきでしょうか?」

 「野島さんは自分から樹利亜さんに愛を伝えることはないと思います」

 「そうなんですよねー」

 「いいんですか? このまま片想いのままで?」

 「いやですよ、そんなの」

 「じゃあ「当たって砕けろ」ですよ」

 「イヤですよ、砕けるなんて」

 「僕の片想いは見事に砕けましたけどね?」

 「ごめんなさい」

 「いいんですよ、気にしないで下さい。

 実は今、結婚を考えている女性がいるんです。彼女のことは愛しています、でも結婚に迷っている自分がいるんです。たぶんそれは樹利亜さんのことが気になっていたんだと思います。

 それで今日、思い切って告白しました。

 だから後悔はありません。ショックはないと言えば嘘になりますが」

 「その人としあわせになって下さいね? そして今度はその彼女さんと『野島』に来て下さい」

 「必ず伺います」




 その日の夜、北村は聡美と青山のフレンチレストランで食事をした。


 「聡美さん、僕と結婚して下さい」


 北島は聡美にひざまづき、婚約指輪を渡そうとした。


 「本命に振られて私で我慢しようってワケ?」

 「そんなつもりじゃ・・・」

 「悪いけど私、別の結婚相談所から紹介されたイケメン・ドクターと結婚することに決めたの。

 そういうことだからあなたとは結婚出来ないわ」

 「どうしてですか? あんなに好きだって言ってくれたじゃないですか!」

 「結婚ってね? 好き嫌いでするものじゃないのよ、「縁」があるかどうかなのよ。

 それに結婚とは当人同士の問題ではなく、家と家の繋がりでもある。

 だからごめんなさい、あなたとは結婚出来ないわ。

 短い間だったけど、色々と楽しかったわ。

 さようなら。おしあわせに」


 北村の恋愛はまた降り出しに戻ってしまった。

 その日北村は、大人になって初めて泣いた。

 声をあげて泣いた。

 



第8話

 クラブ『楓』のチイママ、輝子が独りで店にやって来た。


 「輝子さん、今日はお一人ですか?」

 「もう別れたわ。あんなハゲジジイ」

 「そうですかあ・・・」

 「お酒ちょうだい、『久保田』をひやで」

 「かしこまりました」

 「それからボタン海老とホタテをお造りで」

 「かしこまりました」


 野島がちらりと輝子を見て言った。


 「あー、結婚したーい」


 輝子はグラスの酒を一気に飲み干した。


 「ねえ大将。私と結婚してここの女将にしてよ」

 「輝子さんにはこんな小さな鮨屋の女将では勿体ないですよ」

 「店なんて大きい小さいじゃないでしょう? 不味いか美味しいかよ。

 私じゃ不満? 大島なんか着たら結構似合うと思うんだけど」

 「輝子さんなら大島紬というより西陣織でしょうね? 華やかだから」

 「こうみえても私、意外と「尽くす女」なのよ」

 「意外じゃありませんよ。輝子さんは尽くす女です」

 「いいなあ、鮨屋の女将かあ」

 

 樹利亜はムッとした。


 (『野島』の女将には私がなるのよ!)


 「樹利亜ちゃん、どうしたの? そんな怖い顔しちゃって?」

 「なんでもありません!」

 「ホント、アンタってわかりやすいなんだから。

 そんなふうにモタモタしてると大将、私がいただいちゃうからね。あはははは」

 「・・・」


 そこへ相沢社長がやって来た。

 相沢社長は輝子の隣に座った。

 

 「やっぱりここにいたのか? 店をサボって」

 「アンタに言われる筋合いはないわ。早く家に帰って奥さんとイチャツイていればいいでしょ!」

 「女房がようやく離婚届にサインしてくれたんだ」

 「えっ?」

 「テル、俺と結婚してくれ」

 「・・・。今さら何を言ってるの? 私たちはもう終わったのよ」

 「俺にはテル、お前しかいないんだ。女房にはそれ相応の慰謝料を払うつもりだ。

 会社の役員にもそのまま残留してもらう。それでもいいか?」

 「そんなの当然でしょう? 貧乏な時からあなたを支えて苦労を共にして来た奥さんなんだから。

 私は、私はあなたがいれば、あなたさえいればそれでいいの!」

 「輝子・・・。大将、俺にもコイツと同じものをくれ」

 「ダメよ大将。 この人はビールにして。長生きしてもらわないと私が困るから」

 「しょうがねえなあ。じゃあビールで」


 

 相沢社長は旨そうにビールを飲んだ。

 


 そして輝子は愛人という「日陰の女」から本妻になることになった。

 輝子はそっと涙を拭いた。



 帰り際、輝子は樹利亜に囁いた。


 「ちゃんと大将に自分の想いを伝えなきゃダメよ。

 大将、モテるから」

 「・・・」

 「がんばりなさい。じゃあね?」


 輝子は相沢と腕を組んで夜の街に消えて行った。

 長年連れ添った夫婦のように。

 

 


最終話

 「土井垣さん」

 「んっ なんだ?」

 「協力してくれませんか?」

 「協力ってまさか?」

 「はい、今日、大将に告白することにします」

 「いくら樹利亜ちゃんでも無理だと思うぜ。

 この前も言っただろう? 親方には・・・」

 「もちろん分かっています。でももう限界なんです。

 どうしてもダメだったら私、お店を辞めます」

 「おいおい、樹利亜ちゃんに辞められたら俺も親方も困っちまうよ」

 「私だって辞めたくなんかありませんよ。だからこれは真剣勝負なんです!」

 「だけど、親方は一途な男だからなあ。そう簡単には・・・」

 「土井垣さん、お願いです。

 今日は少しだけ早く上がっていただけませんか?

 私、大将とじっくり話がしたいんです」

 「それはいいけど、親方をどうやって説得するんだ?」

 「それは考えていません」

 「考えてない?」

 「はい。何も考えずに本心をぶつけるつもりです。

 何もせずにこのままズルズルはもうイヤなんです。

 クラブ『楓』の輝子さんにも言われたんです。「モタモタしてたらアンタの大将、誰かに盗られちゃうわよ」って。

 そんなの絶対にイヤなんです!」

 「そうか、がんばりな。

 でももしダメでも店は辞めるなよ。お客さんが減るから」

 「ありがとうございます。土井垣さん。

 私、がんばります!」




 土井垣はてきぱきと後片付けをして、店を少し早く出ようとした。

 後は明日少し早めに出て来て、仕込みをやるつもりだった。


 「親方、今日はどうも腰の調子が悪いので、先に上がらせていただいてもよろしいでしょうか?」

 「大丈夫か? 明日、医者に診てもらえよ。腰はつれえからな?」

 「はい、すみません。それではお先です」

 「ああ、気をつけてな?」


 (親方、すみません。樹利亜ちゃんの想い、どうか親方に届きますように)




 店の後片付けも終わり、野島が樹利亜に声をかけた。


 「ごくろうさん。もう帰っていいぞ」


 樹利亜はついに野島に告白をした。


 「大将。私、大将が好きです!」

 「俺も好きだよ。うちの仲居としてだけどな?」

 「仲居じゃなくて、女として私を見て下さい!」

 「それは出来ない」

 「どうしてですか?」

 「俺は樹利亜のご両親と同じ歳だ。親子ほども歳が離れているんだぞ。冗談はよせ」

 「歳なんて関係ありません!」

 「関係あるよ。お父さんお母さんはそれを望んではいないはずだ」

 「望んでますよ! ウチの家族は全員、大将が大好きですから!」

 「もっとまともな恋愛をしろ。お前はやさしくて気が利く、そして美人だ」

 「だったら大将が私を貰って下さいよ!」

 「だからそれは出来ないんだって!」

 「どうしてですか!」

 「俺には忘れられない女がいるんだ」

 「だったら忘れなくてもいいじゃないですか! 私は寧ろむしろその人を忘れて欲しくはありません。

 大将が好きになった人だから!」

 「樹利亜」

 「私、大将以外、誰も好きになることは出来ないんです!

 大将、好きになっちゃダメですか?」

 「ダメだ。お前にはもっと相応ふさわしい男がいる。

 俺は怖いんだ、もうこれ以上愛する女を失うことが」

 「私は大将より先に死にません! 絶対に!」

 「そんな保証はどこにもない!」

 「人間はいつかは死ぬものです。大将が愛したその女の人も、神様がお決めになった寿命が来たから亡くなったんです。

 私も大将も土井垣さんも、そして輝子さんも相沢社長さんもみんないつかは死ぬんです!

 だからこそ私は後悔したくないんです! 大将は私のことが嫌いなの? 私、女として魅力がないですか!」

 「やめろ! これ以上俺を苦しめるな! それ以上言うならお前をクビにするしかない!」

 「大将が好き! 大将のことが大好きなの!」


 その時勝手口が開き、樹利亜の弟の修斗と、娘の花音が入って来た。


 「野島さん、姉貴は本気です、本気なんです。姉貴は絶対にいい嫁になります。

 弟の俺が保証します! どうか姉貴を嫁さんにしてやって下さい、お願いします!」


 修斗は深々と野島に頭を下げた。

 花音が野島の足に抱きついた。


 「野島のおじちゃん、ママをお嫁さんにしてあげて。おねがい」

 「花音ちゃん・・・」

 「ママがキライなの? それじゃあ花音が野島のおじちゃんのお嫁さんになってあげるから」

 「花音、修斗・・・」

 「お願いします野島さん、俺の兄貴になって下さい! そして俺たちと家族になって下さい!」

 

 野島は花音を抱き上げた。


 「俺は今48だ。花音ちゃんが二十歳はたちになったら俺は65なんだぞ。

 だから結婚は出来ない。樹利亜が50になれば俺は70だ。冷静になれ、樹利亜」

 「だからこそ私は大将と一緒にいたいの! あなたの側にいてあなたを支えたい!

 もし大将が車椅子になったら私が押してあげる! オムツだって交換してあげる!

 愛しているの! 大将を! 理屈じゃないの! 人を好きになるということは!

 私は一度結婚に失敗している。だからわかるの! 結婚はいいことばかりじゃない、結婚することは覚悟だと!

 私にはその覚悟があるわ!」

 「俺と結婚すれば苦労することになるんだぞ」

 「しあわせになろうなんて思わない! あなたのために私は生きたいの!」

 「花音ちゃん、ママはお馬鹿さんだな?」

 「ママはおバカじゃないよ。花音ちゃん、ママが大好きだもん」

 「おじさんもママが好きだ。そして花音ちゃんも修斗君もな?

 花音、おじさんをパパと呼んでくれるか?」

 「うん、パパ」

 「兄貴、野島の兄貴!」

 「修斗、今日からお前は俺の弟だ、いいな?」

 「ハイ、よろこんで! ううううう 姉ちゃん、良かったなあ?」

 「うん、うん。ありがとう修斗」




 それから1年が過ぎた。

 

 「おい修斗、米は研ぐんじゃなくて洗うんだって何度言ったらわかるんだ!」

 「すいやせん、土井垣さん」

 「すいやせんじゃねえ、「すみません」だ! 職人言葉で話せ!」

 「すみません、土井垣さん」


 修斗はバンドを解散し、コンビニのバイトを辞め、野島に弟子入りした。


 「大将、クラブ『楓』さんから特上握り、10人前だそうです」 

 「修斗、出前の準備だ」

 「へい!」

 「女将、北村さんに生ビールと奥さんにウーロン茶だ」

 「はーい」


 北村は同じ検察事務官の塔子と結婚していた。


 「女将さん、出産はいつですか?」

 「10月なんです。塔子さんは?」

 「私は11月なんです。それじゃあこの子たち、同級生ですね?」

 「そうね?」


 樹利亜と塔子は自分のお腹をしあわせそうに擦った。

 樹利亜は野島と結婚し、『野島』の女将になっていた。


 「おかみさーん、お酒、おかわりー!」

 「はーい、ただいまー!」



         『大将! 好きになっちゃダメですか?』完

 

 



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【完結】「大将! 好きになっちゃダメですか?」(作品240421) 菊池昭仁 @landfall0810

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