【完結】月の砂漠(作品231212)

菊池昭仁

月の砂漠

第1話 

 金曜日の夜、木下と宮本はいつもの焼鳥屋、『笹村』で飲んでいた。


 宮本淳子は美味そうに生ビールを飲んだ。


 「あー、おいしーい! 全身の細胞が喜んでいるのがわかるわー!

 私はこの最初の1杯目のビールのために、今週もクリニックでがんばったんだもん!」


 木下はカリカリに焼いた鳥皮にかぶりついた。


 「一週間の頑張ったご褒美が、ここ『笹村』でのささやかな宴だもんな?」

 「ジョーは今でも別れた奥さんたちに仕送りしてんの?」

 「ああ、月10万は送っているよ」

 「偉いねー? 今どき。

 裁判もしていないのに別れた家族に仕送りなんて。奥さんも薬剤師なのに」

 「別れたから払うんだよ、お詫びだから。

 お詫びというより「償い」と言った方が妥当かもな?」


 木下は調剤薬局の薬剤師をしており、宮本淳子はその隣のクリニックで看護師をしていた。


 木下譲二34歳、宮本淳子38歳。

 淳子は4つ年上の姉さん女房のような存在だった。

 そしてふたりは共にバツイチ同士。


 木下は3年前に離婚していた。

 前妻も薬剤師で実家暮らし。生活に困窮してはいなかったが、5才になる娘もいたので養育費としての意味合いもあり、木下は仕送りを続けていた。

 それは娘に対しての愛情の証でもあった。


 これが離婚の原因だというものは特にはなく。ただ、



         自分に結婚は向いていない



 そう木下は思ったからだった。



 宮本淳子は5年前に離婚していたが子供はいない。

 旦那は優秀な脳外科医だった。


 夫はずば抜けて頭が良く、天才肌で変人だった。

 その反動が女に向いていた。


 結婚当初は彼の変わった性癖にも付き合っていた淳子だったが、そのうち距離を置くようになり、月1程度の「義務的SEX」になっていった。


 「注射器で乳首を刺してくれないか?」

 「自分でやれば? ドクターなんだから」


 小太りの突き出た腹と相撲取りのような胸を見る度、淳子は幻滅した。


 

 離婚したのは旦那が病院の看護師にセクハラで訴えられたからだった。

 慰謝料として1,000万円を受け取った。



 「ねえジョー、そのアスパラ巻き、私にも頂戴よ」

 「ジュンも頼めばいいだろう? 自分で」

 「あなたのが食べたいの、美味しそうだから。

 ね? ちょっとでいいからさあ、お願い」


 木下はアスパラ巻きを串から外し、淳子の皿へその1つを乗せた。


 「ありがとう、ジョー大好き!」

 「大将、いつものあれ、今日もある?」

 「あるよ、1人前でいいのかい?」

 「うん。どうせジュンは食べないから」


 ふたりはお互いをジョーとジュンと呼んでいた。

 誰から見てもふたりは仲の良い夫婦に見えた。



 「またあれを食べるの? 好きよね? ジョーはあれが」

 「だってここのクジラのベーコンは口の中で脂がとろけちゃうんだぜ。

 ジュンも食べてみなよ、絶対に美味いから」

 「私は無理、そういうの。

 なんだかかわいそうでさー、クジラさんが」

 「焼鳥は食えるのにか? それっておかしくねえか?」

 「だってニワトリは人間に食べられるためにいるんでしょう?

 クジラは食べられるために海を泳いでいるわけじゃないもの。

 しかもクジラは魚じゃなくて哺乳類なのよ。

 そこの違いよ」

 「元旦那にもそんなこと言っていたの? そんな屁理屈を?」

 「アンタ、お姉ちゃんの私にケンカ売ってんの?」


 そこへ大将が割って入った。


 「まあまあおふたりさん、お酒は楽しく飲むもんだぜ」

 「だって大将、ジョーが嫌味を言うから~」

 「何が嫌味だよ、お前はお姉ちゃんなんだから少しは弟を労われよ」

 「アンタだって結婚に向いてなかったくせに」

 「俺の話はいいよ」


 木下は不機嫌になり、温くなったビールを飲み干した。


 「大将、おかわり」

 「あいよ」

 「私にもおかわり!」

 「ハイきた!」


 淳子は木下の手に自分の手を重ねた。


 「ごめんね? つい余計なこと言っちゃって」

 「俺の方こそゴメンな。 やっぱり俺ってガキだよな?」

 「後で仲直りしようね? 今日は私のマンションの日だよね?」

 「うん」




 『笹村』で飲んで食べて、その後はスキンシップを楽しむ。それがふたりの週末のルーティーンだった。



 「あう、あう、すごい、すごいの、子宮に当たるー」

 「どう? どうだい? これ? これがいいのか?」

 「もう少し早く動かして、そしてキス、して、お願い早くうっ」


 木下は淳子に言われたとおり、腰の動きを加速させ、熱いキスをした。



 「いいの、来そうよ、出して、中に出して頂戴! お願い!」

 「イクよ、中でいいのか? 中で?」

 「今日は大丈夫な日だから、そのまま奥に、出して、奥にーっつ!」


 木下は淳子の表情を確認し、耳を甘噛みして舌で舐め回した。


 「うぐっ、あうっ」


 淳子は不可解な呻き声を上げると、いつものように絶頂に達したようだった。

 そして木下も淳子の中に、一週間分の溜まった精液を放出して第1ラウンドを終えた。


 イッた後の淳子の楽しみは、タバコを吸うことだった。

 淳子は煙草に火を点けると、ハリウッドの映画女優のように気怠そうに煙を吐いた。


 そしてそれを木下に渡すのだ。

 淳子の唾液で少し湿った吸い口が艶めかしく、それが木下の快感でもあった。


 木下はタバコを吸う女が嫌いではなかった。

 それは母親も愛煙家だったせいもある。

 高校生だった木下は母の前でもタバコを吸った。


 「学校では吸っちゃダメよ」


 そんな母親だった。



 「何か飲む?」

 「いらない」

 「じゃあ少し休みましょうか? 朝、もう一回してね?」

 「がんばるよ」


 

 そして翌日の土曜日はネットで検索したランチに出掛け、夜はスーパーで買物をして一緒に食事を楽しんだ。


 それがふたりの週末の楽しみだった。


 



第2話 

 結婚していた頃、木下は女房の実家で彼女の親と同居していた。


 結婚の許しを得るために、由紀子の両親に挨拶に訪れた時、


 「よかったわ、譲二さんみたいな人が由紀子といっしょになって、私たちと一緒に暮らしてくれるなんて」

 「将来はみんなで調剤薬局も出来るしな?

 私も由紀子も、そして譲二君も薬剤師だから」

 「これで生まれて来る子供がお医者さんになれば、開業も出来るわね?」



 本当は、義父たちは由紀子を医者にしたかった。

 事実、由紀子は成績も優秀で、いくつかの医学部も受験したがダメだった。


 浪人することも考えたそうだが、二次志望の薬学部へ進学したのだ。


 由紀子は今でもその時の挫折から這い上がれないままだった。



 「信じらんない! あんなんでよくドクターをやっているわ!

 患者さんを殺す気かしら?」


 由紀子はよくそんな愚痴を言っていた。




 

 酒も出たので、帰りは由紀子が家までクルマで送ってくれた。

 その帰りのクルマの中で由紀子が言った。


 「ごめんなさいね? 気を遣わせちゃって。

 でもうれしそうだったわ、うちの両親。

 あんなに楽しそうな親を見たのは久しぶりよ。

 ありがとう、譲二」

 「嫌われなくて良かったよ」

 「嫌うだなんてとんでもない。あなたは理想の婿殿で、私の理想のダーリンなんだから」


 由紀子は一人娘だったので、両親は跡継ぎが欲しかった。

 木下は次男でもあり、親の面倒を見る必要もない。


 由紀子の家は代々、医療畑の家系だった。

 義母たちは早速家をリフォームし、二世帯住宅仕様に改築して木下を歓迎した。


 愛娘まなむすめと孫と一緒に生活できる幸福。

 老後の介護の問題も安心だった。


 木下も由紀子と暮らせるならそれでいいと軽く考えていた。



 だが、娘の由佳ゆかが生まれてからは風向きが変わり始めた。

 両親の孫娘に対する執着は相当なものだった。


 「あなたたちは忙しいでしょうから、孫の由佳のことは私とお父さんでやるから大丈夫よ。

 安心してお仕事しなさいね。 

 由佳は絶対にお医者さんにしてみせるから」



 そして妻の由紀子も変わった。

 由佳が生まれて、私たち夫婦はキスどころか、肌を合わせることさえなくなった。



 「なあ、そろそろいいだろう?」

 「ダメよ、まだお父さんたちが起きているのよ。

 明日も早いし」


 

 木下と由紀子は次第に仮面夫婦になっていった。

 親の前や外では、仲の良い夫婦を演じていた。




 ある日、木下は溜まったストレスを吐き出すためにキャバクラで酒を飲み、ピンサロに寄って深夜に帰宅したことがあった。


 リビングで義父が一人で酒を飲んでいた。


 「今帰りかね? いい御身分だね? 俺たちになんでもやらせて」



 私は翌日、離婚届の用紙を役所に取りに行った。



 そしてその夜、由佳を寝かしつけた由紀子に離婚届を差し出して木下は言った。


 「離婚しよう」

 「何かのジョーク? どっきり?」

 「俺のところは記入しておいたから」

 「どうして? ワケわかんない!

 イヤよ、絶対。絶対に別れないから!

 何が気に入らないの? 私があなたの求めに応じないから?

 女のカラダはデリケートなの! 今はムリでもそのうち何とかなるわ、今度は男の子が欲しいし」

 「そうじゃないんだ。

 俺には結婚が向いていない、それがわかったんだ」


 由紀子は木下のパジャマのズボンを下すと、夢中でフェラチオを始めた。


 「やめてくれ、もういいんだ」

 「抱いて! 私を好きにしていいから!」

 「悪いが、もうお前を女として見られなくなったんだ。

 明日も早いだろう? おやすみ」


 由紀子はずっと泣いていた。

 木下は由紀子に背を向け、いつの間にか夢の中に落ちて行った。




 朝、みんなで朝食を食べている時、みそ汁を飲みながら義父が言った。


 「私はお前のような男、最初から娘の夫だとは思ったことはない。

 孫と娘は私たちが面倒をみる。だから出て行け、このクズ野郎」

 「私もあなたのことを義父だなんて思ったことはありませんでした。

 由紀子さんと由佳のこと、よろしくお願いします。

 私は競走馬の種牡馬ではないので」

 「言われなくてもわかっているわよ! この、人でなし!」


 それはいつもやさしい義母の言葉とは思えなかった。


 その日、木下はそんな「動物園の檻」から脱走した。


 


第3話 

 夫婦の話し合いは続いた。

 それは話し合いではなく、一方的な由紀子の懇願だった。


 「私の悪いところはすべて直す! だから言って、私の気に入らないところを!

 私、いい奥さんになる! ねっ、お願い。私、全部直すから! 

 そしてあなたの理想の奥さんになるから!

 だからお願い、離婚するなんて言わないで!」」

 「そういうところなんだよ、君の悪いところは。

 相手のことは考えずに、いつも自分の都合だけを主張する。

 君は結婚をゴールだと考えていたんだ。

 でもね? 結婚はゴールじゃない、スタートなんだよ。

 愛とは育てるものなんだ。

 君はその愛に水もやらず、風や光にも当てようともしなかった。

 でもそれは俺も同じだ。

 君だけを責めているんじゃない。

 俺たちはお互いに、愛という花を枯らせてしまったんだ。

 俺たちの愛はもう死んだんだよ」

 「いや! 私、絶対に別れないから!

 私、別れないわよ!」

 「義父さんと義母さんはそれを望んでいるよ。

 娘と孫がいればそれでいいと。

 君はいい女だ。俺に拘ることはないよ。

 沢木先生のこと、まだ好きなんだろう?」

 「止めて! それはもう終わったことよ! 関係ないでしょう、そんな話!」

 「君は沢木先生と付き合っていたが、アイツは女医の野村先生を選んだ。

 君は野村先生に負けたんだよ。

 そして君はその寂しさを埋めるために俺と付き合い、結婚した。

 それは君の意思ではなく、君の打算だ」

 「違う! そうじゃない!

 私が彼を捨てたのよ! 私が捨てたの!」

 「君は相変わらず負けず嫌いだね? 決して自分の負けを認めようとはしない。

 「悪いのは自分じゃない」と。

 君はコンプレックスの塊なんだよ。医大の受験に失敗してからずっと。

 君は子供の頃から親を喜ばせることを自分に課して生きて来たんだ。

 そろそろ君も、そして君の親も、お互いに依存するのを辞めるべきじゃないのかな?

 動物だって成長すれば親の元を去って行くだろう?」


 由紀子は憎しみを込めて木下を睨みつけた。


 「そうよ! 私は沢木に捨てられたのよ!

 鼻をかんだティッシュみたいに!

 だから何? 傷付いて、悲しくて、寂しくて・・・。

 そして私はあなたを愛した。

 それではいけないの? あなたを愛したのはあなたが好きだから!

 あなたは沢木の代役なんかじゃない!」

 「だったらそれでいいじゃないか。

 まだほんの僅かでも、俺たちに愛が残っているうちに別れよう。

 酷い事を言って、すまなかった」



 そしてその日、由紀子は離婚届にサインした。

 由佳の親権は由紀子に渡り、月1度の食事だけは許された。

 慰謝料はいらないと言われたが、由佳の養育費として月10万円を渡すことにした。


 木下は自分が結婚には向いていないことを改めて知った。

 



第4話 

 木下と淳子はクルマの窓を全開にして、海沿いの国道をドライブしていた。



 「いい気持ちー、潮騒の音って最高!」


 サザンをBGMにして、ふたりは道を南下していた。


 モスバーガーの看板が見えて来た。



 「ねえ、モスが食べたい」

 「もう、1時だもんな?」


 木下はクルマをモスのドライブスルーに進入させた。


 

 「いらっしゃいませ、お決まりでしたらマイクに向かってご注文をどうぞ」

 「モスチキン2つとモスチーズバーガーを1つ、それからコーラとキュウイのシェイクって、あります?」

 「はい、ございます」

 「あと、プレーンドッグを1つ下さい」

 「かしこまりました。お客様のお会計は1,365円になります。

 そのままおクルマをお進め下さい」




 私たちは季節はずれの海水浴場の駐車場にクルマを停めた。



 「お腹すいたね?

 いつも感心するんだ、ジョーは私の好みをみんな知っているんだもん」

 「俺の好きな物を勝手に頼んでいるだけだよ」

 「私たち、好みが同じだもんね?」



 食事をする時は、相手とあまり同じ物を注文しない。

 それはふたりで料理をシェアすることで、色々な味を楽しめるからだ。



 「はい、交換しようよ。

 中々いけるよ、モスのチーズバーガー」

 「ホットドッグも旨いよ、ソーセージの皮がパシュと弾けて」


 ふたりは各々、食べかけのモスを交換し合った。



 木下の少し唾液の付いたホットドッグを口にした時、別れた夫、小野寺のことを淳子は思い出していた。


 夫の小野寺は優秀な脳外科医だった。

 夫は医者ということ以外に、あまり魅力のある男性ではなかった。


 美味しくはないが、不味くもない。

 そんな男だった。


 小野寺の猛烈なアタックにより、淳子はやむなく結婚を承諾した。



 ある日、同じようにハンバーガーを食べていると、淳子が何気なく、


 「それ、少し頂戴」


 と言うと、小野寺はをれを黙って差し出してくれた。


 「ありがとう」


 そして私がそれを一口齧って彼に返すと、


 「他人が口にしたものは僕は食べないんだ。

 君も知っているだろう? 口の中は雑菌だらけだからね?

 それは君が食べなさい」


 (他人が口にした?)


 確かに夫婦は他人だ。

 夫婦の行為に際しても、小野寺はキスなど余計な行為はぜず、まるで淳子をマスターベーションの道具のように扱っていた。


 クルマの運転も、いつも私がさせられた。

 彼は運転席の後ろの後部座席に座っていた。


 「僕は優秀な脳外科医だからね? 怪我をするわけにはいかないんだ。

 ここがクルマでいちばん安全な場所だからね?

 安全運転で頼むよ」



 そんな小野寺が同じ病院のナースからセクハラで訴えられたのだ。

 彼女のショーツの中に手を入れたらしい。



 裁判にはなったが、スキャンダルを怖れた病院が示談金を提示し、告訴は取り下げられた。



 「散々だったよ、あのブスナース!」



 私は夫に離婚届を渡した。


 「これにサインして。明日、役所に出しておくから」

 「なぜだ?」

 「なぜってこっちが聞きたいわよ。この破廉恥変態ドクター!」

 「僕は神の手と呼ばれている天才脳外科医だぞ? これは一体何のマネだ!」

 「じゃあ教えてあげる。

 その離婚届、かなりくたびれているでしょう?

 それはね? 私がいつも持ち歩いていたからよ!

 あなたは人間のクズ! 神の手が聞いて呆れるわ!

 どんなにあなたが優秀かどうかは知らないけど、アンタみたいな思い遣りのない人間と、これ以上一緒には暮らせないということよ!!

 もう同じ空気を吸うのもイヤ!」

 「バカな女だ。

 だから看護婦はイヤなんだ。

 どいつもこいつも、この俺を誰だと思っている!

 この俺を、ゴッドハンドのこの俺を!」

 「かわいそうな人。

 一度心療内科で診てもらったらどう?」



 そうして淳子は小野寺と離婚したのだった。




 「ねえ、コーラも飲みたい!」

 「キュウイのシェイクをくれるならいいよ」

 「うん、いいよ」


 淳子は自分のシェイクと木下のコーラと交換した。


 (間接キッス)


 私はこの何気ない遣り取りがうれしかった。



 2羽のカモメが波打ち際をちょこちょこと歩き、そして午後の海へと羽ばたいて行った。


 カーステレオからは小野リサの、『イパネマの娘』が流れていた。





第5話 

 「ねえ、広島と大阪、どっちのお好み焼きにする?」

 「聞くまでもないよ、お好み焼きは広島だよ」

 「私も広島の方が好き。

 じゃあ広島のお好み焼きを食べに行こうよ」

 「新橋に旨いお好み焼きの店があるんだ」




 広島出身の店主がやっているという、お好み焼き屋で昼食を摂ることにした。

 メニューは九条ネギがたっぷりと乗った『ねぎ焼き』のみ。

 まずは瓶ビールを注文た。


 「くうーっつ いいなあー、この昼間から飲むビールの背徳感。

 俺たち独身だけど、なんだか不倫しているみたいでさ」

 「やっぱりお好み焼きには瓶ビールよね?

 この三ツ矢サイダーのグラスって、丁度いいわ。

 まだあるんだね? このグラス。

 『お宝鑑定団』に出したいくらい」

 「広島のお好み焼きって、作っているところを見ているだけでも楽しいよな?

 いろんな工程があって。

 熱くなった鉄板の上に出汁で伸ばした薄力粉を薄く広げ、その上に千切りキャベツをどっさりと乗せる。

 そこに豚バラやイカ天、紅ショウガや桜エビを乗せてひっくり返す

 よくキャベツが飛び散らないものだよ。

 キャベツがしんなりとして、生地が沈んでいくうちに、隣で焼きそばを炒め、焼きそばの上にそのままそれを載せる。

 そして目玉焼きを軽く崩して焼き、本体をそのまま卵の上に平行移動。

 最後にそれをひっくり返してオタフクソースをたっぷりと塗って九条ネギをドカンとかける。

 これを最初に考えた人はすごいよ。ノーベル賞ものだ」



 「はふはふ 旨いなこれ?」

 「またこの冷たいビールとよく合うわよね?

 私たちみたい」



 すると奥のテーブル席から子供の声がした。

 それは若い夫婦と幼稚園くらいの女の子だった。


 「うわー、パパ、すごーい。とってもおいしそう!」

 「熱いからよくフーフーして食べるんだよ」

 「うん、わかった!」

 「お洋服を汚さないでね」

 「うん」


 その女の子はこっくりと頷いていた。



 それを見た木下は娘の由佳のことを想っていた。


 (由佳は今頃、どうしているだろうか?)


 木下はビールのコップを一気に飲み干した。

 それを淳子は見逃さなかった。


 「会いたいでしょ? 由佳ちゃんに?」

 「娘に会いたくない父親なんていないよ」


 淳子はお好み焼きをヘラで切り分けながら、ため息混じりに言った。


 「結婚って何なのかしらね?」

 「公的に認められた売春」

 「何それ? 殴ってもいい? グーで。

 ジョーは結婚って何だと思う?」

 「男が考える結婚と、女の考える結婚は違うよ。

 ジュンはどう思う?」

 「私は「保険」だと思う。

 ひとりで死なないための保険。

 いつまでも若くはいられないし、どんどんお婆ちゃんになっていくわ。

 シワも増えて白髪にもなって、オッパイもお尻も垂れていくしね?

 そしてそのうちボケて、仕事も出来なくなり、お金も底を尽き、待っているのは惨めな孤独死。

 それが嫌だからするんじゃないの? 結婚って。

 それともう一つ。

 自分の愛した男を他の女にを出させないため。

 「私の旦那ですから誰も手を出さないでね!」っていう所有? 独占欲の意思表示かな?

 ジョーはどうなのよ? また結婚したいの?」


 淳子は木下の次の返事に期待して待った。

 「したいよ」という言葉を。


 木下は空になったグラスにビールを注ぎながら静かに言った。


 「こうあるべきだという呪縛。

 それが俺の結婚に対する考えだ。

 俺の結婚は砂漠を彷徨うようなものだった。

 ジュンは砂漠に行ったことはあるか?」

 「鳥取砂丘ならあるわよ。

 でもサハラ砂漠とかタクラマカン砂漠とかには行ったことはないわ」

 「俺は学生の時、エジプトに行って砂漠を歩いたことがある。

 怖かったよ、何にもないんだぜ、砂漠には。

 水を売るコンビニもない」

 「砂漠かあー」

 「朝日を浴びて黄金に輝き 昼に紅に燃え 夜は月明かりに銀色に煌めく。

 昼間は地平線がピンクになるんだ」

 「見てみたいなあ。行こうよ、砂漠を見にエジプトへ」

 「何だよ急に」

 「なんだか見て見たくなったの。あなたの話を聞いて。

 あなたの考える結婚が砂漠なら、その砂漠を私も見てみたい。

 鳥取砂丘ではダメよ、あれは砂漠じゃないから。

 日中の気温が50℃にもなるような、本物の灼熱の砂漠が見てみたい」

 「それじゃあジュンに見せてあげるよ。

 砂漠がどんなところなのか」



 だが淳子はそれが本当に実現するとは思ってもいなかった。





第6話 

 サングラスをかけていないといられないような強い日射しだった。

 日曜日の公園には、子連れの夫婦がスマホを構えて子供の写真や動画を撮っていた。


 滑り台の上で小さく手を振る由佳。

 今日は月に一度の娘との面会日だった。


 木下は毎月の養育費を振込みではなく、手渡しにしていた。

 それは娘に会うための口実にもなるからだ。


 私と由紀子は公園のベンチに座り、娘の由佳を並んで見ていた。



 「これ、今月分」

 「ありがとう。いつも悪いわね?」

 「由紀子のためじゃない、由佳のためだ」


 そう言って木下は笑った。

 照れ臭かったからだ。



 「そうね、あの子のためですものね?

 遠慮なくいただくわ、由佳のために。

 このお金は毎月積立定期にしているの。

 元気そうね?」

 「君も元気そうだね?」

 「私、今、付き合っている人と再婚するかもしれない。

 この前、プロポーズされちゃったの」

 「由紀子はいい女だからな?」

 「それだけ? どんな奴だとか訊かないの?」

 「訊けばその男のことを良くは思わないからな?」


 私は苦笑いをした。

 その噂はすでに私の耳にも入っていたからだ。

 由紀子が知らないだけだった。


 由紀子と沢木がホテルに入るのを目撃されていることを彼女は知らない。

 由紀子が医者の沢木と不倫しているという噂を。



 「それってまだ私のことが好きだっていうこと?」

 「今でも由紀子のことは好きだよ。

 でもそれとこれとは話が違う。

 娘の由佳に彼氏が出来たような気分かな?」

 「ヘンなひと。

 私、離婚して色々と反省したの。

 ごめんなさいね、イヤな思いばかりさせて」

 「それは俺の方だよ。

 由紀子を口説いたのは俺の方だし。

 俺には「夫という役」を演じられなかったということだ」

 「彼ね? ドクターなの。

 あなたも知っているひと・・・」

 「沢木先生か?」


 私がとぼけたように言うと、由紀子は黙って頷いた。



 「良かったじゃないか? おめでとう」

 「でもね? まだ迷っているの。

 彼は奥さんと別れて必ず私と結婚すると言ってくれる。

 でもそれは奥さんや子供たちから彼を奪うっていうことでしょう?

 私、自信がないの。

 自分が結婚に向いてないんじゃないかって。

 あなたと結婚して、自分の嫌なところがたくさん見えるようになったから」

 「何も奥さんに気を遣うことはないと思うよ。

 奥さんが沢木先生の心を繋ぎ留めることが出来ないわけだから。

 結婚すればそれで終わり。その緊張感のなさから女は傲慢になる。

 「この人はもう私の物」という驕りがあるのかもしれない。

 仮にそうではないとしても、それは夫婦という名の洋服の着心地が良くなかったということだけだ」

 「着心地?」

 「夫婦って洋服みたいなもんだろう?

 似たもの夫婦って言うじゃないか? あれは着ているうちに自分が服に馴染んでくるんだよ。

 サラリーマンのスーツや、クラブのママの着物みたいにね? 

 だから袖が長かったり、ウエストがきつかったり、首回りが合わなかったりして段々着苦しくなってくる。

 着心地が悪くなって来るんだ。

 そしてまた、一見すると周りからは変な恰好にみえる服も、着ている本人には案外着心地が良かったりもする。

 いいんじゃないか? ダメだったらそれが自分の、そして相手の学びになるんだから。

 失敗、大いに結構じゃないか?」


 

 由佳が戻って来た。


 「ママ、お腹空いた」

 「由佳は何が食べたいの?」

 「由佳ちゃんはね? 回るお寿司が食べたい。ハンバーグのお寿司」


 木下と由紀子は笑った。

 今日の眩しい太陽のように。




第7話 

 仕事を終えた木下はひとりで食事をしていた。

 離婚してからは自炊をすることは殆ど無かった。

 別に料理が出来ないわけでも嫌いなわけでもなかったが、家で孤食をするのが嫌だったからだ。


 今日はよく行くチェーン店のカレーにした。


 「いらっしゃい木下さん、今、お帰り?」

 「そうなんですよ。今日は空いていますね?」

 「雨の日の水曜日だからね?

 ご注文は?」

 「カツカレーとツナサラダをお願いします」

 「カツカレーとツナサラダね?」


 ウエイトレスの白川さんとはすっかり馴染になっていた。

 木下よりはひとまわり上だろうか?

 恋愛対象としては少し年配だし、かと言って母親ほど離れているというわけでもない。

 歳の離れた姉といった感じだろうか?


 バツイチで中学生の男の子がいると言っていた。

 今は親と同居して、実家暮らしだという。

 いつも常連の木下には、二言三言は声を掛けてくれた。


 ここはそんな「実家」のような店だった。



 木下は先日の日曜日のことを思い出していた。

 由紀子は木下を気遣ってなのか、戸惑いのポーズを取ってはいたが、嬉しさを隠し切れないのは手に取るようにわかった。


 かつて自分が好きだった男が自分に振り向いてくれる悦楽。

 しかも沢木は内科医。由紀子の憧れの医者だった。

 どんな状況であれ、イヤな気はしない筈だ。



 「女房とは別れるから、俺と付き合ってくれ」


 そう言って寄って来る男は、殆どその気はない。

 関係を続けたいがためのリップサービスのようなものだからだ。

 家庭を壊す気はない。単なる「娯楽」なのだ。


 「昨日はカツ丼だったから、今日は担々麺にするか?」


 と言った具合にだ。


 そんな険悪だという女房との間に、ちゃっかり子供が生まれたりもする。

 妻はバカではない、そんなことは既にお見通しなのだ。

 不倫の事実を知りながらも、その証拠の切り札は温存しておく。

 そのカードは最後のカードとしてしっかり残してある。

 男が思うほど、女は鈍感ではない。


 不倫相手の女に戦意を喪失させるなど容易たやすい事なのだ。


 医者や弁護士、裁判官や教師にアスリート。

 音楽家や画家、そして小説家などの芸術家もそうだ。

 命や人の人生に多大な影響を与える人間、クリエイティブな仕事に就く者たちのストレスは尋常ではない。

 そんな人間が女を欲しがるのは自然の摂理というものだ。


 無意識の中で、優秀な自分の遺伝子を未来へ残そうとするからだ。



 由紀子が沢木の「慰め物」であることは、おそらく間違いではあるまい。

 女房と別れる気など更々ないはずだ。


 だがそれを仮に論理的に論破したところで何になる?

 嘘のプロポーズで舞い上がっている由紀子を、地面に叩き落とす権利など木下にはなかった。



         結婚とは何だろう?


 

 ただSEXがしたいだけならデリヘルでも呼んだ方が安上がりだし責任もない。

 それにいろんな女を抱ける。


 今日はナポリタン、明日は天丼。

 そしてたまには高級焼肉、フレンチに懐石料理など。


 それなのに何故、人間は面倒な結婚をするのだろう?


 ただ性欲を満たすだけなら恋愛は不要だ。

 そもそも「恋愛」とはなんだろうか?


 木下は思う。


 「恋」と「愛」は違うものだと。


 恋とは憧れであり、相手に対して「ああして欲しい、こうして欲しい」と求める「TAKE」であるり、

 そして「愛」とは相手に対する「あれもしてあげたい、これもしてあげたい」という「GIVE」なのだと。


 つまり恋とは「相手に対する期待」であり、愛は「相手に対する奉仕」なのだ。



 由紀子が沢木に抱かれているところを想像するより、いずれ沢木に騙されたと知り、悲嘆に暮れる由紀子を見るのはもっと嫌だった。


 そんなことを考えながらの食事は、木下にとって「餌」のように感じた。





第8話 

 正月休みを利用して、エジプトへの旅行が決まった。


 淳子は毎日、カレンダーにハートのシールを貼ってその日を心待ちにしていた。



 「あと58日かあ~、早く休みにならないかしら」


 男性との海外旅行は初めてだった。

 前夫が外科医だったため、長期の休暇は取れず、新婚旅行も1泊2日の熱海だった。


 淳子にとって今回が初めての海外旅行ということもあり、気持ちは高まる一方だった。


 先日、木下が言っていた「結婚の定義」について淳子は考えていた。


 幼ない頃はお嫁さんになるのが夢だった。

 それが女の子として、当然の「しあわせ」だと思っていた。

 理由など考えることもなく、「結婚することが当たり前」だと思っていたからだ。


 だが、成長するにつれ、幸福の条件が恋愛とお金であると知ると、結婚は単なる夢ではなく「しあわせの保証」へと価値観が変化していった。


 学生時代の恋愛は憧れであり、恋に恋する自分に満足していた時期もある。



       あの人が好き



 それが歳を重ね、自分の親、結婚している友人たちを冷静に観察していると、結婚に対して疑問も抱くようになっていく。



       この人と結婚して 私はしあわせになれるのかしら?




 すると今までは「この人といっしょにいられるだけでしあわせ」という感情に条件が加わって来るようになる。


 収入、家族環境、将来性、やさしさ、価値観などが評価されるようになるのだ。


 そしてもちろん、カラダの相性も。



 「抱きたくない」「抱かれたくない」と感じた時、婚姻関係はただの「愛のない共同生活」へと変貌してしまう。



 追加的評価項目が高いため、それが自分の現状との検討になるのだ。

 若くはない、ブスではないがさして美人でもない。

 大卒ではないがバカではないなど、自分の女としての「商品価値」とのバランスを考えるようになる。

 つまり加算方式が減点方式へと変わるのだ。

 そして年齢とともに加速されてゆく「焦り」と「諦め」。


 「このくらいで妥協するしかないか?」と。



 心無い周囲からの問い掛けもある。



 「彼氏、いないの?」

 「結婚しないの? 子供、産めなくなっちゃうよ」

 「誰かいい人はいないの?」

 「なんで結婚しないの? 今はいいでしょうけど、歳を取ってひとりでいるつもり?」


 飽き飽きするが、内心では無視出来ないもう一人の自分がいる。

 そしていつの間にか、女としての商品価値も無くなったと錯覚し、開き直る。


    

        結婚だけが人生じゃない



 ひとりで生きていく可能性を模索していくようになる。

 だがそこに答えはない。

 どのみち結婚とは出会いであり、考えても仕方のないことだからだ。



    どうして人は結婚するのだろう?


 

 養ってもらうため? 寂しいから? 

 みんなしているから?


 結婚に失敗して分かったことは、


    

       本当にこの人を愛しているのか?



 ということだ。



 「この人のパンツを洗ってあげてもいい」では駄目だと。

 「この人のウンチなら触っても平気」くらいの愛情がなければ、人生100年と言われる長い人生には避けられない現実があるからだ。


 

        この人と ともに老いる自信があるか?



 それがなければ結婚することは自分の意志を、精神を殺してしまうことになる。

 しあわせになるための結婚が、人生を苦しめるものになってしまうのだ。



 もう考えるのは止めよう。

 今が楽しければそれでいいではないか。

 愛する人がいる、愛してくれるジョーがいればそれで。


 淳子は熱いダージリン・ティーを淹れようと、キッチンに立った。



  


第9話 

 沢木からのプロポーズもあり、由紀子のやや保守的だった性は次第に解放的になっていった。



 「好きよ! もっと欲しいの! もっともっと先生が欲しい!」


 由紀子は沢木を先生と呼んでいた。

 いつも穏やかな沢木だったが、今日の沢木は手を緩めることなく、由紀子を乱暴に攻め続けていた。



 「いいよ、凄くいいよ由紀子。君は最高の女だ」

 「先生もよ、すごくいいの、すごくうっつ・・・」


 リズミカルな沢木の律動に合わせるように、由紀子の喘ぎ声がより高音となり、絞りだすような声が途絶えた。


 沢木は射精する寸前に自分のそれを引き抜き、小刻みに震える由紀子のきめ細やかな白いカラダに射精した。


 自分の性欲を満した沢木は、由紀子をそのまま放置してシャワーを浴びるため、浴室へと向かった。



 沢木は由紀子と入浴することはない。

 由紀子の香りが自分に移るのを避けるためだ。


 由紀子がそれを咎めると、


 「正式に離婚するまでは、静かに暮らしたいんだ。

 慰謝料にも影響するからね?」

 「わかったわ。

 でも、なるべく早くお別れしてね?」

 「ああ、僕もそのつもりだ」



 ようやくエクスタシーから帰還した由紀子は、ティッシュボックスに手を伸ばし、自分のカラダに掛けられた沢木の樹液を拭った。

 糸を引いて拭い取られるわずかな沢木の精液。



 沢木はすでに身支度を整え、洗面台の前で鏡を見ながらネクタイを締めていた。


 「ねえ先生、これからは「沢木由紀子」になるのね?」


 そう言って裸のまま、沢木の背中に由紀子が抱き着こうとした時、沢木はそれをさらりと躱した。



 「今日は早く病院に戻らないといけないんだ。

 君も早くシャワーを浴びて来なさい」

 「はーい」


 由紀子は上機嫌だった。

 


 

 ホテルを出て、由紀子を家に送る途中、沢木はFMラジオを掛けたまま、無言だった。


 

 いつものように家の少し手前でクルマを停めた時、由紀子が沢木にキスをせがんだ。


 「おやすみのキスをして」


 今日のキスは義務的なもので、いつものそれとは違っていた。



 「先生、気を付けてね?」

 「おやすみ由紀子」


 由紀子を下ろした沢木は陰鬱だった。

 妻の聡子が3人目を身籠ったからだ。


 沢木は由紀子との関係はほんの遊びのつもりだった。

 木下と離婚した由紀子の寂しさに、沢木は言葉巧みにつけこんだのだ。



 「聞いたよ、離婚したんだって?

 どう? 今夜食事でも? 色々話したいこともあるんじゃないか?」


 沢木は妻と離婚する気など更々なかった。

 ただ妻の聡子の妊娠は誤算だった。


 「今日は安全日だから、スキンは付けなくていいわよ」


 沢木は妻の計略に、まんまと乗せられてしまったのだ。



 「パパ、できちゃったみたい、赤ちゃん。

 8週目だそうよ。名取先生に診察してもらったから間違いないわ。

 名前、考えなくっちゃね?

 あの日はけっこう本気モードだったから、たぶん男の子の気がする。

 桃と雄太がいるから、一姫二太郎になるかもね?

 理想の家族になるわね? さあ忙しくなるわねー。大変大変」



 そして由紀子の勤める調剤薬局に沢木の妻、聡子が現れた。


 「薬剤師の北川由紀子さん、いらっしゃる?」

 「どちら様ですか?」

 「沢木の妻です。ここへ呼んで来て下さる?」


 聡子はこれからしようとする行為に、胸のワクワクが止まらなかった。


 (さあこれから退屈な皆さんに、面白いショーをお見せしなくちゃ)


 聡子は静かに微笑んでいた。


 まるで邪悪な魔女のように。






第10話 

 薬の処方をしてい由紀子のところに、受付の洋子が慌ててやって来た。


 「ちょっと由紀子、来てるよ来てる」

 「来てるって誰が?」


 洋子のただ事ではないというその表情に、由紀子はそれが誰なのかをすぐに察知した。


 「沢木先生の奥さん。いないって言おうか?」


 受付の洋子は由紀子の親友だった。

 沢木とのことは話していたので、彼女はそれを心配してくれたのだ。

 由紀子は全身から血が引いていくのを感じた。


 「いいわ、これが終わったら行く」

 「大丈夫なの?」

 「うん、心配してくれてありがとう」




 洋子は聡子の前に戻ると言った。


 「ただいま処方中ですので、少しお待ち下さい。

 どうぞこちらに」

 「あらそう? じゃあここで待たせてもらうわ」

 「ここは患者さんの待合ですから、どうぞ奥に」

 「結構よ。話はすぐに終わるから」


 薬を待っている患者は5名ほどだった。

 およその話の内容は察しが付くので、洋子はスタッフルームに聡子を案内しようとしたのだ。


 そこへ処方を終えた由紀子がやって来た。


 「お久しぶりです、野村先生。ご用件は?」


 由紀子は敢えて聡子を旧姓で呼んだ。

 それは自信に溢れたものだった。


 「愛されているのは私」


 という自信の表れだったのだ。

 聡子は言った。


 「ご用件? 逆にあなたが私に言うことがあるんじゃないかしら?」

 

 ただならぬ雰囲気に、その場にいた全員がふたりを注視した。


 「あなた、いつから泥棒猫になったの? そんな虫も殺さないような顔して。

 サザエさんじゃあるまいし。

 お魚咥えたドラ猫~♪ 

 私ね、赤ちゃんが出来たの。

 その報告に来たのよ、泥棒猫さんにね?」

 「妊娠?」

 「そうよ、もちろん沢木の子。

 中にはダメだってあれほど言ったのに。

 もうひとり、私との子供がどうしても欲しいだなんて言って。

 私も医者だから色々と大変なのに、出産だなんて」

 「嘘よ嘘! 信じない! そんなの絶対に信じないわ!」


 由紀子は喚いた。


 「じゃあ電話してみたら? 夫に?」


 聡子は勝ち誇ったっように「私の」という言葉を強調した。



 (裏切られた。)



 沢木に自分は騙されていたのだ。


 一体何だったの? 「結婚してくれ」っていうあの言葉は?

 怒りと惨めさで涙が込み上げて来た。

 本当は由紀子には用意していたセリフがあった。


 「あなたはもう愛されてはいないのよ」と言うセリフが。


 由紀子は何も言えず、俯き泣いた。



 するとカウンター越しに聡子が由紀子に近づくと、思いきり由紀子にビンタをした。

 由紀子のポニーテールが揺れた。


 水を打ったような静寂の中で、観客たちは息を飲んで次の言葉を待った。



 「本妻と不倫相手の違いってわかる!

 それはね、「妻」と書かれた一枚の紙切れがあるかないかなのよ!

 絶対に別れないから!

 二度と沢木に近づかないで!」


 そして聡子は悠然と調剤薬局を去って行った。

 まるでヒロインを演じる女優のように。

 自分が主役だと思って浮かれていた由紀子は、惨めな脇役になっていた。

 もちろんそのエンディングに拍手を送る者はいなかった。

 そこには軽蔑した目と、哀れみが残っていた。


 由紀子はその悲劇の舞台から走り去って行った。

 誰も彼女を止める者はいなかった。


 信号待ちをしていた交差点のように、停まっていた薬局の時間が再び動き出した。


 そして由紀子の「偽りの恋」も、膨らんだ風船がしぼんでいくように終わった。




第11話 

 娘との面会の日、娘の由佳は来なかった。


 「由佳は??」

 「ごめんなさい、今日は置いて来たの」


 ジャケットの内ポケットから木下は封筒を出すと、それをレストランの白いテーブルの上に置いた。


 「今月分」

 「ありがとう」


 そこにはいつもの知的で清楚な由紀子はいなかった。

 打ちのめされたボクサーが、しょんぼり座っているようだった。

 泣いたのか、瞼が少し腫れていた。


 木下はメニューを広げ、由紀子に訊ねた。


 「何がいい?」

 「あなたと同じものでいい」

 「それじゃあこのロッシーニ風なんちゃらでいいかい?」

 「うん」


 木下はウエイターを呼び、注文を伝えると由紀子に言った。


 「どうした? 明日、世界が終わるような顔して?」


 もちろん、娘の由佳を置いて来たその顔を見れば、何があったのかは想像がついた。



 「私、ウインブルドンで負けた大阪なおみみたいな顔してる?」

 「わからないよ。俺、テニスに興味ないから」

 「あなたの言ったとおりだった・・・」

 「何が?」


 私はわざと、とぼけてみせた。


 「私には似合わない服だったってこと」

 「沢木と別れたのか?」

 「まあ、そんな感じ」

 「辛いだろう?」


 由紀子は黙っていた。

 そして我慢することが出来ず、泣き出してしまった。



 「ごめんなさい、あなたに話すことじゃないのに」

 「俺、ダメになるとわかっていたよ。

 でも、うれしそうな君を見ていると言えなかった。

 悪いのは君じゃない。

 それで失明したわけでも、足が無くなったわけでもないじゃないか?

 由紀子は学んだんだよ、あの男はダメだって。

 君はまだイケるよ、俺が惚れた女だからね? 自信を持てよ、イケメンの医者なんてまだいくらでもいるんだから。

 次、もっといいヤツが由紀子に寄ってくるよ。お前なら。

 所詮この世には男と女しかいないんだから」

 「あの服、結局私には合わなかった」

 「そうだよ、偽ブランドなんて君には似合わない。

 君に似合う服はもっと他に沢山あると思うよ。シャネルとかグッチとか」

 「ありがとう。

 私はやっぱり馬鹿な女ね? あなたみたいなソニアリキエルを失くしちゃったんだもの」

 「おいおい、俺はユニクロだぜ。

 安くてそこそこお洒落で着心地のいいユニクロだよ」


 初めて由紀子が微笑んだ。


 「ねえ、また一緒に暮らさない? 由佳と3人で。

 あの家は出るわ。そして小さな家を・・・」


 木下は由紀子の言葉を最後まで聞かずにこう言った。



 「俺は君に似合う服じゃないよ。

 君はファッションモデルで僕はオートクチュールコレクションじゃない。

 君は今、失恋の痛手の中にいるから冷静な判断が出来ないんだ。

 でもね? 僕は君の専属スタイリストにはなれる自信だけはある。

 なぜなら君のことは誰よりも俺はよく知っているつもりだから。

 言ってみようか、由紀子のスリーサイズ。 

 イヤなのか? こうしてたまに会う親友では?」

 「ごめんなさい、ヘンなこと言って・・・」


 木下はその時思った。

 男女にも、何でも話せる友だち関係は成立する筈だと。



 「今日はとことん飲もう! 俺はお前の親友だから」


 料理が運ばれて来た時、木下はウエイターに言った。


 「それから生ビール2つ。直ぐにお願いします!

 喉がカラカラなもんで」



 由紀子の淡い、いつもの香水の香りがふわりとした。

 由紀子は笑顔になっていた。


 


最終話 

 相変わらずカイロ市内はクルマが濁流のように流れていた。

 これでよく事故が起きないのが不思議なくらいだった。


 カイロ市内に入る途中、砂漠を走る国道にはスエズ戦争の時の残骸であろう、砂に埋もれた戦車が放置されたまま錆びついて腐食が進んでいた。




 「すごーい! 久保田早紀の『異邦人』みたい。

 子供たちがー♪、空に向かいー♪・・・」


 淳子は初めてのエジプトにご満悦のようだった。



 砂の街。木下は砂漠のあるこの街が好きだった。

 流れるコーラン、香辛料と淫らな御香の香り。


 木下と淳子は街のガーデンレストランでランチをすることにした。



 「コース料理だから、そろそろメインディッシュだよね? どんなお料理が来るのかしら? 楽しみだなあ」

 「さっき食べたじゃないか? チキン。

 あれがメインだよ」

 「うそ! おつまみかと思った。

 じゃあ、あの最初に出たいくつかのお豆はまさか?」

 「そうだよ、あれがサラダだ」

 「えー、何それ! 全然お腹いっぱいにならないじゃないのー」

 「ダイエットしているんだろう?」

 「それは日本でのお話よ。せっかくエジプトに来たんだからさー。

 もっと美味しい物食べようよ。私が奢るからさー」

 「じゃあホテルに戻ったら、うんと豪華な食事にしようかな?

 どうせジュンの驕りなら?」

 「いいわよ、何でも奢ってあげる」

 「ところでどうだった? 本物の砂漠の感想は?」

 「凄かった凄かった!

 朝日が昇ると黄金の世界!

 まるで砂じゃなくて、砂金みたいだったよね!

 でも日中は死んじゃうかと思ったわ、だって50℃よ、気温が!」

 「これで湿度が高かったら死んでるよな?

 見ただろう? あのピンクの地平線」

 「うん! ピンクだった! 地平線がピンク色に燃えてた!」

 「じゃあこれから夜の砂漠を見に行こうか?

 今夜はちょうどスーパームーンだしね?」

 「なんだかワクワクする!」




 その夜は満月だった。

 日本のそれとは比較にならないほど明るい月明かり。

 ガイドブックが読めるほど明るい夜だった。



 「凄い温度差ね? 少し寒いくらい。

 でもとても綺麗、月の明かりで砂の粒が光ってるわ」

 「砂は比熱が高いからな?

 砂漠は「死の砂漠」なんていわれているけど、生きていると思わないか?」

 「何にも無いのにね?」

 「だって砂漠は海のように、一瞬たりとも同じ表情にならないじゃないか?



       朝に黄金に輝き 昼にくれないに燃え 夜は銀色に煌めく



 砂漠を歩くとまっすぐには歩けないそうだ。

 人間のカラダってどちらかに傾斜しているだろう? 右とか左とかに?

 だから低くなっている方に円を描くように、同じところをぐるぐると回り続けるらしい。

 つまり、何もしなければ最後には干からびて死んでしまうということだろうな?」

 「やっぱり「死の砂漠」じゃないの。何だかそんなこと聞いてたら怖くなって来た。

 ひとりにしないでね」

 「覚えているかい? 「結婚とは砂漠を彷徨うようなものだ」って俺が言った言葉を?」

 「だから来たんじゃないの、結婚という本物の砂漠を見るために」

 「結婚ってさ、この砂漠の中で同じところをぐるぐると回るようなもんだと思うんだよ。

 一人ではすぐに死んでしまう。

 話し相手もいない、孤独でこの何もない空間で足をとられながら歩く人生なんて絶望的だよな?

 でもふたりなら少しは気がラクになる。

 ひとりじゃないと思うとお互いを意識し、守ってあげたいと思うようになる。

 人生は砂漠のように辛くて過酷だ。

 だから一緒にいるだけじゃ死んでしまう。

 だったらどうすればいいと思う?」

 「うーん、オアシスを探す!」

 「見つからなければ?」

 「やっぱり死んじゃうかも」

 「好きな相手とならそれもいいかもしれないけど、生きなければ何の意味もない。

 俺ならその女と木を植えるな?」

 「砂漠に木を植えても枯れちゃうじゃない。水もないし」

 「だから水を探すんだよ、そしてそこに水を引く。

 やがて子供が生まれ、旅人や動物もやって来てオアシスが出来るんだ。

 つまり結婚とは、


 

    砂漠でオアシスを造ること



 夫婦で力を合わせて」

 「砂漠でオアシスかあ」



 木下は砂漠で大の字になった。


 「ジュンもおいでよ、凄く星がキレイだから」

 「砂で汚れちゃうよ」

 「いいから、いいから」


 仕方なく、淳子は木下の隣で同じように横になり、木下と手を繋いで星空を見上げた。


 「うわああああ、星が降って来そう!

 砂もすごく気持ちがいい! 何あれ? 天の河?」

 「そうだよ、そしてあの青く光る星がシリウスだ。蒼きオオカミの星。

 昔はシリウスが今の北極星の位置にあって、シリウスを中心にして地球が回っていたそうだ。

 だから昼間に観たクフ王の玄室にある通気口は、真北のシリウスが見えるように設計されていたらしい」


 淳子は木下にキスをした。


 「ありがとう、ジョー。

 ここまで私を連れて来てくれて」

 「なあ、ジュン。

 これから一緒に砂漠にオアシスを造らないか?」

 「えっ?」


 木下はズボンのポケットから小さな箱を取り出し、それを淳子に開いて見せた。



 「俺と結婚してくれ、ノーとは言わせない」


 木下は淳子の左手の薬指に、月光に煌めくダイヤのリングをはめた。

 淳子の涙がポトポトと砂に吸い込まれて行った。


 「あっ、流れ星!

 お願い事するの忘れちゃった。

 でもいいや、お願い事はもう叶っちゃったから」


 木下は淳子の肩を抱いて、砂漠の上に浮かんだ月を見て歌った。




     月のー♪ 砂漠をー♪ はーるー、ばるとー♪・・・




 そこには満天の星と砂漠、淳子と木下のふたりがいるだけだった。

 そしてどれも皆、美しく輝いていた。


             

                     『月の砂漠』完





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【完結】月の砂漠(作品231212) 菊池昭仁 @landfall0810

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