【完結】ガールフレンド(作品231127)

菊池昭仁

ガールフレンド

第1話

 広告代理店の営業課長、矢作やはぎ悦子と冬のキャンペーンの打ち合わせを終え、雑談になった。


 「悦子、来年発表する新作のモデル住宅のコンセプトを考えるために、イタリアのサボーナに行くことにしたからな? 今年はサボーナでクリスマスだ。どうだ? 羨ましいだろう?」


 私はいつも、彼女を下の名前で呼んでいた。

 彼女との付き合いはもう10年にもなる。

 

 「草野社長、私も同行させて下さい」

 「いいけどホテルは俺と同じ部屋だぞ、しかもダブルベッド」


 私はからかい半分にそう言った。

 悦子と海外など、いくらなんでもあり得ない話だったからだ。


 私たちは気の合う親友のような関係だった。

 彼女は私と同じセンスを持っていたので、安心して仕事を任せることが出来た。

 私はいつも悦子の企画をそのまま採用し、会社は順調に業績を伸ばしていった。

 悦子は信頼できる、仕事のパートナーだった。



 悦子は2年前に大学の准教授と結婚したが、子供はいなかった。

 年齢的なこともあり、「毎日、子作りに励んでいます!」とあっけらかんと笑っていた。


 イベントの打ち上げとかで、たまに飲みに行くことはあっても、それは女子会のようなもので、色っぽい話は一切なかった。

 悦子と私はそんな関係だった。



 「構いませんよ、ダブルでもなんでも。

 社長には男を感じませんから」

 「すっぽんほんで同じ布団でも大丈夫なのか?

 俺は素っ裸じゃなと眠れないんだ」

 「私もそうです。気持ちいいですよね? 裸で冷たいシーツって」

 「お前はヘンな奴だな?」


 私は笑ったが悦子は笑っていなかった。




 翌週の月曜日、悦子からLINEが届いた。


 

    イタリア行きの

    件ですが件です

    が、日程等はお

    決まりになりま

    したか?

    仕事の引継ぎ等

    があるので、早

    めにお知らせ下

    さい!



 私はすぐに返事を返した。



            本気で行くつも

            りなのか?

            俺とイタリアへ?


    もちろん本気で

    すよ

    では後程電話い

    たします





 それから2か月後、私と悦子はアリタリア航空の機上の人となっていた。



 シートベルトの着用サインが消え、CAたちが飲み物を配りながら食事の支度を始めた。


 「しかしよく旦那が許可してくれたな? イタリア行きを」

 「いいんです。ちょっとドキドキ感を与えてあげた方が。彼、愛に気を抜く人なので。

 もしかすると寝取られ願望があるのかもしれません。

 草野社長との動画を撮影して送ってやるつもりです」

 「そんなことをしたら、イタリアまですっ飛んで来るかもな?」

 「ありえますよ。彼、意外と焼き餅焼きですから」


 私は話題を変えた。


 「確か悦子はイタリアへは3度目だったよな? 新婚旅行と大学の卒業旅行で?

 『トレビの泉』でコインを投げたのか?」

 「投げましたよ、1枚だけ。

 後ろを向いて1枚投げると再びここを訪れ、2枚だと好きな人に会えて、3枚投げると離婚出来るんでしたっけ?」

 「俺は2枚投げた。でもどうやらそれは迷信だったらしい。

 いいよなあ、イタリア。

 あのカンツォーネと陽気なラテン語。オリーブオイルとニンニクの効いた料理に旨い酒。

 そしてあの石の街が俺は好きだ。

 輸入住宅という言葉を最近あまり聞かなくなったが、俺は本格的なイタリア住宅を手掛けてみたい。

 だから今度の視察旅行はなるべく農村部を回りたいと考えているんだ」

 「なんだかワクワクしますね?」

 「ああ、沢山いいアイデアを見つけて来ような?」

 「はい!」


 その時、CAが食事の入ったワゴンを押して、俺たちの座席にやって来た。


 「Beef or chicken?」

 「Beef,please」

「Me,too」



 私と悦子は早速機内食とワインに取り掛かった。



 ロンドンのヒースロー空港から単距離便にトランシットして、ミラノへ向かうスケジュールになっていた。

 長旅ではあるが、悦子がいれば退屈することはない。

 あっという間に最初の給油地、アンカレッジに到着した。



 アンカレッジは遠くに氷の山々が連なり、ピンと張りつめた空気が心地良かった。


 「うどん、食べようぜ。

 ここのうどんが最後の日本食だからな? 旨いんだよ、ここのうどん」

 「私もアンカレッジのうどん、好きです。

 おそらく冷凍なんでしょうけど、なんだかすでに懐かしさが込み上げてくるから不思議ですよね?」

 「それじゃあ、「哀愁のうどん」と参りますか?」

 「ついでにビールも飲みたいです!」

 「また飲むのか? 悦子は酒好きだからな?」

 「社長だってお酒と美人は大好きじゃないですか?」

 「よくご存じで」


 私と悦子は顔を見合わせて笑った。

 この時はまだ、ただの友だちとして。




第2話

 今度のイタリア出張に悦子が同行することは女房の裕子には黙っていた。

 

 (浮気?)


 そうだと思う。

 浮気とは身体を合わせることだけではない。そこに相手への想いがあれば、たとえ隣同士で立食いソバを食べていたとしてもそれは「浮気」だ。

 悦子とは15才も歳が離れていたが、考えに違和感はなかった。

 悦子は成熟した女だった。

 少なくとも精神的、教養的には。


 聡明でファッションセンスも良く、一緒にいてとても楽しい女だった。

 もちろん下心が無いと言えば嘘になる。

 今まで悦子を口説くことをしなかったのは、年齢的なギャップと、彼女が仕事上の大切なパートナーだったからだ。

 私は悦子にとっていい兄であり、父親のような存在に甘んじていた。

 それで充分だった。


 彼女に触れることは彼女の純潔を穢すように思えた。

 この関係性を壊したくはなかった。


 そもそもSEXが先ではない。人間の愛とは「想い」が先だ。

 アダムとエヴァが人類の起源であるなら、それにより人類の生命は果てしない近親相姦によって支えられて来た。

 エスキモーは客に自分の妻を差し出してもてなす習慣があると聞いた事がある。


 「何もありませんが、女でもどうぞ」という感覚なのだろうか?

 氷に閉ざされ生肉を食べ、生き血を啜ることでビタミンを補給するエスキモーの生活。

 そこに貞操観念は存在しないのだろうか?

 ある心理学者の説によると、息子は父親を殺し、母親を犯したいという潜在意識があるという。

 そして娘は母親を殺し、父親に抱かれたいと欲するのだろうか?

 高尚なセックスとは恋愛の中でこそ成立すると思いたい。

 それは、


       ひとつになりたい



 という意識がそうさせるからだ。

 溶け合いたい、溶けてしまいたいと。


 ひとつに繋がることの意義がそこにある。

 ただ快楽を求めてする行為ではない。

 一体化することが重要な目的なのだ。




 うどんを食べながら悦子が言った。


 「なんだかハネムーンに来ているみたいですね? 私たち」

 「スケベなオヤジと愛人のお忍び旅行だろ?」

 

 私はうどんを啜りながら、悦子を見ずに言った。


 「それでもいいですよ。私は」


 彼女は箸を持ったまま、意味深に私を熱く見た。




 給油も終わり、私たちは乗り換えの地、ロンドンへとフライトを続けた。



 アンカレッジを離陸して1時間、腹も満たされ、酒も入り緊張も解けたのか、悦子はスヤスヤと眠ってしまった。

 あどけない無防備なその寝顔に、私の理性は崩壊寸前だった。

 潤んで少し開いた唇。

 キスしたい衝動を私は必死に抑えた。


 「私たちは友だちなんですよねっ? 

 恋愛関係? ないない、絶対にない。

 私たちは「友だち」ですもんね?」


 と、笑いながら話す女。

 そんな光景をよく見かけるが、それは嘘だ。

 男と女の友情など、あり得ないと私は思っている。

 その理由は明解だ。



       友情とはお互いの好意だからだ



 嫌いな奴、苦手な奴、普通の感情での付き合いは、それはただの「知り合い」だ。

 男女に於ける好意は恋愛を意味する。

 ボーイズラブやレズビアンとは異なり、普通の同性同士であれば、心で繋がることはあっても肉体で繋がることは少ない。

 もちろん、それを否定するつもりはない。

 愛はすべてを超越するからだ。


 ♂と♂、♀と♀とでは身体機能的に合体することは出来ない。

 そして子供を作ることも不可能だ。

 それは神がお決めになったことだからだ。

 だが男と女の場合は肉体的に繋がることで、自分たちのDNAを後世に残すことが可能だ。

 つまり♂と♀はカラダで繋がることを欲する生き物なのだ。


 恋愛は「好き」から始まる。そして恋から愛へと進化しようとする。

 同性同士の場合は好意が愛に変わると、友だちから親友に変わる。

 だが男女の場合は既に恋愛感情が成立しているということになる。

 そしてお互いにそれを感じてはいるが、諸事情がより告白することが出来ずにいる。

 どうして?



       傷付くのが怖いから



 「えっ、俺たち友だちだろう?」「やだもう、私たち友だちだよね?」

 

 と言われるのが怖いのだ。

 あるいはお互いに恋愛感情を抱きながら、「不倫」とか言う、あの不快で下劣な言葉にカテゴライズされるのがイヤなのかもしれない。

 少なくとも私は悦子が好きだった。

 もちろん恋愛対象として。



 私は鞄からNina de Gramont の『of cats and men』のペーパーバックを読み始めた。


 そして私もいつの間にか、深い眠りに落ちて行った。




第3話

 機内アナウンスで目が覚めた。

 これからヒースロー空港への着陸態勢に入るという。


 ETA(到着予定時刻)はGMT(グリニッジ標準時)がロンドンのLMT(現地標準時)と同じ、午前5時35分。

 流石は英国航空、CAの発音も綺麗なクイーンズ・イングリッシュだった。



 「おはようございます。よく眠っていらっしゃいましたよ、お口を開けて」

 

 女が自分の寝顔について言われるのはイヤなはずだ。

 私は悦子の寝顔についての言及は避けた。

 だが逆に、女が無防備に寝顔を見せるのにはそれなりの意味がある。


 「だいぶ飲んだからな? 気圧も低いし酔ったようだ。

 飛行中の男のアソコが大きくなるって知っていたか?」

 「ホントですか? 見せて下さいよ」

 「ポテトチップの袋がパンパンになるだろう? あれと同じだよ。

 袋もパンパン、そしてアソコもデカくなる」

 「見たい見たい!」

 「嘘だよ」

 「なーんだ。でもCAの友人が言ってました。機内ではお腹が張って、お客さんの前でオナラしちゃったんですって」

 「かわいいじゃないか? そのCAさん」

 「すっごい美人なんですよ、彼女」

 「あはは、会ってみたいな? その美人オナラCAさんに。

 こんなに長い欧州へのフライトが、こんなに短く感じたのは初めてだ。

 悦子と一緒で本当に良かった。

 ずっと外を見ていられたら退屈もしないのにな?

 夜の星空なんてすごく綺麗なはずなんだけど、夜間飛行の障害になるからと見せてはくれない。

 空から星を見てみたいよな?

 自分よりも下に見える星を」

 「学生の時、立山の標高2,000m位の国民宿舎で見た星空は、ボコボコに輝いていましたよ」

 「俺も見たよ、人工衛星に流れ星、天の川まで見えるもんな?

 見事だったなあ、あの満天の星」

 「ずっと座っていたからお尻が痛くなりました」

 「足のふくらはぎは揉み解しておけよ。エコノミー・シンドロームにならないように」


 私と悦子は自分のふくらはぎをマッサージしながら笑った。


 「ヒースローでトランジットしてミラノだ。

 それからクルマでサボーナに行く」

 「冬のリビエラですね?」

 「歌うか?『冬のリビエラ』?」

 「森進一ですか?」

 「いや、森進一は嫌いだ。原作者の大瀧詠一のヴァージョンの方がいい」

 「同じですよ、どっちも。

 ではそれをリビエラの海辺で唄って下さいね? 約束ですよ」

 「いいけど、カネ取るぞ」

 「いいですよ、社長の唄が聴けるのなら」




 ヒースロー空港でイベリア航空に乗り換え、雲の白い絨毯の上を順調にフライトを続けていた。

 

 「見て下さいよ! まるで天国にいるみたい!」

 「天国ってこんなカンジなのか? 何もない、ただ美しいだけの世界なら俺には退屈だな。

 旨い酒とキレイな姉ちゃんがいないと天国じゃねえよ」

 「いるじゃないですか? ここに」

 「友だちじゃなく、口説ける女がいい」

 「どうぞ、口説いてもいいですよ」

 「バカ、遠慮しとくよ」


 

 ミラノからクルマをチャーターしてジェノバに向かった。

 陽気なイタリア人運転手、カルロスは饒舌な男だった。


 「日本からハネムーンかい? いいねえ、新婚さんは!」

 「俺は日本のムービースターで、この女は相手役の女優なんだ」

 「そうかい! そいつはすげえや! でもその割にはパパラッチが追っかけて来ねえな?」

 「おかしいなあ? ヘリも飛んでいないようだしなあ?」

 

 カルロスは時速160kmで走っている古いメルセデスのハンドルから両手を離し、お道化て見せた。


 「旦那、今日はアイツらバカンスかもしれねえよ? あはははは」


 私たちは大笑いした。


 「今日はサボーナの隣のジェノバにホテルを予約しておいた。

 チェック・インをしてから街へ出て食事にしよう」

 「楽しみです、本場の美味しいイタリアン!」



 クルマはジェノバのホテルの前で停まった。


 「ありがとうカルロス。楽しかったよ、5日後もミラノまで送ってくれるかい?」

 「あったりめえだぜ、旦那。

 俺たちはアミーゴじゃねえか!」


 私はカルロスに少し多めにチップを渡した。



 

 フロントでチェック・インの手続きをする時、

 

 「予約した草野だ、部屋をふたつ頼む」 

 「草野様ですね? ようこそジェノバへ!

 長旅お疲れ様でした。

 この書類にサインをお願いします」


 すると悦子が言った。


 「社長、お部屋はひとつでも良かったのに。勿体ない」

 「俺は友だちとは一緒に寝ない主義だからな?

 それに俺はいびきも凄い」

 「私は歯ぎしりが酷いようです。夫から言われました。

 何がそんなに口惜しいんでしょうね?」




 私と悦子は夜のジェノバの街へ繰り出した。


 「とても綺麗、やさしい灯りですね?」

 「イタリアも南と北では全然違うからな?

 日本でも九州と北海道では違う。ナポリとミラノでは大違いだ。

 もっとも俺は、治安の悪いナポリの方が好きだけどな?」

 「ジェノバにずっと来たかったんですよ、『母をたずねて三千里』のマルコのふる里じゃないですか?」

 「よく知ってるな? 悦子の時代にはないアニメだけどな?

 今考えると酷い話だよ。貧しい人たちを救うために病院を造り、負債の穴埋めのために幼いマルコと母親を引き離し、移民船に乗せてブエノスアイレスまで女房を出稼ぎに出すなんてな?

 それを子供のマルコが遠いアルゼンチンまで母親に会いに行くっていう物語だが、原作の『クオーレ』にはマルコがなぜ、母親のアンナを探しに出掛けるのかといういきさつはなく、日本の脚本家が考えたストーリーだそうだ」

 「あのアニメを見て、私、いつも大泣きしていました」



 クリスマス前のジェノバはかなり冷えた。

 私と悦子は小さなレストランテに入いることにした。


 「寒いからこの店で暖まるとするか?」

 「素敵なお店ですね?」


 私と悦子は少し曇ったガラス扉を開けた。




第4話

 そのレストランテには暖炉が燃えていた。

 オークの薪なのか? いい香りがする。

 私と悦子は暖炉に凍えた手を翳した。



 テーブルに就き、まずはロゼで乾杯をした。

 

 「美味しいー、日本にもあるんですかね? こんなワイン」

 「どうかな? テーブルワインだけど旨いよな? このワイン」

 「日本ではこんな素敵なイタリアンレストランなんてないですもんね? 凄く気取っているか? イタリア料理店じゃないようなお店ばかり」

 「日本のイタリアンレストランと違うのは、ここでは料理が歴史と文化、そして建物に沁み付いているからかもしれない。

 そしてそれは更に、ここに集う人々が醸し出すものだ。

 食は文化を測る物差しでもある」


 私たちはアンティパストを終え、プリモ・ピアットに取り掛かった。


 「イタリアンはいいよなあ、フレンチみたいに食事の作法が厳格ではないから。

 多少のアレンジや料理の順番を変更しても、あまり嫌な顔はされない」

 「このチーズリゾット、塩加減が絶妙です」

 「美味しいよな? メインが楽しみだ」

 

 食事には人柄が出るものだ。

 何度か悦子と食事をしたが、彼女はいつも楽しそうに美味そうに食べる。

 私の知る限り、好き嫌いもない。

 料理についてかなりな知識と経験がありながら、それをひけらかすこともない。

 悦子はそんな女性だった。

 人を楽しませるのが得意で、いつも場を和ませてくれる。



 悦子のナイフとフォークを持つ手が止まった。


 「社長、私、嘘を吐いていました。

 ごめんなさい」

 「どんなウソだ?」


 私はナイフとフォークを動かしながら訊いた。


 「私、夫に黙って出て来ました」

 「そうか」


 さほど驚かなかった。それは私の想定内だったからだ。

 私はメインのロブスターに再びナイフを入れた。

 

 「驚かないんですか?」

 「あー、びっくりしたー。

 これでいいか?」

 「私、離婚しようと思っています」

 「どうして?」

 「結婚って何なんですかね?」

 「修行だよ」

 「修行?」

 「結婚するとな、お互いのイヤな部分が目につくようになる。

 結婚する前はいろんなところに連れて行ってくれた旦那も、休日になると家でゴロゴロ寝てばかり。

 そして奥さんは料理も面倒になり、冷凍食品やスーパーのお惣菜で済ませるようになる。

 結婚前は手の込んだ料理を作ってくれたのにだ。

 それに耐える修行が結婚だ」

 「結婚が修行なら、私には無理です・・・」

 「どんな修行だ? 悦子の修行は?」

 「子供が出来ない、修行です・・・」

 「旦那は子供が欲しいのか?」

 「はい、すごく。そして向こうの親も」

 「悦子みたいな奥さんがいるだけでもラッキーなのにな? さらに子供も欲しいのかあ。贅沢な連中だ。

 子供の事、結婚する前に話し合ったんだろう?」

 「あまり・・・」


 悦子の食事のペースがダウンしてきた。

 店内にはバリー・マニロウが流れていた。


 「病院には行ったのか?」

 「はい、でも中々上手くいかなくて」

 「悦子はどうなんだ? 子供、欲しいのか?」

 「正直に言うと、私はどちらでもいいというのが本音です。

 このお仕事も好きですから」

 「何で結婚したんだ?」

 「なんとなく。

 やさしそうな人だなあと思って」

 「大学の准教授だしな?」

 「それも多少は・・・」

 「よっ! 教授夫人!」

 「茶化さないで下さい」

 「ごめん、だって悩むような問題じゃねえからさ」

 「悩みますよ、十分」

 「人はどうして悩むと思う? 迷うのは何故だ?」

 「夫婦の問題で悩まない人はいません」

 「悩む必要なんてない」

 「どうしてですか?」

 「それはお前の欲だからだ。

 誰も傷付けたくないという欲。

 旦那も、義理の両親も、そして自分の親、職場の人間や友人、そして自分も傷付くのが怖い。陰口を言われるのもイヤだからな?

 「悦子さん、離婚したんだって」って。

 嫌なら別れればいい、しかも出来るだけ早く。

 悦子に魅力がないなら話は別だが、お前は俺も認めるいい女だ。

 またもっと良い、新しい彼氏を探せばいい。

 ただそれだけのことだ」

 「そんな簡単には行きませんよ」

 「簡単だと思えばいい。俺と簡単にイタリアに来たよういに。

 自分を大切にしろ、お前に修行は似合わねえ」

 「修行はイヤです」

 「考えても見ろ、人生100年、あと65年も修行出来ねえだろう?

 いいか悦子、そんな話はよくあることだ。

 自分に素直になれ。

 俺は思うんだ。子供が欲しい、子供が欲しいという旦那。そいつはガキなんだよ。

 見た目は大人でも、大学の先生でも、思考は子供なんだ。

 それじゃあその旦那は、不妊で悩んでいる女房の気持ちを考えてくれているのか?

 俺だったら「悦子がいればそれでいいよ」って言うけどな?

 そんなガキみてえな准教授と暮らして幸せなわけがねえだろう? 違うか?

 子供を作るために結婚があるんじゃない。

 結婚とは「哀しみや苦しみを半分にして、喜びや楽しみを倍にする戦友になること」だ。

 生きることはラクじゃねえ、そのために男と女がいるんじゃねえのか?

 いいから飲め、そして食え。

 とにかく今はイタリアを楽しめ。

 そんなお荷物はこのリビエラの海に捨てろ」

 「そうですよね? 折角のイタリアですもんね?」

 「そうだ、ここはイタリアなんだからな?

 食べて飲んで、歌って踊って、恋愛するのがイタリア人の人生だ! 俺たちもイタリア人になろうぜ」


 私たちは再びグラスを合わせた。


 「悦子のこれからのしあわせな人生に乾杯!」

 「社長のお仕事の成功に!」

 「サルー(乾杯)! あっ、これはスペイン語か?」

 「イタリア語なら「チンチン」ですよ」

 「もう一回、何だって?」

 「何度も言いませんよ!」


 


 ホテルに戻り、私たちはそれぞれの部屋に向かった。


 「明日はポルトフィーノに行くからな?」

 「わかりました。おやすみなさい」


 悦子は私に抱き付き、キスをして部屋に入って行った。

 私は少しの間、茫然としていた。


 それはすでに忘れていた、ときめきのKISSだったからだ。




第5話

 翌日、私たちはジェノバから電車に乗り、ポルトフィーノを訪れた。


 「信じられませんよ。電車が1時間の遅れですよ、事故も故障もないのに。ホント、イタリア人っていい加減!」

 「おおらかだと言ってやれよ。日本のJRがそれだけ優秀だってことだ。

 1時間で良かったよ、この前来た時は6時間だったからな」

 「いつになったら電車が来るのかって訊いたら「わかりません」って平気で言うし。

 そして「何かあったんですか?」って訊いても「何もありません」って。すごく適当」

 「だからイタリアなんだよ。

 いいじゃないか、旅のトラブルはいい思い出だ」



 その後、私たちはタクシーで岬の上に建つ、サン・ジョルジュ城塞からポルトフィーノを見下ろした。


 「すごくかわいい! まるでジブリの『ハウルの動く城』の背景画みたい!」

 「ここはイタリアで一番美しい、いや、世界で一番美しい街だと言われている。

 フェラーリやランボルギーニのクルマの名前にもなったり、ハリウッド・セレブなど、世界の富豪たちが集まるリゾートだ。

 あの東京ディズニー・シーの街並みは、このポルトフィーノを模したと言われている」

 「へえー、とっても綺麗ですね?」

 「ここサン・ジョルジュ城塞からのポルトフィーノ眺めはとてもすばらしい。 とても参考になるよ」


 私たちはスマホで写真や動画を撮りまくった。

 

 「社長、一緒に撮りましょうよ」


 私は悦子と写メを撮りながら、昨夜のキスを思い出していた。

 悦子のニナ・リッチの香水の香りと、微かにロゼワインの味がした。

 あれははたして浮気だったのだろううか? 


 酔った悦子の戯事ざれごと? それとも悦子の気まぐれ?


 そもそも浮気の定義とは何だ?

 手を握る? 肩を抱く? 髪に触れる?

 ハグ? キス? ディープキス? それともセックス?

 その基準は行為の問題ではないと私は思う。


 それは「想い」だ。


 相手に対する想い。そこに恋愛対象としての意志が存在するなら、それは何もしなくても「浮気」なのだ。


 ゆえに私は彼女からキスをされようとされまいと、私にとっては既に「浮気」が始まっていた。

 私は悦子のことが「女として」好きだからだ。



 「どうしたんですか社長? ボッーッとしちゃって?」

 「浮気の基準って何だと思う?」

 「キスだと思います」

 「どうして?」

 「だって、手を触れたりするのは意識せずとも偶然にもあることじゃないですか?

 でもキスは、相手のことが好きだからする、明確な恋愛表現だからです」


 悦子はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。


 「でも心配しないで下さい。

 昨夜のキスは「おやすみなさい」のキスですから、浮気じゃありません」

 「おいしいキスだったよ、ほんのりワインの香りがして」

 「やだもー、そんなこと言われると「本気のキス」をしたくなるじゃないですかあー、うふっ」

 「俺たち、友だちだよな?」

 「そうですよ、友だちです。親友ですけど」


 すると悦子が私にやさしくキスをした。

 それは明快なキスだった。


 「どんな味がしました?」

 「朝食の時に飲んだ、カプチーノの味がした」

 「あはははは さあポルトフィーノの街をお散歩しましょ」

 

 私たちは待たせておいたタクシーに乗り、岬を下りて行った。


 美しい宝石のような街、ポルトフィーノへ。




第6話

 「タクシーはここまでなんですか?」

 「この街には普通のクルマは入れないんだ。

 交通手段は船なんだよ。

 それがこの美しい景観を守っているとも言える。

 だからここには中世のロマンがまだ残っているのかもしれない」

 「このパステルカラーの街並、この風景に溶け込んでいますよね?」

 「東洋人には作れない色彩都市だ。

 俺はこれを日本に造りたいと思っている」

 「これが日本の住宅地に出来たら嫌ですよ。

 なんだか「富士そば」にアントワネットのドレスを着て行くような感じになるじゃないですか?」

 「あはははは でも俺はそんなことは考えていない。

 俺がそんなことするわけねえだろう?」

 「じゃあどうするんですか?」

 「街ごと造るんだよ、この街をそのまま日本に造るんだ」

 「街ごとですか?」

 「そうだ、俺はこの小さな漁村、ポルトフィーノのような街を日本の無人島に造ってみたい。

 子供も若者も、オッサンもオバサンも、爺さんも婆さんも、そして犬や猫など、動物たちが家族のように暮らせる街が造りたい。

 つまりただ家を売るだけじゃなく、生活そのものを提案したいんだ。

 これからの少子高齢化社会を見据えてな?

 俺はコミュニティを作ってみたいんだ、美しいこのイタリアの至宝のような街を」 

 「この素敵な街を日本にですか?」

 「そうだ、この美しいポルトフィーノを。

 笑われてもいい、俺はそれがやりたい。

 自治区を作りたいんだ。 

 自分の得意分野を持ち寄って、助け合いながらみんなで生活する街を。

 人はカネがあればしあわせか?

 俺はそうは思わない。生きるためには「生き甲斐」が必要なんだ。

 生き甲斐とは人の役に立つこと、人を笑顔にすることだ。

 美しい自然と美しい街。笑顔の溢れるそんな街を沢山作りたい。

 もちろん、俺が生きている間には実現出来ないかもしれない。でもその後を受け継いでくれる人たちがいれば、その夢はいつか叶うはずだ。夢は引き継がれていく物だからな?

 どうだ悦子、一緒にやらないか? 『日本ポルトフィーノ計画』を」

 「私もやりたいです! 社長と一緒に!」




 私たちは海に面したレストランで食事をしていた。

 海面に太陽が反射し、銀の針をばら撒いたように煌めいている。

 波が岸壁に打ち寄せ、ヒタヒタとさざ波が立っていた。



 「このワタリガニのパスタ、忘れられない味になりました!」


 悦子はシャネルのサングラスを掛け、器用にパスタをフォークに巻き付けると、セクシーな赤い唇にそれを入れた。


 いつものパンツスーツの悦子ではなく、それはまるでハリウッド女優のようにみやびだった。

 私の妄想は広がった。


 (ワタリガニのパスタソースの味のキスも悪くないな?)


 私はグラスに浮かんだミントを噛んで、チンザノのドライを口に含んだ。

 爽やかな香りが鼻に抜けてゆく。


 この景色があるからこその食事だった。

 料理とは味と器への盛付けだけではなく、その場の雰囲気も食事の一部なのだ。

 店の造り、音楽や客、スタッフ。

 そして最も大切なのは「誰と一緒に食べるか?」だ。

 私はイカ墨のチーズリゾットを食べていた。


 「社長」

 「何だ?」

 「イタリアにいる時だけ、お互いを名前で呼び合いませんか?」

 「いいよ」

 「陽一さん」

 「はい、なんでしょう? 悦子さん?」

 「陽一さん、お口が真っ黒」

 「このイカ墨のリゾット、旨いぞ。日本では食べられない味だ」

 「では私もお味見をさせて下さい」

 

 悦子は私の皿に手を伸ばすと、そのまま私のスプーンでリゾットを掬い、食べた。

 

 「私も黒いですか?」

 「お歯黒になってるぞ。大奥の女みたいに」

 

 私たちは顔を見合わせて笑った。

 悦子は皿とスプーンを私に返すと言った。


 「間接キッスですね? 陽一さん?」

 

 私は聞こえないふりをして、チンザノを飲んだ。


 クルーザーがデッドスロー・スピードでこのレストランテにやって来た。

 その波が眼の前に停泊している船たちを揺らした。

 

 私と悦子の心も一緒に。




第7話

 「明日はサボーナに行くからな? おやすみ悦子」

 「今日も凄く楽しかったです。おやすみなさい、陽一さん」


 そう言って悦子は私に「おやすみのキス」をすると、自分の部屋に入って行った。

 

 私も自室に入り、ソファに体を投げ出し、天井を眺めていた。


 今日も楽しい一日だった。

 美しいポルトフィーノの街を歩き、悦子との食事。

 ベッドを共にしないことを除けば、まさに新婚旅行の気分だった。


 私はこの心地よい余韻に更に深く浸りたいと思い、ホテルのバーラウンジに降りて行った。



 「バランタインの12年をロックで」

 「かしこまりました」


 私はタバコに火を点け、ようやく落ち着いた。


 やはり女として意識してしまった悦子といると、彼女を気遣う自分がいる。

 こうしてひとりでいる時間も悪くはない。

 私はネクタイを緩め、女房の裕子のことを考えていた。


 裕子は大学のスキーサークルの後輩だった。

 私のような自由気ままな男と結婚し、子供たちを育てるのは大変なことだったはずだ。

 会社が大きくなるにつれ、私のストレスも更に強くなっていった。

 私のストレス解消は酒と女だった。

 

 今も高田馬場のクラブホステス、千秋と1カ月に1度のペースで逢瀬は続いていた。

 千秋とはカラダの付き合いだけだった。

 千秋もそれ以上の関係を望むような女ではなかった。

 私たちはお互いに都合のいい関係だった。


 女房の裕子に対しての罪悪感はなかった。

 すでに私たち夫婦に恋愛感情はなく、ただダラダラと家族関係が続いているだけだったからだ。

 だから私の解釈として、それは浮気ではない。

 そして裕子とは10年以上もセックスレスだった。

 

 だが今回の旅行で悦子がただの仕事上のパートナーではないことを自覚してしまった今、私の心情は複雑だった。

 それは日本では見ることの出来なかった悦子の別な姿を知り、人妻でもなくなりそうな状況にあるからなのかもしれない。

 私は今日、レストランのテラスで海面の照り返しを受けて輝く、悦子を想い出していた。



 背後から悦子の声がした。


 「ズルいですよ陽一さん、自分だけお酒を飲むなんて」


 悦子が私の隣に座った。


 「今日はたくさん歩いたから、疲れていると思って誘わなかった。

 そして美女と一緒だと、緊張するからな?」

 「私も同じですよ。陽一さんといると凄く緊張します。

 私にはマルガリータを」

 「はい、奥様」


 バーテンダーは悦子の左手の薬指にある、結婚指輪を見逃さなかった。

 悦子が来たので、私はタバコの火を消した。


 「陽一さんのそういうさりげない気遣い、好きです」

 「別に悦子に気を遣ったわけじゃねえよ」

 「私も一本、貰ていいですか?」

 「タバコ、吸うのか?」

 「たまにですけどね? タバコを吸う女はキライですか?

 仕事でイラついている時とか、寂しい時、そして今みたいな時には吸いたくなります」

 「今みたいな時?」


 私は悦子にタバコを差し出し、ライターで火を点けてやった。

 悦子は物憂げに、軽くタバコの煙を吐いた。


 「あー、美味しいー。

 最近はよく吸うんですよ、私もタバコを」


 いい女がタバコを吸っている仕草は絵になるものだ。

 それは美人がオープンカーを自分で運転しているようなものに似ている。

 そのギャップがいいのだ。


 私は再びタバコに火を点けた。


 「今みたいな時とは、こんな時のことです」


 悦子は私の手に自分の手を重ねた。


 「マルガリータって、女の人の名前なんですよね?」

 「ああ、英語ではマーガレット。花の名前にもなっているよな? 確かこのカクテルを考えた、ジョン・デュレッサーの恋人の名だったはずだ」

 「じゃあ、このカクテルの意味もご存知?」

 「無言の愛」


 悦子がタバコを吸うと、火垂るのように煙草が赤く光っていた。

 悦子がマルガリータを口にした。


 「マルガリータがジョンと一緒に狩りに出掛けた時、彼のライフルの流れ弾が彼女に当たって死んでしまう。

 哀しいお話です」

 「自分が殺したようなものだからな? 

 愛すれど哀しくか・・・」

 「私も同じです。

 陽一さんの撃った流れ弾に当たって死にそうなんです」

 

 悦子は私に体を寄せた。

 私は心の中で呟いた。


 (それは俺も同じ気持ちだ)


 悦子の吸うタバコとトリートメントの甘い香りがした。


 俺の知らない悦子のもうひとつの扉が開きそうだった。




第8話

 「明日も早いから、もう寝るぞ」

 「まだ飲みたい・・・」

 「結構飲んだろう? ほら、明日はサボーナだから」


 悦子はかなり酔っていた。

 いい女が酔うと、より美しさが際立つ。

 そして男の下心は膨らむ。


 女が男とサシで無防備に酔うのには意味がある。

 


    私を好きにして



 という決意を秘めている。

 

 ではそれに対して私の取るべき行動とは?



 「おんぶ。陽一さん、おんぶして・・・」

 「しょうがねえなー」

 

 私はカウンターにチップを置き、バーテンダーにウィンクをした。

 

 「素敵な夜を」


 バーテンダーは笑ってチップを受け取った。



 悦子の小さめの胸を背中に感じ、アソコが腰に当たり、開いた感触が伝わる。

 私は形のいい悦子のヒップに手を添えた。


 私の顔の横にある悦子の顔。時々甘い吐息が私の頬にかかった。


 「陽一さん・・・」

 「どうした?」

 「しあわせ・・・」




 私は悦子から鍵を受け取り、彼女の部屋のドアを開けた。


 彼女をソファに座らせ、冷蔵庫から冷えたペリエを取出してコップに注いだ。

 小気味の良い爽やかな炭酸水の音が弾ける。

 

 「飲め」

 「ありがとう、ございます・・・」


 目を閉じて炭酸水を飲む彼女のその横顔に、私は見惚れた。



 「じゃあな? 明日、朝食を食べたら出発す・・・」


 立ち上がった私の腕を悦子が掴んだ。


 

 「行かないで・・・、私が眠るまで傍にいて」


 遂に私の理性は崩壊し、悦子を強く抱き締めてしまった。

 私たちはそのままで、数分間を過ごした。


 頭に「純愛」という文字が浮かんだ。

 私が既に忘れていた物、それがこれだった。


 とろりとした甘く切ない想い。

 悦子の柔らかい唇が私の唇と重なった。


 「ずっと、ずっと前から好きでした・・・」


 私はそれに応えるように、悦子と口づけを交わした。


 「抱いて・・・」


 私たちはソファから立ち上がり、服を脱ぎ捨て、ベッドへ倒れ込んだ。



 檻から放たれた獣のように、私と悦子はお互いを激しく求め合った。


 悦子は別人のように喘ぎ、悶えた。


 しかし、その行為に穢れや不浄はなく、至極美しいものだった。

 

 悦子の肉体は、服の上から想像した以上に均整が取れていた。



 「陽一さん、陽一・・・さ、ん」


 悦子は私の名を呼び続け、何度もエクスタシーを迎え、そして果てた。



 私はその時、妻への激しい背徳感に襲われた。


 なぜならその行為はまぎれもなく「純愛」だったからだ。


 私はこの時、初めて純愛を知った。




最終話

 私と悦子は朝、ホテルのレストランででコンチネンタル・ブレックファストを摂っていた。


 そこには昨日までの他人行儀な関係はなく、私たちの心は確実につながっていた。


 コックが卵の焼き方を尋ねてきた。

 

 「サニーサイドアップ? スクランブルエッグ? あるいはターンオーバーにいたしますか?」

 「スクランブルを」

 「私はサニーサイドアップにして下さい」


 

 シーザーサラダとカリカリに焼いたベーコン、茹でたソーセージにトーストの簡単な朝食。

 だが今日の朝食は特別だった。

 私たちの友情は恋へと昇華し、お互いの気持ちを隠さなくてもよくなったこどで、とても安らかな気分だった。



 「このカフェオーレ、すごく美味しい」


 彼女の上唇に、カフェオーレのクリームが少しついた。  


 悦子はそれを舌で軽く拭った。

 私は自分のキスでそれを拭って遣りたいと思った。


 (昨夜の悦子は一体何処へ行ってしまったのだろう?)


 そんなことを考えて、私は笑った。

 

 「何を笑っているの? 私の顔に何か付いてる?」

 「いや、何でもないよ。いい女だなと思って見惚れてた」

 「ふふっ おかしなひと。

 陽一さんも凄く素敵」

 「俺たち、やっと「友だち」を卒業だな?」

 「・・・うん。私、愛人に昇格だね?」

 「悦子は愛人じゃない」

 「じゃあ何?」

 「それはお前が決めることだ。モーニング・シャンパンを飲もう」


 私は給仕を呼び、シャンパンをオーダーした。



 シャンパングラスに注いだモエ・シャンが北イタリアの朝日を受け、黄金に輝いていた。


 「乾杯しよう」

 「何に?」

 「俺たちの嵐の船出に」

 「私、もうこの船を下りないわよ。たとえ酷い嵐の航海になろうとも」

 「俺たちの嵐の海への船出に、乾杯」

 「乾杯」

  

 嬉しそうに微笑む悦子と私がいた。



 

 朝食を終え、悦子の左手と恋人繋ぎをしてレストランを出る時、私は彼女の手に結婚指輪がなくなっていることに気付いた。


 「指輪はどうした?」

 「外したの、もう必要ないから」


 悦子が私の手を強く握った。私も彼女の手を強く握り返した。

 




 私たちは早朝のリビエラの浜辺にやって来た。

 冬のリビエラの灰色の空と海、穏やかな地中海のコントラストが果てしなく続いていた。


 風は止み、凪だった。

 穏やかに押し寄せては引き、引いては押し寄せる波。

 まるでチェロのボーイングのようだった。



 「これが陽一さんの言っていたサボーナ? 冬のリビエラの海なのね?」

 「これが冬のリビエラだ。お前に見せたかった景色だ」



 私は『冬のリビエラ』を口ずさんだ。



    冬のリビエラ 男って奴は

    港を出ていく 船のようだね

    哀しければ 哀しいほど

    黙り込むもんだね



 私と悦子は靴を脱ぎ捨て、さざ波に立って抱き合い、キスをした。

 冷たい地中海の波が、ふたりの足元を洗った。


 波が砂に沁み込んでいく音が聞こえる。


 明日の事は明日また考えればいい。

 私は今、確かに「重愛」を抱き締めていた。


 

                『ガールフレンド』完 




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【完結】ガールフレンド(作品231127) 菊池昭仁 @landfall0810

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