大河の流るる密林にて

守宮 靄

虎と水の乙女と

地を這って網目の空を遠く見ゆ右は左か左は右か




 地図を読み違え、密林に足を踏み入れたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。細々と伸びていた道はいつの間にか消え、あたりは緑に覆われていた。驟雨の通ったあとなのだろうか、あちこちから白い靄が立ちのぼっている。よく湿った赤土の上に無数の落ち葉が積み重なり、雨と土の混ざった濃いにおいが充満していた。枝をくぐり倒木を跨ぎ、こちらにしなやかな指先を伸ばす蔓草を避けて進むが、ひどく背の高い巨大な羊歯しだの葉にときどき頬を叩かれる。高温のために額から噴き出す汗は湿気のために蒸発せず、だらだらと眉間を鼻を顎を滴ってゆく。どこからか甲高い絶叫のような鳴き声が聞こえるが、いくら見渡しても声の主の姿は見えない。歩けども歩けども密林から抜け出すことはできず、緑の濃さは増す一方である。途方に暮れ天を仰ぐと、樹冠が重なり合わないように僅かに隙間を開けながら上空を覆っている。網目状の空はまだ明るいようだが、それもいつまで続くかわからない。ふと足の上を何かが撫でたような気がして目を落とすと、私の指ほどもある太ましい百足が走り去っていくところだった。


 ここから抜け出すことが叶わなかったらあの素早い百足などを捕まえて生きながらえるしかないのか、それより先に私が百足らに食われるか。腕や脚を這う空想上の蟲の感触に思い悩み上腕を擦る私を嘲笑うような声が降ってきたので今度は上を見上げると、尾羽の長い極彩色の鳥が二羽、近くの木の枝にとまっていた。彼らは私をしばらく見つめ、人の声のように聞こえる鳴き声でごにょごにょと語り合ったあと、再び甲高い笑い声を上げて飛び去っていった。私にも極彩色の羽があったなら、今すぐここから抜け出せるのに。

 方位磁針は狂ってしまい、勝手気ままにぐるぐるとその針を回している。道がなければ退路を辿ることもできない。私は前に進むしかなかった。



 緑の闇で覆われていた前方が、やや明るくなった。蒸し暑さのためにみた幻覚かもしれない、それでも構わないという切実な思いで私は仄かな光の方へ進んだ。

 不意に開けた視界、私の前方には川が流れていた。丸く磨かれた大きな石の間を澄んだ水が流れていく。川の上流を見れば、雪をかむった高い山が青白く染まって空に溶けている。樹林に迷い込む前に泊まった街の中心を大河が貫いていたことを思い出した。川沿いに下流へと進んでいけば、運がよければ元の街に戻れるかもしれない。そうでなくても、密林を彷徨い歩くよりはずっとましだろう。ほっと息をついた私の横で、がさり、と大きな音がした。



 密生する濃緑色の草を割って現れたのは、一頭の虎だった。この密林の大地の色にも似る赤みを帯びた黄土色の胴に、黒の縞が巻きついている。私の全身がすっと冷え、粘ついた汗が脇の下を伝った。悲鳴さえ喉の奥で凍りついて出てこない。脚も震えて動かぬものだから羊歯の茂みで身を屈めているほかなかった。

 虎を見るのは初めてだった。昔、絵で見たときは大きな猫のようなものかと考えていたが、そんなものではない。獣の強いにおいが私のもとまで漂ってきていた。頑健な脚で悠々と歩く虎の、短い顔についた金の眼がこちらに向けられた。視線が空中でかち合う。金の目が私の胸に巣食う恐怖をじっと見据えている。永遠にも思える時間が過ぎたあと、虎はふいと目を逸らし、ざぶざぶと音を立てて川に入っていった。危機を脱した私の足腰からは力が抜け、もう立ち上がれそうになかったが、あの獣の気が変わらぬうちに立ち去ったほうがよいのは明らかだった。静かに、可能な限り音を立てぬように立ち上がる私の耳に、水音が届いた。


 音を源は川の下流であった。こんもりと水面に盛り上がった波が伸び縮みしながら水の流れを遡っている。最初は魚の群れが川を遡上しているのだと思った。しかし波が近づくにつれ、そうでないことに気がついた。


 波は娘の姿をしていた。透明な水の乙女が水面を滑りながら跳ねるように泳いでいる。身体の末端は滑らかに川の水と接続し、腕は薄く広がった魚の鰭のようにも見える。水飛沫を上げる娘の胴の中に一匹の川魚が紛れているのが見えたが、魚は鱗を煌めかせるなり水に溶けて消えてしまった。踊っているようにも見える軽やかな動きで川をのぼる水の身体をもつ乙女の進路のさきに、あの金の瞳の獣がいる。



 私は差し迫った危険のことなど忘れ、はらはらしながら彼らを見ていた。虎はその瞳で水の娘を見つめている。娘は虎に近づいていく。その透明な肢体は黒い爪のひと薙ぎで霧消し、ただの水へ還るのか。それともあの小さな川魚のように、虎をも飲み込んで澄んだ胴に溶かしてしまうのか。



 娘の頭が虎の脚に触れた瞬間、虎の全身が膨張した。娘に触れた前脚が螺旋を描くように裂けた。中にあるのは赤い肉でも白い骨でもなく、ただの空洞だ。前脚に起きた変化は頭から尾の先まで進み、裂け目はぐるぐると虎の全身を巻き、その内側の底知れない空洞をあらわにした。裂けた虎の身体はほどけて、一本の紐になる。明るい茶色に黒白まだらの長い紐は、そのまま水の乙女に巻きついた。乙女はまだら模様の紐を纏い、構わず泳いでいく。大きな石でその身を砕き、何事もなかったように再び現れ、そして川の上流へ、遥か遠い山の方へ消えていった。


 虎が一本の紐になり乙女が泳ぎ去り、とうとう水音が聞こえなくなってしまっても私は動けないでいた。

 今のはすべて密林の見せたまぼろしだ。そう断言できなかったのは、飛沫を上げる水音が鼓膜に刻まれ、あの獣くさいにおいが鼻腔に残っているからだった。

 対岸にも広がる緑の闇の奥から甲高い笑い声が響き、あちこちにこだましながら消えていった。




飛沫上げ命纏いて泳ぎゆく水の乙女よ山へ還るか

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大河の流るる密林にて 守宮 靄 @yamomomoyan

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