推しと猫と過去との決別

コンコン

ノックの音がする。

携帯を見ると朝の9時。どうやら寝過ごしたらしい。頭の周りは今日ももふもふ天国。

俺が起きた事に気づいた茶トラの猫がゴロゴロと喉を鳴らす。

こいつは一番最初に保護した猫。

もうお爺ちゃんだ。

一年ほど前から足が悪くなり始め、あまり動くことはなく基本俺の枕の位置にいる。

甘えん坊で一緒にいた時間が長いだけあって人慣れしている。

名前はトラ。今はトラ爺と呼んでいる。

「宗司さん。起きてますか?朝ごはんは本日も要りませんか?」

朝ごはんか。用意するのが面倒で抜くのが習慣になっていたが、用意してくれる人がいるのに断る理由もない。

「頂くよ。少し待っていてくれ。」

俺が声を出すと猫たちも一斉に起き出してにゃあにゃあと大合唱が始まった。

「猫ちゃん…。」

扉の先から声がする。少し考える。

元カノにトラを会わせた時、近づかせないでと言われた苦い記憶が胸をちくりとさす。

トラは初めて拾った猫だった。

俺にとっては大事な家族だ。

元カノを基準にするのはおかしいのは分かっている。だがあの時のトラウマは消えることがないのだ。俺は達也も茜も2階の部屋に入れたことはない。俺はきっと臆病だからだ。

あの2人のことを親友だと思っている。

そんなこと言わないと分かっている。

それでもきっとこのままなら3次元はゴミだと言い続けて自分から変わる事はない。

彼女は社員で同居人。

同じ家にいる以上、避けられなくなる時はきっと来る。だからそう。これはリハビリだ。

「美憂さん。いるか?」

声は震えている。

「はい。」

「猫は好きか?」

「好きです。」

ゴクリと喉から音が鳴った。俺は震える手でドアノブを下ろした。

ゆっくりと扉が開く。美優さんのキョトンとした顔が見えた。それはそうだろう。彼女は事情を知らず、俺の顔はきっと今青ざめている。

足元を猫が通った。目線を下に下ろすと滅多に動かないトラが美優さんの足に頭を擦り付けている。

「あっ」と声が出た。

美憂さんはしゃがんでトラを撫でる。

「可愛い…。」

ゴロゴロという音が聞こえる。

カーテンから差し込む光が美憂さんとトラを照らす。まるで絵画のような美しさだった。

「綺麗だ…。」

思わず声が漏れる。

えっ?と美憂さんが顔を上げた。どうやら聞こえてなかったらしい。良かった。

「トラって言うんだ。もうお爺ちゃん猫。俺はトラ爺って読んでる。」

「トラ…。」

美優さんが一瞬止まる。どうしたのだろうか。名前が安直すぎたから?

「どうした?」

「いえ。可愛いですね。私より先にこの家にいるから私の先輩さんだ。」

美憂さんが微笑みながらトラを撫でていると他の猫も美優さんを囲む。

「わわわ!もふもふ天国だ!あっ待って!一気には撫でれないよ?」

美優さんは一気に猫に囲まれてあたふたしている。トラが俺に近づいてくる。

そうか。お前はここのボスだもんな。

他の猫が遠慮しないように一番に出てくれたのか。賢いやつだ。俺はトラを抱っこする。

ベッドまで連れて行くと定位置で丸くなり、にゃあと短く鳴いた。

振り返るとウチの猫達は美憂さんの事を気に入ったようで甘えている。

どうやら3次元はそこまでクソじゃなかったらしい。俺はその日から2階の扉を解放することを決めた。


朝食はホットサンドだった。

「美味いよ。ありがとう。」

俺は食べながら礼を言う。

「いえ。お口にあってよかったです。」

そう言う美琴さんの膝の上には白い子猫が乗っている。さっきからピッタリと張り付いて動かない。子猫の為、危ないからと美優さんは料理の最中も気にしていた。

「食べ辛くないか?降ろしてもいいんだぞ?」

「嫌です。こんな可愛い子にそんな意地悪は出来ません。それにちょっと嬉しいんです。なんだか家族の一員として認められたみたいで…。」

そう言って微笑む美憂さんを見てドクンと心臓が跳ねた。何だろう。心臓に持病はないんだが…。

「そ、そうか。君がいいならいいんだが。その子は新入りなんだ。名前もまだ付けていない子だ。保護猫だから次回の里親探しに出そうと思っている。」

「そう…なんですね。」

美憂さんが少し悲しそうな顔をした。

ズキリと心が痛んだ。

「あのさ。買うとしたら名前を考えてくれるか?」

気づいたらそんな事を言ってしまう。

美優さんの顔がぱぁっと明るくなる。

「どうしましょう。しろ、しーちゃん、みーちゃん…悩みます。」

美憂さんがぶつぶつと呟く。

その姿がいつも名付けで悩む自分に重なった。

暫くぶつぶつとやっていた美憂さんが顔を上げる。

「ましろ…ましろにしてもいいですか?」

「あぁ。いいと思う。」

美優さんが満面の笑みでましろに顔を近づける。

「あなたは今日からましろです!どうですか!?」

ましろは美優さんの頬をペロリと舐めてみーと鳴く。美優さんはましろを優しく撫で続けた。


「中学校の頃、捨て猫を見つけたんです。」

午後ののんびりとした時間。

ソファに座ってましろを撫でる美優さんが口を開く。俺は黙って話を聞く。

「まだ子猫でした。猫が大好きだった私は家に連れ帰りました。でも両親は許してはくれなかった。野良猫は病気を持っているから危ないと。この歳になればわかります。それは子供を心配するが故の言葉だったと。でも私はショックでした。この小さな命を守れる可能性があるのにどうして守ってはいけないのかと。」

彼女の言葉を聞いて過去を思い出す。

高校の時にトラを拾った日のことだ。

毛並みはボロボロだったが気高い佇まい。

何故かすごく人慣れしていて、足が特にボロボロだったところを見ると長い旅をしてきたのが分かった。

その日、連れ帰った俺は親におんなじ事を言われた。その時の俺には金があり、この子を救うためならいくらでも金を使うと言い放った。

親は苦笑いをしたが、これも成長かと飼うことを許してくれたんだった。

「一年間です。私は神社の裏で育てました。そして突然いなくなってしまいました。あの子が今どこにいるかはわかりません。ただもし死んでたらと考えると…。だから私には猫を飼う資格はないんです。」

そうか。この子は優しい子なんだ。

その時の過去を引きずっている。

「それは違う!」

思わず大きな声が出てしまった。

「宗司さん…?」

潤んだ瞳がこちらを見る。

ずきりと心が痛んだ。

「す、すまん。ウチの猫はみんな捨て猫だ。俺に懐くのも時間がかかった子がいる。でも今朝みんな君に寄って行った。それは君が優しい子だからだ。猫はきっと君の優しい雰囲気に引かれたんだと思う。だから資格がないなんて言わないでくれ。きっとこれから先も俺は猫を拾い続ける。その度に出会いと別れが有るだろう。それでも俺は君に手伝って欲しい。我儘を言っているのはわかっている。ダメか…?」

美憂さんは涙を流しながら優しくはいと言ってくれた。

その涙は美しく、俺は生涯雇用を本気で考えるのだった。

俺の頭にあった元カノとの苦い記憶とトラウマは既に消えていた。

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