了
「どんな書物や資料にも、――仮にそれがどれだけ客観性に優れた情報を取り扱っていたとして――書き手にも読み手にも、必ずそこには主観が存在する。主体と客体はどうやっても分離できないんだ。完全な第三者など存在しない。必ず先入観による認知の曲解が引き起こされる。だから僕たちはそれらを念頭に置いて物事をよく観察しなければならない。先入観の渦に飲み込まれないよう天に祈りながら、ね」
「どうだい、僕の話は役に立ったかな?」という春明に私は首肯した。
「近々、お前の話を元に論文を書こうと思ってるよ」
私がそう言うと、春明はしかしやれやれと首を振った。
「論文? おいおい、古典は君の領分じゃないだろ」
「まあね。でも、折角の機会だしね」
「やめとけよ。君はその古文書を自力で翻訳することすらできないんだろう? その程度の学生が聞きかじっただけの稚拙な論文なんて書いても、鼻で笑われて終わるだけさ。それよりも、翻訳を依頼した教授に、僕の解釈を適当に添えて、そっくりそのまま投げ渡してしまった方がいいぜ。その方が余計な禍根を残さずに教授に恩を売れるしな。君はあの大学にまだまだ在籍するつもりなんだろ? だったらいらない恨みは買わないほうがいい」
「しかしなぁ」
「君、騙されてるんじゃないのか? 本来の君はそんな目立ちたがり屋ではなかったはず。それに上昇志向の欠片もない。専門外の分野にわざわざ足を突っ込んでまで君が手に入れようとしているものは、本当に君が心の底から欲しているものなのかな。
僕はそうは思わない。見た所君は事なかれ主義だし、プライドもない。歴史に名を残そう打とか、世間から脚光を浴びようだなんて、そんなのは本心じゃないはずだ。本当は平々凡々な暮らしを望んでいるんだろ?」
言われて、思った。
確かにそうかもしれない。
元来の私は、名誉や名声など欲しがらなかった。小学校でも中学校でも高校でも、ひたすらに目立たないことに注力していたように思える。まして、学級委員長や生徒会などに自ら立候補しようなどとは微塵も思わなかった。
要するに、私は名声を得たり、人から注目されたり尊敬されたりするような人間ではなく、またそれを渇望するような人間でもないのだ。
「君の元々の目的は、中古に既に密室を題材にしたミステリ作品が日本に存在したのだ、ということを証明したかった、というだけの話だろ。手っ取り早くそれができる人間は、君じゃなくて教授の方じゃないのかな。まあ、教授がミステリに詳しいかどうかは知らないが、そのあたりは一度君の方から話してやればしかるべき対応を取ってくれるだろ」
私はわずかに逡巡した後、やがて春明の言葉に静かに頷いた。
正気になって顧みてみると、論文を発表だとか、第一発見者だとか、如何にも私らしくないことにこだわっていた。
何が私を惑わせたのだろうか。
件の陰陽師が貴族や従者たちに仕掛けた呪術と、同じ類のものだろうか。
そう言えば、いつか私が教授の「古文書を譲ってほしい」という願いを固辞した時、教授の目はまるでハイエナのようであった。
ハイエナか。
サバンナで、人は生きてゆけない。
私は、すぐに教授にメールを送ることにした。
『件の古文書、お譲りします』
と。
式神殺人事件 洞廻里 眞眩 @Dogramagra
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