九
「君は古典を嗜んだことはあるかい?」
「まあそりゃ、一応文系だからな」
「じゃあ、大鏡という歴史書において、「安倍晴明」という陰陽師が登場する話がある、ってのは知ってるか?」
「確か……花山天皇が出家する時の話だよな。高校の授業で習ったぜ」
「授業で習った? それは重畳。じゃあ、作中で安倍晴明が式神を使役したシーンがあるのも知ってるよね」
「そうだったっけ? ええっと……」
「まあ君の記憶力には期待してなかったよ。スマホで原文を調べたまへ」
言われて、渋々「花山天皇の出家」についてインターネットで検索をかけて、その原文を液晶一杯に表示した。
「花山天皇の出家」の全文は以下のとおりである。
―――――――
次の帝 、花山院天皇と申しき。
永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。
御年十七。
寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。
御年十九。
世を保たせ給ふこと二年。
そののち二十二年おはしましき。
あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、
「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」
と仰せられけるを、
「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣渡り給ひぬるには。」
と、粟田殿の騒がし申し給ひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づから取りて、春宮の御方に渡し奉り給ひてければ、帰り入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。
さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、
「わが出家は成就するなりけり。」
と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿女御の御文の、日ごろ破り残して、御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、
「しばし。」
とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、
「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」
と、そら泣きし給ひけるは。
さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、
「帝おりさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束疾うせよ。」
と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。
※
「かつがつ、式神一人内裏に参れ。」
と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後ろをや見参らせけむ、
「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」
と答へけりとかや。
※
その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、
「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」
と申し給ひければ、
「我をば謀るなりけり。」
とてこそ泣かせ給ひけれ。
あはれに悲しきことなりな。
日ごろ、よく、
「御弟子にて候はむ。」
と契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。
東三条殿は、
「もしさることやし給ふ。」
と危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。
寺などにては、
「もし、おして人などやなし奉る。」
とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
大鏡 「花山天皇の出家」 より
―――――
「長いな……」
私がそう言って顔を顰めると、春明はさも面白いといった風に鼻を鳴らして応えた。
「まあ重要なのはストーリーそのものではないから。馬鹿な天皇が身内に唆されて出家させられたという下らない話だ。重要なのは、安倍晴明が式神を使ったところ」
そう言って、春明は件の文章をクローズアップする。
※
「かつがつ、式神一人内裏に参れ。」
と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後ろをや見参らせけむ、
「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」
と答へけりとかや。
※
花山天皇が闇夜に乗じて人知れず出家しようとした。
その花山天皇が乗る車が安倍晴明の住んでいた家の前を丁度通りかかった時だ。御世の天皇が出家するという天変を第六感だかなんだかで察知した安倍晴明が、「もう間に合わないかもしれないが、花山天皇を引き留めよう」として車を用意させた。それから、式神を一人宮中に参上するよう命じた。
すると――いいか、ここが一番重要だぞ?――目に見えない者、つまりは透明な何かが戸を押し開けて、丁度花山天皇の車が家の前を通り過ぎたのを見たんだ、それで「たった今、ここ(家の前)をお通りになっているようです」と答えたんだ。
「重要なのは安倍晴明が透明な何かを式神として使役していた、と言うところだ」
もちろんこれだけなら安倍晴明が超常の存在を使役することができたってだけのファンタスティックなおとぎ話だというだけの話だが、問題はこのエピソードが歴史書である大鏡に収録されていた、ということだった。
「曲がりなりにも四鏡の一つである大鏡は歴史書だ。当然、内容も他の書物に比べて信憑性が高い。そんな書物の中ですら、安倍晴明は目に見えない者を使役するファンタジーな陰陽師として描写されている」
「じゃあ、本当に安倍晴明は超能力者だったってのか? 夢枕獏で描かれてる陰陽師みたいな……」
「んなわけあるかい。
大鏡を編纂した当時の貴族らが、安倍晴明の使役する式神を「目に見えない者」と表現せざるを得なかった、のっぴきならない事由があったからさ」
どういうことだ。
つまり、わざわざ事実を捻じ曲げてまで、歴史書にファンタジーな存在を登場させなければならなかった、どうにもならない深いワケがあるとでも言いたいのか。
どうにも、私には想像もつかない。
「いいか? 書物を編纂できるのは、読み書きの出来た貴族だけだ。そんで、当時の貴族ってのはプライドの塊だったんだ。そんな奴らからしてみれば、安倍晴明が使役する式神……まあ従者のことだな。彼らは目も当てられない程身分の卑しい連中だったんだよ。そんな彼らのことを、仮にも貴族らと同じ「人間」として扱うことは書物の中でも許されないことだったんだ。だから、身分の卑しい式神たちをどうしても登場させないといけなかったときは、彼らのこを便宜上目に見えない者として、人間とは別の存在として扱ったわけだ」
「いくら身分が低いからと言って、そこにいる人間を「見えない者として扱う」なんて……ひどい話だな」
「そうか? 古今東西で似たような話はたくさんあるだろ。
黒人を人権の適応されない奴隷として扱ってみたり、
太ってる連中を「豚」と呼んてみたり、
「男」なのに「女」だとか言ってみたり……な。
事実を虚構で曲解させるのは、ホモサピエンスの十八番だろ?」
LGBTQの話題にはあまり触れたくはないのだが……確かに、よく考えてみたら後世の人々は性転換云々の話を、どのように捉えるのか興味深くはある。
何せ男がある日を境に女に変化したりする世の中なのだ。
当時の状況を何も知らない未来の人間からすれば、奇妙な文化だと思うかもしれない。
あるいは性転換を行った人間を、そう言う性質の妖怪か何かの類だと想像するかもしれない。
そう思うと、「身分の低い人間を、人ならざるものとして扱う」という平安貴族たちの文化も、現代人をひたすらに賑わせているLGBTQ問題と似たようなものなのだろうか。
「まあ、そんなこんなで、当時の平安貴族たちは身分の卑しい連中を人間として扱わなかった。安倍晴明の式神……「身分の卑しい人間」が活躍するエピソードは他にもある。
「宇治拾遺物語」に収録されている「晴明を試みる僧のこと 付 晴明蛙を殺す事」にも、式神を使役する安倍晴明が見られる」
そう言われて、私はインターネットで件のエピソードについて、スマホに原文を表示した。
―――――
宇治拾位物語 晴明蛙を殺す事
この晴明、ある時、広沢の僧正の御坊に参りて物申し承りける間(あひだ)、若き僧どもの晴明にいふやう、
「式神を使ひ給ふなるは、たちまちに人をば殺し給ふや」
といひければ、
「やすくはえ殺さじ。力を入れて殺してん」
といふ。
「さて、虫なんどをば、少しの事せんに必ず殺しつべし。さて生きるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうの事よしなし」
といふ程に、庭に蛙(かはづ)の出(い)で来(き)て、五つ六つばかり躍(をど)りて池の方ざまへ行きけるを、
「あれ一つ、さらば殺し給へ。試みん」
と僧のいひければ、
「罪を作り給ふ御坊かな。されども試み給へば、殺して見せ奉らん」
とて、
※
草の葉を摘み切りて、物を誦(よ)むやうにして蛙(かへる)の方(かた)へ投げやりければ、その草の葉の、蛙(かへる)の上にかかりければ、蛙(かへる)真平(まひら)にひしげて死にたりけり。
※
これを見て、僧どもの色変りて、恐ろしと思ひけり
―――――
「宇治拾遺物語は大鏡と比べて、かなりファンタジー色の強い、どちらかと言うとおとぎ話の類のエピソードが数多く収録されてる。だから必然、話もかなりぶっ飛んだものが多い。寧ろ安倍晴明みたいな実在する人物を取り扱った話の方が少ないくらいだからな」
「それじゃあ参考にならないじゃないか」
「そうでもない。このエピソードはおそらく実際にあった出来事を元に脚色を交えて描かれたものだろうと推測できるからな。それに、当時の貴族たちの「色眼鏡」がどのように歪んでいたのかがよくわかる話だ」
私は春明の話を踏まえつつ、原文の現代語訳を読み込んだ。
お話自体は、まさにファンタジーだ。
ある僧が、陰陽師である声明をからかって、庭に屯していた複数のカエルを殺すことができるかと晴明に尋ねた。晴明は「なんと罪造りなことか」と言いつつ、草の葉を徐にカエルの方へ投げつける。
※
草の葉を摘み切りて、物を誦(よ)むやうにして蛙(かへる)の方(かた)へ投げやりければ、その草の葉の、蛙(かへる)の上にかかりければ、蛙(かへる)真平(まひら)にひしげて死にたりけり。
※
すると、草の葉がカエルの上にのしかかり、カエルを真っ平に押しつぶし殺してしまった……。
と言うのが話の概要だ。米印の部分で、晴明が何とも不思議な力を働かせているようである。
「夢枕獏の「陰陽師」でも似たような話があったような……」
「というより、これら安倍晴明にまつわる逸話を元に描かれてるのが夢枕獏の「陰陽師」だからね。そんなことより、この話は安倍晴明の不思議パワーについて語ってるわけだが、これは実際に起きたであろう出来事を、多少の脚色を交えて物語に描き換えたに過ぎない……という説がある」
「ふむ」
似たような出来事が実際にあった、と言うことか。
にわかには信じられなかったが、先ほどの土蜘蛛の話や安倍晴明の式神の話などを踏まえるに、おそらく今回の話も何らかの「曲解」が起きているということだろう。
と言うことは……。
「「カエル」と、それから「草」が何らかの比喩……と言うことか」
「そう! 中々話がスムーズになってきたじゃないか。それから?」
「えっ? ああ、そうだな……」
こめかみを人差し指で突きながら、熟考に耽るフリをする。実のところ、これらのポーズをとる前と後とで脳の活動量にさして変化はない。
「草ってのは、何らかの道具、凶器か? それでカエルは……小さい幼子とか?」
「それ、全部君の妄想だよね。根拠があって言ってるのかい?」
「いや全く」
「やれやれ」
まあ、私の推理力などたかが知れている。
さっさと春明に説明してもらおうじゃないか。
「他力本願の極みだね。まあいいけど。じゃ、中古貴族フィルターを通して、まずはカエルから説明しようか。
「カエル」ってのは、元々の読み方は「蛙(かわづ)」、転じて「川衆(かわづ)」だ。川衆は川の衆、つまり、川沿いを住処に屯している民衆、まあ所謂ホームレスだな。東京にも、都市の汚ねぇ川にホームレスがわんさかいるだろ。平安京にも似たようなのがいたんだよ。当時の貴族にとって、川辺に住み着くホームレスなんざ、ガヤガヤと口うるさく騒ぐカエルみたいなもんだったんだろうな。本気で人間じゃないなどと信じ込んでた奴がどれだけいたかは知らないけど」
つまり、結局のところ、やはりカエルは人間なのか。
「それで、「草」は「民草(たみくさ)」のこと、つまりは民衆。おそらく、安倍晴明が使役していた式神なんだろう」
で、結局、草も人間なのか。
「蛙(川衆)が五、六人庭に屯していた。それを見た阿呆な僧が面白がって晴明にそれらを殺すように言った。晴明は渋々、草(民草、従者)を使って蛙(川衆)を殺した。
こういうことだな」
酷い話だ。
要するにただ人が人を使って人を殺させたというだけの話ではないか。
「君がどう思うかなんてどうでもいいけど、とにかくだ。
当時の貴族社会において、「人」というのは一部の貴族、昇殿可能だった「地下よりも位の高い貴族」に限られていたんだ。それ以外の、特に身分の卑しいモノ共はみな一様に「モノ(物)」や虫けら扱いだったんだよ。人間じゃなかったんだ」
者(もの)と物(もの)。
どちらも読み方は同じだか、意味は異なる。
読みが同じなのは、かつて人が物だった時代があった名残なのかもしれない。
「まあ、その「物(モノ)」の中でも、力や知力に優れた者、特別な力を持った者などがいた。で、たまにそんな「物」に日々の生活を脅かされそうになった時だってあっただろうね。そんな厄介な力を持った「物」を貴族たちは「もののけ(物の怪)」と呼んで恐れたってワケだ」
やはり今も昔も人が恐れるのは人だけか。
とんだ独り相撲をみせられたような気分だった。
或いは、春明の巧みな弁術に惑わされているだけなのだろうか。
「とにかく以上の話で重要なのは、当時の貴族たちは身分の卑しい連中を人ではなく物や虫けらとして扱っていた、という点だ。
そのことを念頭に置いて、君が持ってきた古文書の内容を改めて踏まえてみよう。さあ、どうだ」
「……」
私は言われて、いま一度手元の資料に目を落とした。
件の貴族は川辺に屯するカエルを部下に捕ってこさせて、それら専用の納屋に押し込めて日夜虐待を繰り返していた。その所業に怒った一部の公家連中らによって、野良の陰陽師による呪詛が行われることとなった。
陰陽師は呪文を唱えて、カエルを自在に操って見せた。
それから、今夜中に件の貴族を呪殺すると宣言。
貴族は納屋を徹底的な密室に仕立て上げて、納屋に引きこもる。
しかし、その日の夜、貴族は短刀によって刺殺されてしまう。そして、その貴族の死体の傍にはたくさんのカエルが屯していた……。
もし、これらの物語に登場する「カエル」が、春明の言うように「蛙(川衆)」なのだとすれば……
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