蝦蟇みたいに大口を開けてしばらく春明を見つめていた私だったが、徐に硬直していた顎の筋肉がほぐれ始めた。この一瞬で酷く肩が凝ったようだった。


 二、三度口を開閉して稼働に問題がないことを確かめてから、私は春明に問いただした。


「ええっと、つまり、そのカエルが、……なんだってんだ?」


「なんだもクソもない。カエル殺したんだよ」


「カエルの……毒で死んだ、とかいいたいのか? おいおい、死因は明らかに短刀による刺殺だぜ? カエルじゃ喉元に短刀を突き立てるどころか、一ミクロンだって持ち上げられないぞ」


「ま、この古文書の面白いところはそこだよな」


 春明はニヤニヤとした薄ら笑いを浮かべて膝をバシバシと打ち鳴らした。


「作者は犯人を隠してなんていない。「貴族が短刀で殺されていて」「そこにカエルが複数居座っていた」と書いている。これはもう「カエルが犯人だ」と明言しているようなものだ」


「それはおかしいだろ。カエル利用した犯人ならともかく、カエル犯人だなんて」


「まあ、一応陰陽師が間接的に殺人に関わってると言えないこともないから、或る意味ではカエルを利用した殺人だと取れるかもしれないが、ともかくとして件の貴族に直接手を下したのはカエルだよ」


「いや、でも……どうやって」


 カエルが、どうやって短刀を貴族の喉元に突き立てるというのだろう。

 

 だいたい、短刀はどこからやってきたというのだ。


 そもそも、何故カエルが人を殺すのだ。


 答えを提示されても、より不可解な謎が私の頭の中に継ぎ足されたのみであった。


「まあ、いきなりこんなことを言っても君が納得できないことは、容易に想像できていた。

 実を言うとね、僕はこの古文書のカラクリそのものは目を通してすぐにわかっていたんだ。でも、これをどう説明すれば君の頭でも理解できるのかと考えるのにちょっと時間が必要だったのでね」


「そうかい」


 嫌味な奴だ。


「まあ、そう不貞腐れるなよ。今からそれを説明してやるからさ。


 ところで、話は変わるのだけれど、君はって知ってるか?」


土蜘蛛つちぐも? 知ってるさ、でっかい蜘蛛の妖怪だろ」


「違う」


 珍しく即答できる問いかけが彼の口から久々に出てきたものだと、意気揚々と答えた私の鼻頭に春明は思いっきりジャブを打ち込んで私の気力はへこたれてしまった。


「違うのか? 俺はそう習ったけどな……」


「土蜘蛛はれっきとしただ。初出は古事記や日本書記で、天皇に敵対する国家の反逆者や蛮族としてさげすまれていた。土蜘蛛ってのは当時の大和王権に恭順しなかった土豪たちの「蔑称」なのさ。手足が異常に長い、洞穴なんかをねぐらにしている異民族だったって説があるらしい」


「古事記に出てくるのか? 俺はてっきり江戸時代に創作された妖怪の一人だとばかり」


「君が想像しているでっかい蜘蛛の妖怪の姿は近世以降に、「土蜘蛛」と言う言葉から着想を経て当時の人間が創作したもの。

 土蜘蛛で特に有名なエピソードと言えば平家物語に描かれている「源頼光の土蜘蛛退治」だろう。後に能の演目にも取り入れられているし。

 平家物語は鎌倉時代に成立したらしいけど、どうもそのころから「土蜘蛛=巨大な蜘蛛の妖怪」というイメージが定着し始めたようだね」


「じゃあ、土蜘蛛ってのは元々蛮族なんだかのヒトを現していた言葉だったのに、後世の人間の手によって元の姿形が歪められた結果、巨大な蜘蛛の妖怪になってしまった……ってことか?」


「源頼光が倒した土蜘蛛は大きさにしてだいたい1.2mくらいだったらしいぜ。蜘蛛としては化け物と言って憚れもしないだろうが、人間だとすると……それほど大きな奴じゃないよな。どころか小さすぎるくらいだぜ。もしかしたら子供だったのかもな」


「なるほど。うーん、でも、勘違いするかな? 普通。ヒトと蜘蛛をはき違えるだなんて」


「平家物語は口伝によって人口に広く膾炙した物語だ。まあ、「土蜘蛛退治」が語られていたかどうかは実際の所知らんが、教養どころか文字すらまともに読めなかったであろう当時の庶民が「土蜘蛛退治」と聞いてどんな想像をしたか、なんてのは察するに余りある。というか、それなりの教養を身に着けている現代日本人ですら、土蜘蛛と聞いて人間の姿を連想する者は、そうはいないんじゃないかな? 大抵の人間は君と同様に「巨大な蜘蛛」の姿を思い浮かべるだろうな」


「だろうね……」


 ヒトは自分が思っている以上に、言葉の持つ先入観に踊らされてしまう、と言うことなのだろう。


 私が感慨深げにそう言うと、春明は目を数度瞬かせた後、徐に破顔した。


 「言葉の持つ先入観、か。そうだね、君、中々クリティカルなことを言うじゃないか。その通りだ。人は簡単に「言葉の先入観」に踊らされる。「土蜘蛛」という言葉から「蜘蛛の怪物」を容易に連想してしまうようにね」


 例えば。


 織田信長の異名は第六天魔王だが、第六天魔王は俗にいうところの「魔王」とは全くの別物である。と、春明は語った。


「第六天魔王は別名「天魔」、仏教における修行を妨げる悪魔のことだ。欲界における六欲天の最高位である自在天のことであり、人の色欲を刺激して修行を阻む悪魔、「マーラ様」と言った方が分かる人もいるかもしれない。

 ともかく、一般の人が想像するような「荘厳な悪魔の王」とはかけ離れた存在さ。仏道修行を邪魔する仏敵で、どちらかと言うと「色欲の神様」と表現した方が本来のイメージに近いかもしれない。

 ところが、人は「第六天魔王」という言葉の響きだけで、その異名を持つ織田信長に対して「荘厳で高貴なイメージ」を抱いてしまっている。実際は色仕掛けを仕掛けてくる仏教の神様の異名なのにね。

 もっと言うと、そもそも織田信長が「第六天魔王」を名乗ったのは一度だけだし、それも比叡山焼き討ちの件で武田信玄から「お前は仏敵だ」との誹りの書簡を受けとった信長が、それに対する粋な返答として、同様に仏敵とされている第六天魔王を敢えて名乗ったに過ぎないという話、言わば一種の高尚なジョークを用いた将軍同士の売り言葉に買い言葉の諍いであったというだけだったのに、それが現代ではいつしか「異名」と曲解されて、また「第六天魔王」の本来のイメージもなくなり、現代に伝わる、人間離れしたカリスマを持った「織田信長」なる架空のキャラクターが形成された、というワケだ。プロセスは若干複雑になったものの、これも「土蜘蛛」のケースと同じだ」


「へぇ、知らなかったな。じゃあ、実際の織田信長はどんな人物だったんだ?」


「そんなの解るわけないだろ」


 そりゃそうだ。


「まあでも、魔王と呼ばれるには些か力不足だったんじゃないかと思うよ。そんなことよりも、だ」


 どうやらこれからが本題だったらしい。春明は前かがみになって手を組んだ。私もそれに倣って心なしか顔を春明の方に近づけた。


「これでわかっただろ?」


「ん、何が?」


「決まってるだろ、カエルが貴族を殺すことができたカラクリだよ」


「……」


 つまり……どういうことだ。


 などという言葉を反射的に口に出しかけて、グッとこらえた。さすがの私でも、春明の言わんとすることを察することができた。


「つまり……お前はあの「カエル」が実は人間だった、と言いたいわけか」


「その通り」


 私は思った。


 確かに、仮に「カエル」なるものが――「土蜘蛛」が「蜘蛛の妖怪」ではなく「人間」であったように――実は人間を表す言葉だったとして、そうであれば一連の不可解な密室殺人はいたって平凡な殺人事件に早変わりだ。なにせ明らかに密室だと確信できる状況下で、その密室内部で被害者が刺殺されていて、その近くに人間が居座っていたというのなら、どんな愚図にだってそいつが犯人だということは一目瞭然だろう。


 が、しかしだ。


「いや……お前の言わんとすることはわかるよ。大胆な仮説だと思う。……でも、その仮説には証拠も根拠もないだろ」


 私がそう言うと、春明は意外にも素直に頷いた。てっきり「それは違うよ」と即座に食って掛かられるものだとばかり思っていた。


「そうだね。僕の見解に確かな証拠はない。そもそも古文書の原文に「〇〇が殺人犯だ」と明言されていない以上、「確かな証拠」などどこにもないわけだからね」


 なるほど、作中で断定されていない以上、無限にある可能性の、その全てを否定することなどできるはずもない。それはまさに悪魔の証明というものだ。


「証拠はない。だけど、根拠ならある」




 

 















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