三
「なるほど」
一通り小説を読み終えた春明は、それからプラスチックの椅子にどっかりと座り込むと、椅子を力いっぱいきしませながら熟考に耽り始めたのだった。
こうなった春明は、もうてこでも動かない。つまり、良い兆候だった。
彼が黙りこくっている間に、小説の内容について少し語っておこう。
小説は主に三つの章に分かれている。
それぞれの章を「序」「破」「急」とすると、
「序」ではまず事の成り行き、殺人事件が起こるまでの経緯を語っている。
「破」では実際に起きた事件を、その当事者として子細に語られている。
そして、「急」では著者の事件に対する考察が行わている。
つまりはごく一般的な推理小説と、話の流れ自体はそれほど乖離していない。
問題は、この小説が実際に起こった事件をなるべく詳細に描いている、言わばノンフィクションのドキュメンタリー小説であることと、事件の解決、ミステリの謎解き編が存在しない、ということだ。
実際に起きた事件をそのまま取り扱ったり、それらを元に描かれる推理小説なら、いくつも存在する。しかし解法の明記されていない推理小説など、果たしてあっただろうか? 夢野久作の「ドグラ・マグラ」や、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」などがそれに近いかもしれない。しかし、件の小説は前述の所謂「無茶苦茶な理論や文体で結論が曖昧模糊としている」わけではなく、理路整然と事件の成り行きを語ったうえで解法が存在しないのだ。
解決パートが存在しない。
推理小説としては致命的な欠陥ともいえる件の小説だが、果たしてこれは「ミステリ小説」に分類することが可能なのか。
「十分に分類可能だと思うけどね」
いつの間にやら熟考を終えたらしい、春明が私にそう声をかけてきた。
「そもそも、小説のカテゴリに明確な線引きは存在しないんだよ。ミステリなのか、はたまたそうではないのか、その境界はグラデーションになっているのさ。そのどこに線を引くか、結局は個人の感覚に委ねられている」
「へぇ、それで、これは結局ミステリなのか?」
「だから、それはお前が決めればいいんだよ。ミステリだと思うならミステリだし、そうじゃないならそうじゃないんだ」
「君はどう思う」
「ミステリだと思う。というか、そう思った方が面白いじゃないか。謎解きのないミステリは言わば答えのないクイズみたいなもので、確かにミステリとしては不完全だと言わざるを得ない。しかし、解決そのものを読者自身に委ねることで、本来一つの解法しか存在し得ないミステリの真実に、無限の解法を見出すことが可能になるわけだからね。言ってしまえば、読者が自ずから推理をして初めて完成する類のミステリになるんじゃないかと僕は思っている。腕が不在しているミロのヴィーナスみたいなものだね。欠けている方がかえって面白いんだ。もっとも、ミロのヴィーナスは仮に腕が欠けてなくとも素晴らしい彫刻なんだけどね」
「なるほど?」
と一応返事はしてやった。
長ったらしい講釈は彼の得意とするところだったが、あいにく私には一切の感心もなかった。
私はただ答えが知りたかった。
「じゃあ、春明は件の小説に対して、お前なりの解釈をすでに持っているってことなのかな」
「ああ、もちろん」
春明はニコニコと笑って手に持った紙束をバシバシと叩いた。
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