二
「ふぅん? それで、これが件の小説の現代語訳か」
春明はつまらなさそうな顔で、私が持ってきた紙束をべらべらとめくり始める。如何にも不機嫌だと言った表情だった。この男は自分の話は日本一面白くて価値のあるものだと思っていて、逆に私の話はその九割九分が聞くに堪えない与太話だと思い込んでいるようであった。
春明は私が大学生一年目の頃に、たまたま講義室で隣り合わせになった男であった。大学入学と同時に教授から無理やり購入させられた六法全書を片手に、講義開始ギリギリに駆け込んで開いている席に着席した私とは対照的に、春明は講義が始まって数分後にプラプラと気楽に講義室に入ってきた。手には何一つ持っていなかった。
彼は私の隣に座って、徐に私に「ちょっと、君」と話しかけてきたのだ。それから私になけなしの断わりを入れた後、私の六法全書を勝手に読み始めたのだった。後から知ったことだが、彼はそもそも文系学部に所属していた私とは違い、理系の学部学科に所属していたのだ。彼曰く「興味があったから」らしく、またひがな一日中校舎をうろついては、目に付いた講義室に勝手に入って、勝手に講義を受け続けていたらしい。本来受けなければならない必須単位の講義は全くと言っていいほどとっておらず、何なら彼はその当時休学中であった。
結局彼はそのあと、私の六法全書を借りたままどこかへ姿を消した。私は彼を探して一週間は校舎を練り歩く羽目となり、ようやく彼を見つけた時には、私の六法全書はボロボロに使い古されており、しかもコーヒーのシミがでかでかと広がってからからに乾ききっていたのだった。六法全書に世界地図の完成である。
要するに彼は色々と人格と社交性に問題を抱えており、私はたまたま彼の奔放の餌食となってしまったのだ。むちゃくちゃなのだ。
とはいえ、彼との出会いは退屈極まりない大学生活を、少しは刺激のあるものに変化せたのも又事実であった。彼はいつも小難しそうな本を小脇に抱えており、言動の端々に感じられる含蓄もそれなりのものだ(彼曰く六法全書も読破したらしいが、試しにいくつかの項目を暗唱させてみたところ、全く受けごたえができていなかったので記憶力に問題があるのか、はたまた読破したというのは噓のなのか判別がつかなった)。
それに、彼にはある特技があり、それが前述したとおり、推理小説の犯人を、解決編を読む前に当ててしまうというものだ。
去年に私たちが、「折り紙手裏剣殺人事件」に事件の関係者として偶然巻き込まれてしまった折に、彼のその非凡な特技がいかんなく発揮され、「事件が発生してからものの数十秒で犯人を言い当てる」という離れ業を魅せられて以降、何かと知恵が必要になった際に彼の神がかりの能力と知恵を期待する機会が増えたのだった。
今回のまた、彼の非凡な才能を借りようと彼の借りているボロアパートに足を運んだ次第であるが、彼は私が渡した資料に目を通そうともしなかった。始めからつまらないものと決めつけているようだ。
私が何とか持ち前のなけなしのおべっかを使って彼の機嫌を取ってやると、彼は渋々資料にちらと目をやった。
「何々、タイトルは――」
陰陽師 呪術を用いて人を殺す事 二
「没シュート!」
矢庭に、春明は手に持った紙束を、丸めたティッシュの詰まった小さなゴミ箱に叩きつけた。
「あっ! こら、何をするんだ!」
「それはこっちのセリフだ。朝からドタバタと押しかけてきたと思ったらこんな下らない可燃ゴミ持ち込んできやがって」
「可燃ごみ……」
「おいおい勘弁してくれよ。ただでさえ寝不足だっていうのに」
私は春明の顔のちらと見やった。確かに、彼の目元には濃い隈が浮かんでいるのが見て取れた。
しかし、私はそれをさほど重視したりはしなかった。彼の生活習慣は狂いに狂っており、昼夜逆転など頻繁、何時寝て何時起きているのか全く見当もつかないということを知っていたからだ。
「もうここ一か月まともに寝ていないんだ」
「調べ物でもしてたのか」
「いや、先月にワールドカップだか言う下らん催し物があっただろ。それの応援だかなんだか知らんが、僕の隣に住んでるカスが深夜の四時に乱痴気騒ぎを起しやがってね」
「それで、眠れなかったのか? 一か月も? ワールドカップはとっくに終演しただろ」
「そうじゃない。あんな時間に騒ぎやがった阿呆に対する報復をしてやろうと思ってね。大きなスピーカーを購入してこの一か月間、深夜にクラシック音楽を流しまくってやった。丁度彼らが発してた奇声と同じくらいの音量でね。長い戦いだったが、ついに両隣の奴らを引っ越しにまで追い込むことに成功したよ」
そう言って春明は自慢げに鼻を膨らませた。私はやれやれと首を横に振ることしかできなかった。
「人の恨みつらみの恐ろしさを奴らの想像力の足りない頭に、徹底的にたたき込んでやろうと思ったんだ」
誰よりもまずお前自身が知るべきだろう、という言葉が喉の奥まで出かかっていたが話がややこしくなると分かっていたので口を必死に噤んだ。代わりに別のことを口にした。本音ではなく建て前、というワケである。
「なら丁度いいんじゃないか」
「ん、何が?」
「件の小説も、その恨みつらみとやらを語ったものだからな」
「でも、陰陽師だの呪術だのも出てくるんだろ? だったら片手落ちじゃないか」
「それがそうでもないんだよ……。まあ、口で説明するよりも、まずは読んでみてくれ」
「うーん……」
春明はしばし胡乱な目を手元の紙束に向けていたが、徐にページを繰り始めた。
つまらなさそうに文字を追っていた彼の顔色が引き締まり始めたのは、目を通してからかれこれ数分が経過した頃だった。
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