其の十九:その手の掴むもの

 誰かがずっと名前を呼んでいる気がする。


 音々子は歩きながらそう感じていた。校舎内を歩き始めてしばらくからだった。


 でもそれがあの首無しジャックなのか、はたまた別の誰かなのか、呼ばれているのは音々子なのか、やはりそれも別の誰かなのか、歩いているうちにどうでもよくなっていた。


 ナターシャに借りたドレスは、ロシアのおばあさんの遺品らしいが、純日本的な身長・骨格の音々子ねねねにはサイズが随分大きかった。学芸会以下の出来だ。


(なにより胸の辺りがぶかぶかだわ。コルセットをしたらさらに余る。歩きづらい……)


 階段は大変だが、少し裾をつまんでお姫様のように淑やかに歩けば、苦労しながらでもなんとかなった。背筋を伸ばしてスカートの重みを感じる。そのうちに歩き方もさまになってきたように音々子でも感じられた。


 それにしても、春の日本海側はこんなにも寒かっただろうか。


(それにしてもアイツ……ちゃんと作戦通りについてきてんのかしら。なにやら寒気がする……一人で歩かせてるだけなら、ただじゃあ置かないんだから)


 独りが怖いわけではないが、なにかの気配をそこかしこから感じる。なにかは分からない。階段を上っても、どこへ行っても、何者かの気配がついてくる。


(これは央一……?)


 試しにもう一つ階段を上る。


(やっぱりついてくるわ。央一なのかしら)


 自分の感覚が鋭敏になりすぎていたのかもしれない。音々子は気にしないように歩き続ける。


 だがそこで、音々子は奇妙なことに気がついた。


(私は階段を一段、一段、踏みしめ上っている……それは当たり前だわ。上ろうと思ってるもの。確かに私は私の意志で階段を上ってる……なのに、足が勝手に歩いている! ほら! 指先は蠟で固められたようにぴくりともしない!)


 すうっと血の気が引いていく。けれども、汗すらかけない。首を動かすことも、目線をずらすことも――まるで、自分の身体ではないかのように、動かすことができない。


『……――…………――――――――……』


(人の声がしたわ、どこかしら)


 音々子の足はどこかに向かって歩き続ける。

 次第に身体中の感覚が何者かに支配されていくような心地がしはじめた。だが心臓を鷲掴みされるような冷たい感触ではなく、ふわふわとした、眠りにつく手前のような心地だった。


『鶴子サン』


 音々子は自分・・が呼ばれたのが分かっていたのだが、違う名前を呼ばれていることに違和感はなかった。


『鶴子サン』


 呼ばれている。


 しかし振り返ることができない。


 もはや音々子にはこれが夢なのかうつつなのか、本当に自分の記憶なのかも判断がつかなくなっていた。


『鶴子サン……』


 幾度となく呼ばれている。

 声の主は段々と近づいている。今まで散漫していた気配が大きくなる。


『鶴子サン、ここにいたんだね』






(ジャック、ねこちゃんを狙っている!)


 ちょっとした血の噴水になっている首無し徘徊地縛霊・ジャックの背中を見ながら央一は焦っていた。

 どういうことか、体が動かせない。


(慌てるな俺様! 作戦通りに、やるんだ……やるしかねえんだからな!)


 そう、ジャックをおびきだしたまでは作戦通りだ。

 

 もう一度央一はポケットの中を手触りで確認する。

 そこにはこれまたナターシャからの借り物、青いフェイクが嵌め込まれた大ぶりの首飾りが央一の指先につるりとした感触で応えた。


(大丈夫だ、集中しろ……!)


 ジャックはずるうりずるうりと、音々子の背中に迫って行く。

 央一も金縛りでしびれるような脚に、動け動けと念じながら前へ突き出す。脂汗を垂らしながら、それでもなんとか移動できたのは数センチだけだ。どうしても足の裏が床から離れてくれない。

 それでもいい。うっかり央一の存在が見つかってしまえば逃げられる。

 息を殺して、歩いた後に血の花を咲かせる亡霊をつけた。


 夕刻のはずの廊下は薄暗くのび、まるで黄泉の国へ続いてるかのようだった。ひやんやりとした空気をしているくせに、妙にじっとりと湿り気を帯びていて気持ちが悪い。央一が気づいた頃には正体不明の白い靄に囲まれていた。


(なななんじゃこりゃ……? もしかしてこれ以上はヤバかったり、して……)


 その時、音々子が立ち止まった。

 ここが、終点。


(ここで……奴さんを――ジャックを終わらせる!)


 すっとのびた音々子の背筋。長い黒髪。


『ヒュー……ゥ……ゴポッ、ヒュー……』


 近寄る血まみれの首の無い男。

 腕をのばした。


(ここだ!)


 央一はほぼ力の入らない足の裏にぐっと運動感覚だけで踏み込み、いっきにジャックの背中まで距離を詰めた。前のめりにつんのめりながら、コケなかったのは奇跡といっていい。


『鶴……子…………サン』


「!」


 央一の耳にも聞こえた。


(奴さん……、本当に鶴子さんのコト……)


 ああ、今自分が何をしようとしているか。


 ジャックのっ頃が流れ込んでくる。一体化するような心地だ。


(ずっと呼んでいたのか、探していたのか……。俺はジャックのを介して、ジャックは俺の手を介して、鶴子さんに悲願のネックレスをかけるんだ)


 ちゃら、と金具の音をさせ、ポケットからそおっと首飾りを取り出した。

図書館の資料で見たような豪勢なものではないが、その青いフェイクから央一が覗き返していた。


『鶴子……さん……』


(フェイクでもいいのさ、ここはボーナスステージみてえなもん……本物はもう生前に伝わってるはずだからな)


 伸びた腕は優しい手つきで音々子の髪に隠れたうなじを目指す。

 央一はジャックの背後から、先回りして音々子の黒く長い髪をひとまとめにして胸の方へ流してやった。

 央一は生温いしぶきを顔面に受けた。血潮だ。ジャックの首から飛び散ったもの。しかしそれらをものともせずに、央一は首の無い男の手元をその肩越しに注視した。


 音々子の日に当たっていない白いうなじがすらっとのびている。そこへジャックはおぼつかない動作で両手を添えた。

 青白くもある手が温かいのか冷たいのか、央一には分からなかったが、振れた瞬間に音々子の背筋がびくりとはねたのが見えた。


(慎重に……)


 音々子の首にかけられたジャックの両手は、ゆっくりと、次第に力が入っているようだ。このまま放っておくと今までの学園の被害者と同じ道をたどることになる。

 央一は極めて繊細な動きで、だが確実に、ジャックの背後から腕を回すようにして首飾りをその青白い手に触れさせた。


(何か、反応があるといいんだが)


 ひくりと、ジャックの手が硬直した。

 そして、ぶるんっと痙攣したかと思うと、


(あ、)


 ジャックは首飾りを手に取ったのだった。


『鶴子サン、貴女にぜひこれをつけてもらいたいんだ』

『……これを私に?』

『つけてみてくれるかい』

『勿体無いわ』

『貴女につけてほしいんだ』

『これは……』

『いけないかい……?』


 央一には聞こえた。

 首飾りを手にしたジャックは人間的な動作で金具を外し、無いこうべを項垂れるようにして、自信なさげにこう話すのだった。


『私、あなたと』

『僕と』

『……ずっと、ずっと! 待っていたの!』

『鶴子さん……!』

『ずっとずっと、この海の向こうへ! 私をここからこの首飾りの青く輝く宝石のような山々の国へ!』

『来てくれるかい?』

『ああ! 勿論です、勿論です!』


 ジャックはそこでようやく首飾りを鶴子の首へかけた。


 しかし頭が無い故に視界が無い。

 央一はおっとっと、と思い出したようにジャックの手にフォローを添えた。


 なんとかたどたどしいながらも、ジャック(と央一)の手で鶴子に首飾りをつけさせることが出来た。


『嬉しい』

『受け取ってくれて、ありがとう』


 央一はヨカッタヨカッタ、と頷き、やっと一息つく。


『行きましょう。ずっと待っていたのよ、この時を』

『ああ、行こう。君とならどこへでも行ける』


 そこで首飾りを下げた音々子が振り返った。


(……エッ!?!?)


 それは音々子……ではあるのだが、顔つきがまるで違っていた。

 別人だった。


(まさか、ご本人登場デスカ!?)


 快活そうなほほを満面の笑みで火照らせ、ジャックの胸に飛び込んだ。

 それは間違いなく、音々子の仕種ではない。鶴子のものであった。


『いきましょう』


 それから熱く包容を交わした両者は数秒の後、膝から崩れ落ちた。

 糸が切れた操り人形のように力が抜けて行った。


「……ッ、ねこちゃん!」


 央一は咄嗟に駆け出し、音々子を倒れ込む前に受け止めた。


 いままで足元を覆っていた白いもやは、今、ジャックの方へ集束しつつあった。


「今度は、ナンダーッ!?」


 膝をついたまま、ジャックは天をあおぐようにして動かない。まるでそういう彫像がそこにあるかのように、生物然というものが感じられなくなった。元から死んではいるのだが。


 集まって来たもやは首の無い男を囲み、覆い、編み込むようにして柱を作った。


 白い頼りない景色の中に、闇をまとっていた存在がとかされていく。ほどかれていく。


 やがてもやだったものは窓辺で日に当てられて舞うホコリほどの大きさになり光の粒子となった。ジャックの衣服に吸い付き、ほたるのごとく、ぴかりぴかりと瞬いている。


(アー、これが、死の世界)


 央一は唐突に思った。


 これまでは死ぬとは、罰や、拷問や、粛清、贖罪。そんなイメージをまとっていたのだが、これは何かチガウ。


(死ぬって、なにもなくなるんだ)


 頭の無い首の断面が、涙の一滴ほどの血を、さいごに滴らせた。


 ぽたり。


 そして、その鮮烈な赤さえも飲みこむように、光は大きく広がり、央一の目の前は抱いている音々子さえ見失うほどの目映さに包まれた。


(息すらもいらない。ぼうっとするなあ……)


 静かに目を閉じ――次にまぶたを開けた時には、完全下校時刻のチャイムが鳴っていた。

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