第2話

 美佐子はリビングの光に目を細めた。息子を寝かせるために薄暗い部屋で絵本をずっと読んでおり、目が光量の変化についていけなかった。リビングテーブルに置きっぱなしだったスマートフォンには母から三回着信とメールが一件届いていた。

『おじいちゃんが亡くなった。至急折り返しちょうだい』

 母の文面からは急いでいること以外の感情を読み取ることはできなかった。美佐子は涙が出てくる気配はなく、我慢して鼻から出てくることもなかった。どうしても安堵という感情から逃れることができなかった。

 決して祖父のことを嫌っていたわけではない。ただ、四年前から家族の介護が必要な状況だった。施設に入るようなレベルではなく、老人ホームに行くのも本人が嫌がったため、家族が介護せざるを得なかった。それ以外にあまりわがままを言う祖父ではなかったが、重い体を持ち上げたり、おもらししておむつを替えたりしていくうちに家族みんな言葉にはしないものの「早く楽になってほしい。楽になりたい」という気持ちが芽生えていたのだ。そんなときに心臓発作で亡くなったことを知った母や美佐子は「やっと……」という罪悪感と安堵の混じった感情が渦巻いた。

 祖父の葬式には義祖母も来た。冠婚葬祭ホールの入り口に立っている美佐子に義祖母は深々と一礼した。

「美佐子ちゃん大丈夫? まだまだ息子も小さいんやから強くいなあかんで」

 慰めのつもりで言ってくれているのだろうが、心の奥がざわざわと波が立つようだった。美佐子は義祖母の顔を見ないように深々と一礼したまま、小さく頷いた。

 式が始まる前に幾人か祖父の棺を囲っていた。それぞれ祖父とどう親戚なのかを母から説明があったが、途中から親戚の間を押し入り祖父の頭の付近でスマートフォンを構えだした義祖母にしか集中できなかった。

 まさかとは思った途端、シャッター音が何回か聞こえてきた。

「ええ顔してはるわ」

 スマートフォンの画面をまじまじと見つめながら、大きめの独り言をこぼした義祖母はそのままもう一度スマートフォンを構えた。

「ちょっとちょっと」

 美佐子は父と話していた夫の袖を引っ張り、義祖母の姿を見せた。

「さすがに亡くなったおじいちゃんの写真を撮るのは止めさせてほしいんだけど」

 美佐子が言うと夫は眉間に深々と皺をつくった。

「いや、一応注意してみるけど止めないと思うよ」

「なんで」

「ばあちゃん、なんでもかんでも思い出に残したいんだよ。自分が注意されてると思うと感情的になって会話できなくなるし……」

 夫の眉間に生まれた皺を拡大すると「お前が言えよ」とでも彫られていそうで、美佐子も厳しい表情を作って夫を睨みつけた。夫はすぐに目をそらして義祖母の方へ向かっていった。

 夫は義祖母をホールの隅の方に連れていき、しばらく話していたがだんだん祖母の手振りが激しくなり、地団駄を踏んだ。九十歳の老婆が感情むき出しで地団駄を踏むのはあまりにも滑稽で、それこそSNSに投稿する価値のあるものだと美佐子はスマートフォンを構えかけたが、義祖母と同じ愚行をするだけだと思い、鞄にしまった。いつの間にか夫は頭を下げていた。義祖母は夫を放置して棺に戻ってまた写真を撮りだした。周りの人が義祖母に視線を投げているのがわかった。隅の方にいたままの旦那は小さく肩を上げて義祖母を見つめていた。美佐子を視界に入れるのが怖い様子だった。

 か細い悲鳴が聞こえたのはそのすぐだった。棺の横で義祖母が尻もちをついている。美佐子が向かっている間に男性と女性スタッフが義祖母に駆け寄って脇を抱え上げた。義祖母を立ち上がらせたあとで美佐子が義祖母のスマートフォンを拾ったとき、異様な何かを感じた。もう一度画面を見ると祖父の顔が真っ黒な渦を巻いていて、目、鼻、口が原型をとどめないほど歪んでいた。

「なんで、こんな……」

 美佐子は小さな鼻息を漏らした。全身が鳥肌に包まれながらも義祖母が大勢の中心で情けなく怯えている様子が痛快だった。義祖母にお灸を据えるにはちょうど良い。そのまま美佐子は義祖母にスマートフォンを返すと水をすくうように受け取り、すぐに鞄にしまって席に座った。

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