第2話 血まみれ聖女、愛を誓わされる
◇
「う、うーん……何だか窮屈……」
どうやら私は、しばらく気を失っていたらしい。
そこは薄暗い茶室の中だった。
窮屈に感じた理由はすぐ分かった。縄だ。身体を縄で縛られている。
部屋を見渡すと、一筆書きの五芒星の書かれた札があちこちに貼られていた。
そして私は、即座に察する。
「あの……もしかして私の人生、終わり……でしょうか?」
これはどう控えめに言っても拉致監禁です。しかもこの部屋の内装から判断するに、私を監禁しているのは相当イっている方だと思われます。
まずはこのお札……もしかして神聖なものなのかもしれないですけど、これだけ無数にお札が貼られていたらもはやホラーです。あと私は子豚ちゃんじゃないので、こんなに縛り上げられても美味しくはなりません。縛って美味しいものはチャーシューぐらいです。
……すみません、テンパっているので変なことを言ってしまいました。
何が言いたいのかというと……神様、私をお助け下さい。
「あれ……縄がほどけて……る?」
さっきまであれだけ私の身体を縛っていたはずの縄が、何故か今は緩んでしまっていた。見ると、縄の一部が途中からすっぱりと切断されてしまっている。
もしかして、私の祈りが神様に通じたのでしょうか。
ありがとうございます、神様。
……でも、縄が急に刃物で切ったように切れるなんて、そんなことあり得るのでしょうか?
「それより、ここから早く逃げた方がいいかもしれません。気づかれない内に早く逃げないと、またチャーシューにされてしまいますから……」
そして私は立ち上がると、お札まみれの茶室を横断し、薄明りが差し込む障子戸の前までやって来る。
「ん……んんっ……かっ、固い、ですっ、がっ!」
私は引き戸の持ち手に手を掛けると、力を入れてその不思議なほどに固く閉じられた障子戸を開けようと試みる。
固い。固すぎる。この固さは異常だ。こんなことある? この固さ、なかなか開かないジャムのビンよりもずっと固い。
そして悪戦苦闘すること十数秒、ようやくガタンと開く。
しかし、その瞬間。
「……えっ?」
私は目を疑う。「ボン」と茶室内のお札が一斉に燃え上がり、一瞬で灰になったのである。
──そして、それは現れた。
一言でいえば、人の姿をした闇。どす黒い何かが集まってできたようなそれは、茶室の奥からゆっくりとした足取りで近づいてくる。
その瞬間、私は自分のしでかしたことを理解した。私は、あれを解き放ってしまったのだ。絶対に解き放ってはいけない、あれを。
「はぁ、はぁ……」
気づけば私は全速力で走っていた。早く、出来るだけ遠くに行かないと。そして家の敷地を出て、更に森の中へ。
しかし次の瞬間、私はそれが無駄だったことを悟った。
……空だ。空から闇が私のことを見下ろしている。
闇が世界を侵食していく。
月は赤く染まり、闇はより一層どす黒さを増していった。赤い月……違う、あれは血しぶきだ。そしてあれは、他でもない私の血。
右腕に感じる痛覚が、目の前の出来事が幻でないことを教えていた。
私は斬られたのだ。不可視の斬撃で。
痛い。今度は右足に痛みがやって来る。私は空を見上げる。「人の形をした闇」の手に、"二振りの刀"が握られていた。
……どうしてこうなった、のでしょうか。
私は誰かの為に生きたかっただけなのに。お爺ちゃんに恥じない立派な人間になりたかっただけなのに。
……誰かに生きてていいって言われたかった、だけなのに。
嵐のように風が吹き荒れる。私は、立ち尽くすことしかできなかった。ああダメだ、もうすぐ死ぬんだ。ううっ、恋人……は無理かもしれないですけど、せめて友達の一人は欲しかった……!
と、私が心の中で泣き言を言った、その時。
「……っ! やむを得ん!」
突然、どこからともなく男の人の声がした。この声、聞き覚えがある。確か手紙を受け取った日に、聞こえてきたあの声。
『──この手紙に従え。そうすれば楽になる』
そう私に囁いた、あの声の主が今私の背後に立っている。
そしてその人は、背後から私の左手首を力強く握ってきた。それからまるであの闇に手をかざすかのように、私に手を伸ばさせる。
……あ、指輪。
「あっ、あっ……もしかして、私を監禁した人ですかっ!? そ、それと……今気づいたのですが、私の指に指輪がはまっているのですがっ! これは一体なんなのでしょうか!?」
「集中しろ。お前は今からあの悪霊と契約を交わす。これから俺が言うことを復唱するんだ。でなければ二人とも死ぬことになる。他に、大勢の人もな」
「はっ、はい!」
私は勢いよく頷く。そして彼は、あの言葉を口ずさむのだった。
私もよく知っている、あの言葉を。
「──『病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も』」
「は、はいぃ!?」
──それは、結婚式の誓いの言葉だった。
◇
人身御供、という言葉がある。
悪霊に憑りつかれた人間を解放させるためには、一旦その悪霊を顕現させて陰陽術によって討祓する必要がある。だがしかし、その憑りついた悪霊が、都市一つを容易く消滅させるほどの力を持っていたとしたら?
悪霊は人間に憑りついている間は周囲に影響を及ぼすことはない。ただ憑りついた人間の生気を吸い上げ──やがて宿主を衰弱死させる、それだけだ。放置しておけば、取り憑いている間は無害。ただ一人、取りつかれた本人を除いて。
……そしてこの天草茜も、その人身御供に選ばれた人間の一人だった。
……彼女に憑りついている悪霊の名は『
中央の陰陽局は、彼女を人身御供に捧げてやり過ごすことを選んだ。
……だが彼には、彼女を見殺しにするつもりはなかった。
──天才陰陽師『
祓うことが無理なら、祓わずに対処する。これから俺はその悪霊と契約する。
方法は一つだ。立烏帽子の逸話を利用する。
それは──「婚姻の逸話」だ。
かつて鈴鹿山を根城としていた立烏帽子は、征夷大将軍として彼女を討祓するためやって来た坂上田村麻呂と婚姻の契りを結ぶ。以降、立烏帽子は田村麻呂の妻として数々の討祓に協力し、最終的に子を為すまでに至ったのである。
婚姻は古来より最も強い契約の一つだ。天草茜との婚姻を通じて、立烏帽子に契約をけしかける。その為の準備もすでに進んでいる。爻と茜は既に書面上では夫婦同士だ。あとは──
◇
目の前では、恐ろしい怪物が今にも私の命を刈り取ろうとしている。
でも私は正直、それどころじゃなかった。
「えっ、あっ……あれ、『悪霊』って言ってましたよね!? あとさっき言っていた『契約』って何なのでしょうか? それに、『この指輪』は一体? そして何より──何がどうなって『結婚式の誓いの言葉』を言うことに繋がるのですか!?」
「悪いが、俺たちにゆっくりお喋りをしている時間はない」
「むぎゅっ!?」
体が宙に浮いたと思ったらそれは「お姫様抱っこ」だった。
空中を斬撃が飛んでくる。そして結界のようなものに防がれる。もう、何が何だか分からない。
茜を抱きかかえている彼の姿は、まるで平安時代から蘇った陰陽師の姿そのものだった。
その身に召しているのは、
しかし何より目を引いたのは、その紅に輝く美しい瞳だった。
月夜に白く輝く金色の髪、悪霊を見据える紅色の瞳。そして綺麗な金色のまつ毛。
見上げる私の視線の先には、現実離れした幻想的な雰囲気の、中性的な整った目鼻立ちの顔があった。
歳は外見からして19歳の茜と変わらないくらいに見える。日焼けのしない白い肌が特徴的の、どことなく暗い陰を感じさせるような美青年がそこにいた。
「本来ならお前はあと三日は目覚めないことになっていた。俺の霊術は完璧なはずだったが……どうやらお前には、陰陽師の才覚があるらしい。そのせいで儀式の準備が終わる前に、あれを解き放させてしまった。……全く、あとはお前に『うえでぃんぐどれす』とやらを着せるだけだったんだが」
「う、ウエディングドレスっ……!?」
大真面目な顔をして何を言っているんでしょう、このイケメンさんは。
私が、その……げふんげふん、ウエディングドレスを着る、と申されましたよねっ!?
私は思わず心の中でむせてしまった。しかし目の前の彼は、そんな私にお構いなしに言葉を続ける。
「だからここから先は完全なアドリブだ。全ての準備が無駄になった訳じゃない。既に契約のお膳立ては出来ている。要するに、契約する人間が変わっただけだ──俺の代わりに、お前が契約しろ。あれに憑りつかれていたお前なら、この状況でも契約を交わせるはずだ」
「あっ、うう……その『契約』とやらをすれば、あの黒いのを止められるんですね?」
あの悪霊と契約さえすれば、大勢の人々の命が救われる。そのためになぜか『結婚式の誓いの言葉』を言わなきゃいけない「羞恥プレイ」が待っているみたいですけど。……大丈夫、言うのは一瞬、一瞬なんですから。
そして私は腹を括ると、左の手のひらをその「悪霊」にかざして大きな声で叫ぶのだった。
「──病める時も健やかなる時も!」
「──富める時も貧しき時も!」
「──喜びの時も悲しみの時も!」
「──死が二人を分かつまで!」
「──わたしはあなたに真心を尽くすことを……誓いますっ!」
その直後。
光と共に、悪霊の姿が消えていく。と同時に、契約で体力を使い果たした私の身体からも力が抜けていく。
そして私は、意識を手放したのだった……。
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