1-11 【迷い子】と【魂】

 知らぬ事実に茉莉花は三ヶ月の記憶を探ったが、心当たりがない。

 

 しかし彼女の言う通り真実など関係なく、大男に殺されるだろう。


 間違いなど些細なことで、人間の命など何とも思っていない。疑わしいなら殺して確認した方が早い。


 それとも――記憶のないとき、何か、したのか?


 ぞわりとした恐怖が足元から這い上がってくる。

 記憶喪失に悲観ひかんしたことはない。だがもしその間に悪事を働き、花送町はなおくりちょうで瑚灯と出会う前に、彼に迷惑かかるような行いをしでかしていたら――。


「だから、だから、逃げましょう。あなたはここでは生きられない」


 懇願こんがんに、はっとして頭を振る。

 今はそんなことを考えている場合ではない。しっかり、彼女を送らなければならない。


 迷イ子、と呼ばれる彼女の存在。迷子と呼ばれるに、ふさわしく、不安定で涙目で、それでいて茉莉花の心を締め付けた。


 彼女の優しさが首を締め上げて、酸素を奪っていく。言葉に詰まって、不自然な沈黙が流れた。


 どうにか呼吸を再開させて強引に口を開いて、優しく彼女を突き放した。


「一緒に、いけません。私は迷イ子ではないから」


「え……?」

「ここは、『あの世とこの世の境』です。肉体を持たず、魂だけで彷徨さまようものが多い。私も、それです。魂だけの、存在」


 茉莉花は――肉体を持っていない。魂だけの存在だ。


 茉莉花に姿や体温もあるのも、魂に触れているだけ。

 視覚で体を捉えても、まやかしでしかないのだ。


「こんな境でただよう魂っていうのは、ほとんどが現世で生死不明で魂だけ抜けて、辿り着いたのです。曖昧あいまいなんですよ」


 黄昏のように、境で、不安定な魂。


「私みたいに、記憶を失っていたりすると帰れません……どちらに行くべきか、分かってないから」

「どちら?」

「例えば死にかけなら、現世にでもあの世でも好きに選べます。現世なら生き返れる。あの世なら……死にます」

 そして、現世で死んでいるなら、死者の魂。

 行くべき場所はひとつのみ。


 あの世、黄泉である。


「死にかけとか、死ぬときとかって結構、記憶が朧気おぼろげなのが多いそうですよ。意識朦朧いしきもうろうとしているから」


 だから自分がどうなったのかも、行く場所も分からなくて、この境に来てしまう。


「あなたは、忘れているの」

「……ええ。しかも、他の人と違って全部です。たまにいるらしいんですけど」


 生死不明でも、名前などは覚えているものが多い。

 忘れているのは、あくまで生死不明になる瞬間だけ。だから普通は生活の記憶はあるはずなのだ。


 だが、茉莉花は違った。

 名前も、どんな暮らしだったか、全部、記憶が抜け落ちていた。


「でも、瑚灯さまに『茉莉花』と名付けられて、姿を思い出させてもらったおかげで、一つだけ記憶を取り戻したんですよ。母の記憶、それだけなんですけど」


 それも、五秒も満たない程度の記憶。

 手をつないで、見上げた先で母が花束を抱えながら見つめてくれる。微笑んで「大好きよ」と言っている。

 それだけだ。


 それだけ、しかし。


 茉莉花にとって幸福な記憶だ。

 何よりも失いたくないと思う、宝物。茉莉花を作る、魂が形を保つ理由のひとつ。


「私は思い出さなきゃいけないんです。自分がどうなって、ここに来たのか」

「そんな」

「ちゃんと自分を取り戻して、大好きな母の元に帰る。それで「私もお母さんが大好きだよ」って言う。それが目標なんですよ」


 母が大好き。

 その気持ちは強く刻まれている。

 忘れているのに、消えていない――決して手放してはならない想いだ。早く母の元へ帰らなくては。思いが焦りに近い感情を抱かせ突き動かす。


「まぁ現世に帰る前に、名前と体をくれた瑚灯さまに、恩を返したいんですけど」


 もし、瑚灯が茉莉花と名を与えていなかったら、と思うと恐ろしい。

 今頃、形も心も保てない成れの果てに消えていたはずだ。


「……あなたは、茉莉花って名前が好きなのですね」

「わかりますか」

「ええ。表情は一切変わらないし、声音も一定だけれど。茉莉花、と呼ばれたとき、今も少しだけ和らいだように思うわ」

「顔がですか?」

「いいえ。纏う雰囲気、なんとなく」

「こんな幸せなのに、動いてないのですか私の顔」

「まったく」

「うそぉ」


 あながち間違いではない。

 茉莉花、と呼ばれる度に心が弾むのだから。


(それでも顔は変わってないのか)


 己の顔はもしや石か何かで出来ているのか。ぐいっと頬を引っ張ったが、瑚灯お墨付きの餅、みょーんと伸びた。

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