1-9 止めたい
瑚灯が簡単に殺されるとは思わない。
だが、もし、しでかしたら彼女は本気で逃げられなくなる。
売られないが捕まってしまうのだ。
瑚灯が言うにはそれは人間にとって、とても苦しいものなのだと教えてくれた。
茉莉花の知る刑務所などとは程遠い無法地帯なのだと。
危険な場所に彼女を収監されるのだけは避けたい。
だからこそ瑚灯は、一芝居を打ったのだ。
大男の演技にも、彼女の殺意にも全部。
もし実現したら、計画していたと知られただけでも、危ういから。知らぬふりをしようと。
頼むから逃げてくれ、と瑚灯と茉莉花は願いながら、彼女の部屋の前で話した。
結果思い通りにいったが――予想以上に彼女が不安定だ。
殺されかけるのは予測していたが、まさか自我が保てなくなるほどとは。
どろどろと溶けていく様に、雨の日思い出す。
己がそうだったと、寒くて終わるとさえ思えない、全てが消えていく感覚。死など生ぬるい、終焉。自我を保てないものの末路。
(それだけは、止めなきゃいけない)
「貴女はどうしたいのですか。大男さまを殺したいですか」
「ええ」
だが、すぐに目をそらしてから「だけど逃げられるなら、それでも良かった。憎しみを抱いて我慢し続けた」と続けた。
「もしあなたに捕まらなかったら、このまま逃げていたわ。でも捕まったから、売られる前にあなたを殺して、戻って、アレを」
「落ち着いてください。私は貴女に危害は加えません」
「信じられると思っているの?」
小刀が
思考より早く体が動いて、刀と首の間に手を滑り込ませて握った。
これほど手袋の存在に助かったと思った日はないだろう。
特別製なのか切れないらしく、ぎしぎしと力の攻防が始まった。
自慢ではないが、茉莉花は力が弱い。
長期戦では負け確定だ、そうそうに説得を成功させねばならない。
「疑心暗鬼になるでしょうが、信じてもらわないと困ります。このままだと貴女が消えてしまう」
「なら証明して、お願いよ。わたくしが逃げれるって」
「証明はできません。ですが、ひとつ、あるとすれば、わたしです」
「……あなた?」
「私は人間であり、人間の価値を理解できていない」
人間売買の意味がわからない。
あやかしのように力もない、臓器も花送町では無意味だ。使い道が思いつかないのだ。
売る理由もない、自分は狐花で生活が出来ていて、特に不満もない。
……その言葉は無神経であり、口の奥に飲み込んだ。
目の前で苦しんでいる人の前で、自分は幸せだ、というほど残酷なものはない。
「そ、れだけで信じられると思うの?」
「いえ、全く。けど、もうそれぐらいで。つらい現実といいますか」
「……じゃあ約束してほしいのだけど、アレを殺してくれないかしら、代わりに」
「犯罪はちょっと」
「緊張感、死んでいるの?」
「いや生きてます。今恐怖で震えています」
「顔、無表情だけれど」
「不思議ですよね」
女は
その間にも人の形は失われていく。
「ひとつ、あなたが気付いてないのがあるわ」
「何でしょう」
「私が殺すように言いつけられたのは、店主だけじゃないのよ。あなたもよ」
(わたし?)
瑚灯とは違い、殺したところで利益は見込めない。
一介の下働きに何を見出したのだ。
「花を、奪ってこいと言われたわ。独り占めに、所有権を手に入れると」
「心当たりがまったくないのですが」
「いいえ、必ず持っているはずだからって。それを持っていったら、アレは少しは油断してくれるかしら」
しまった。と思っても遅い。
刀が引き抜かれ、女性が大きく振りかぶる。月光に閃くのを茉莉花は見上げて反射的に動いた。
――切り裂く音がした。
痛みが、腕に走る。
異物が二の腕あたり掠めて、息が詰まる。
うめき声は風に消し去ったが、何かが溶ける音と異臭が広がっていく。ぽたぽたと何かが地面に落ちる。
「どう、して」
茫然とした女は尋ねた。
刀先は、茉莉花ではなく――まっすぐ女性の首を狙っていた。
「どうして私が死ぬつもりだと、気がついたの」
落ちた問いに色はなく、夢のようにふわふわしている。
茉莉花は彼女の背を撫でて、落ち着くように促した。
「貴女が一度も帰りたいと、口にしませんでしたから。それに殺意が私に向いてないのも」
「……帰れないわ、だってわたくし、こんなにも、よごれてしまっているんだもの」
「いいえ。貴女は、綺麗です。だって誰も傷付けてない」
「それは、その機会に恵まれてなかっただけよ」
「だとしても、結果、貴女は優しいままです。私を刺すのをやめて、自分の命を断つことを選んだ」
「あなたを刺したわ」
「なんの事ですか。これは急に飛び出した私が悪いのです、いわば自分から刺さりに行ったので。私が私を刺したようなものです」
それに、だ。傷は深くない。
瑚灯の狐火が刃を溶かしてしまったのだ。
先ほど地面に落ちた、 どろりとした刃だったものが固まっていく。
ごう、と炎が女性を排除対象とするか悩むように揺らめく。
女性を抱き寄せて、首を振って炎に意思を伝えれば素直に引き下がってくれた。
彼女の手から残った柄がこぼれた。
一瞥して、茉莉花も離れる。
「あなたは壊れてしまっているのね」
悲しげな呟きに、ふと握っていた彼女の手に形が戻った。溶け出していたのが嘘のように人となっている。女性は呆れたような笑いを浮かべて気が抜けたように脱力した。
「馬鹿ね。あなた」
「えっ」
「あなたの問題、少し分かった気がする――あなたそのままじゃあ、死んじゃうわよ」
なんのことか。質問を口に出す前に女性は淡く微笑む。疲れ切った顔に何も言えなくなる。いや、聞きたく、ない気がした。
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