艶やかな妖狐
「――茉莉花」
男の、す、と細まった紫の瞳が茉莉花を捉える。
艶めく濡れた夜のような声。だが含まれたのは、咎めるのではなく、心配を
名前を呼ばれてぴんっと背筋を伸ばして、はい、と大きく返事をした。
心が嬉しくてほわほわと暖かくなるのを感じる。顔には出ないのだろうけれど。
「すみません、遅れました」
「確かに開店前までに、とは言ったが。こんな夜遅く歩くのを許した覚えはねぇぞ」
いくらここでも、女が一人で出歩くな。と唇に
「最近は、白い花を異様に求めるやつ、
「ここは安全でしょう。花街ほど平和な場所はありません」
「だからって油断していい理由にはならないんだよ」
こつんと軽く小突かれたが、痛みはない。
「ほら、さっさと支度しな。
「マジですか」
「当たり前だろう。芍薬はお前に死ぬほど甘いからな」
(それは貴方も大概ですけど)
恩人さまは何百年も生きるあやかしだ。茉莉花など赤子なのかもしれない。
買い出しが遅くなったら外で待つ程度には。
しかし茉莉花は飴玉もらって、ほいほいついて行く年齢ではない。指摘したところで、生暖かい眼差しで頭を撫でられるだけなのだが、いささか心外である。
「ん、ほら髪飾り曲がってるぞ」
指摘されて、髪に触れる。
どうやら【茉莉花】の花飾りが、とれかけているらしい。直そうと手探りでやってみるが不器用なせいか、上手くいかない。
瑚灯が
「そら、直してやるから、かしてみな」
「ありがとうございます」
瑚灯の手を煩わせるのに申し訳なさを感じながら、素直に差し出す。
間違いなく自分がやるより、手早く済ませるだろう。
忙しい彼の時間をこれ以上、奪いたくない。
「お前の髪は綺麗でいいな。花飾りがよく似合う」
「そうですか?」
最低限な手入れしかしてない、茶色の髪をつまむ。
美しいというのは、艶やかな烏の濡れ羽色した瑚灯の髪のことを指すだろう。絹のような手触りだろうと一目でわかる。
「いいんじゃないか。優しい色で、お前によく合ってる。俺は好きだ」
髪色を褒められたのは初めてのせいか、心からわきあがる感情が溢れ出そうになる。
嬉しくてたまらない、泣きたくなるほど、褒められただけだろうと、自分の気持ちは勝手にはしゃぐ。
嬉しさと、名前のわからない不思議な思いがふわふわと、茉莉花を包みこんだ。
おそらく顔に出ていないのだろう、茉莉花は言葉で「ありがとうございます。すごく嬉しいです、私も好きなので」と伝える。
抑揚がない声音が棒読みのようだったが、瑚灯にはちゃんと伝わったらしい。
「そうか。なら大事にしな。……よしできた。今日も
「瑚灯さま、あまり女性を持ち上げると勘違いされますよ」
「安心しな。相手は選んでいるさ」
本気にする女性には言わないのか。なんというか流石だ。流石すぎて少々たちが悪い。
「さて、――俺も一仕事しなきゃな」
紫煙をくゆらせた瑚灯が、
それだけで一斉に皆の視線が奪われた。
大声ではないのに、一瞬にして纏う雰囲気に飲まれていく。
雪のような白い肌に、赤い提灯の色がうつる。小首をかしげれば、烏の濡れ羽色の髪が頬にかかった。朱と橙色の彼岸花のピアスが、耳元でしゃらりと揺れて煌めく。
皆が足を止めて見惚れ、感嘆の声があがる。
そして吸い込まれるように『
「せっかく外に出たんだ。ちょいと手伝いしなきゃ叱られちまう」
ふふ、と紅色の唇が弧を描き、熱っぽい吐息をこぼす瑚灯に、頷いた。
誰が怒るのか。花街にある店のほとんどが、瑚灯が経営しているのに。
茉莉花の無駄な思考の間にも客は途切れず入っていく。蟻の行列のごとく続々と。
(効果抜群だ。今日も
すごすごと裏口へと向かう。
従業員専用入り口は、少し離れた場所だ。急がないと、本気で怒られてしまう。いや怒られるだけならまだいい、芍薬姉の過保護が発動したらえらい目に合う。下手したら外に出さないと言い出しかねない。
どうかそうなりませんように、祈りながら支度を急いだ。
大忙しの狐花での仕事の始まりである。
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