艶やかな妖狐

「――茉莉花」


 男の、す、と細まった紫の瞳が茉莉花を捉える。

 艶めく濡れた夜のような声。だが含まれたのは、咎めるのではなく、心配をにじませた優しいものだ。


 名前を呼ばれてぴんっと背筋を伸ばして、はい、と大きく返事をした。

 心が嬉しくてほわほわと暖かくなるのを感じる。顔には出ないのだろうけれど。


「すみません、遅れました」

「確かに開店前までに、とは言ったが。こんな夜遅く歩くのを許した覚えはねぇぞ」


 いくらここでも、女が一人で出歩くな。と唇に蠱惑的こわくてきな笑みを乗せた男に茉莉花は「はい」と殊勝しゅしょうに頷いた。


「最近は、白い花を異様に求めるやつ、人攫ひとさらい、強盗、色々物騒だからなぁ」

「ここは安全でしょう。花街ほど平和な場所はありません」

「だからって油断していい理由にはならないんだよ」


 こつんと軽く小突かれたが、痛みはない。


「ほら、さっさと支度しな。芍薬しゃくやくが心配あまりに倒れたぞ」

「マジですか」

「当たり前だろう。芍薬はお前に死ぬほど甘いからな」


(それは貴方も大概ですけど)


 恩人さまは何百年も生きるあやかしだ。茉莉花など赤子なのかもしれない。


 買い出しが遅くなったら外で待つ程度には。


 しかし茉莉花は飴玉もらって、ほいほいついて行く年齢ではない。指摘したところで、生暖かい眼差しで頭を撫でられるだけなのだが、いささか心外である。


「ん、ほら髪飾り曲がってるぞ」


 指摘されて、髪に触れる。

 どうやら【茉莉花】の花飾りが、とれかけているらしい。直そうと手探りでやってみるが不器用なせいか、上手くいかない。

 瑚灯が愉快ゆかいげに笑った。


「そら、直してやるから、かしてみな」

「ありがとうございます」


 瑚灯の手を煩わせるのに申し訳なさを感じながら、素直に差し出す。

 間違いなく自分がやるより、手早く済ませるだろう。

 忙しい彼の時間をこれ以上、奪いたくない。


「お前の髪は綺麗でいいな。花飾りがよく似合う」

「そうですか?」


 最低限な手入れしかしてない、茶色の髪をつまむ。

 美しいというのは、艶やかな烏の濡れ羽色した瑚灯の髪のことを指すだろう。絹のような手触りだろうと一目でわかる。


「いいんじゃないか。優しい色で、お前によく合ってる。俺は好きだ」


 髪色を褒められたのは初めてのせいか、心からわきあがる感情が溢れ出そうになる。


 嬉しくてたまらない、泣きたくなるほど、褒められただけだろうと、自分の気持ちは勝手にはしゃぐ。

 嬉しさと、名前のわからない不思議な思いがふわふわと、茉莉花を包みこんだ。


 おそらく顔に出ていないのだろう、茉莉花は言葉で「ありがとうございます。すごく嬉しいです、私も好きなので」と伝える。

 抑揚がない声音が棒読みのようだったが、瑚灯にはちゃんと伝わったらしい。


「そうか。なら大事にしな。……よしできた。今日も別嬪べっぴんだな」

「瑚灯さま、あまり女性を持ち上げると勘違いされますよ」

「安心しな。相手は選んでいるさ」


 本気にする女性には言わないのか。なんというか流石だ。流石すぎて少々たちが悪い。


「さて、――俺も一仕事しなきゃな」


 紫煙をくゆらせた瑚灯が、凄艶せいえんな顔立ちに蕩けるような笑みと蜜のような声を出す。


 それだけで一斉に皆の視線が奪われた。

 大声ではないのに、一瞬にして纏う雰囲気に飲まれていく。


 雪のような白い肌に、赤い提灯の色がうつる。小首をかしげれば、烏の濡れ羽色の髪が頬にかかった。朱と橙色の彼岸花のピアスが、耳元でしゃらりと揺れて煌めく。


 皆が足を止めて見惚れ、感嘆の声があがる。

 そして吸い込まれるように『狐花きつねばな』に入っていった。なんという吸引力。


「せっかく外に出たんだ。ちょいと手伝いしなきゃ叱られちまう」


 ふふ、と紅色の唇が弧を描き、熱っぽい吐息をこぼす瑚灯に、頷いた。


 誰が怒るのか。花街にある店のほとんどが、瑚灯が経営しているのに。

 茉莉花の無駄な思考の間にも客は途切れず入っていく。蟻の行列のごとく続々と。


(効果抜群だ。今日も大繁盛だいはんじょう間違いなしだな)


 すごすごと裏口へと向かう。


 従業員専用入り口は、少し離れた場所だ。急がないと、本気で怒られてしまう。いや怒られるだけならまだいい、芍薬姉の過保護が発動したらえらい目に合う。下手したら外に出さないと言い出しかねない。

 どうかそうなりませんように、祈りながら支度を急いだ。


 大忙しの狐花での仕事の始まりである。

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