Saelum 05

 クレナは案内された部屋に入るなり、窓際に備え付けられたシングルサイズのベッドにダイブした。日に干した匂いがまだ残る布団に顔を埋め、深い溜め息を漏らす。ひとりになると、静まっていたはずの不安が再び押し寄せてきた。神隠しなんて訳の分からない現象で変な世界へやって来てしまたのだから、こうなっても仕方がない。クレナは信じ難い現実を何とか受け入れようと心の中で必死で藻搔いていた。


(そもそも、わたし……生きているのかな?)


 もしかしたら、歩道橋から落ちてそのまま死んでしまったかもしれない。クレナにとって自分が生者なのか、それとも死者なのか、そのことだけが一番の気掛かりとなった。


(それも分からないで、帰る方法なんて見つけられるの? はやく帰りたい……)


 きっと、両親だって心配してる。明日になれば会社の上司や同僚たちも騒ぎ出すに違いない。最悪、無断欠勤でクビなんてこともあり得るかもしれない。そんなことを考えたら、ゾッとした。


「やっぱりなにがなんでも帰らなきゃ!」


 両親のためにも、ささやかな夢のためにも、現世に残してきた“後悔”のためにも生きて帰らなくちゃいけないと改め思った。あれこれ考え込んでいたら、いつの間にか部屋の中は薄暗くなり始めていた。窓を覗くと、夕日は沈みはじめ、辺りを赤黒く染める。


(外の空気でも吸ってこようかな?)


 部屋にひとりはどこか落ち着かない。クレナは音を立てないようにそっと部屋を出た。2階にも1階にも人影はなく、クレナはすんなりと玄関へと辿り着く。外へと抜け出すと、さらに周りは暗くなり、空にはうっすらと星が覗いていた。暗さが深くなる毎に、星は輝きを増していく。


(久しぶりに星見たな)


 最後に見た空は、星が微かに見える程度だった。しかし今は、空一面を埋め尽くすほどの星が光輝いている。都会で見る夜空とはまるで違った。感動する反面で、クレナは実感してしまう。


「やっぱりここは別世界なんだ」


「落ち着きませんか?」


「……っ!?」


 突然の呼びかけに振り向くと、ランタンを片手に持ったヨンギの姿があった。


「すみません、驚かせてしまいましたか?」


「いえ……」


 ヨンギはクレナの横に並ぶように立つ。


「部屋から出ていくのを見たので、様子を見に来ました。ここの夜は危ないですから」


 クレナは小さく微笑み返し、また星に目を向ける。


「不安になって当然ですよ」


 慰めるような口調でヨンギは言った。


「いきなり知らない世界へ来てしまった上に、自分が死んだか生きているかも分からない状況に陥ったら誰だって受け入れ難いものです」


 ヨンギはランタンを置き、地面へと腰掛ける。それに合わせ、クレナもその場に座った。


「クレナさん」


「はい」


「きっとこの世界へ来たということは、クレナさん自身が抱える後悔と未練を乗り越えるチャンスだと思うんです」


「チャンス?」


「辛いことを乗り越えるには、たくさんの勇気がいるでしょ? ましてや苦しいことに立ち向かわないといけません」


 クレナは頷く。


「誰だって嫌なことから避けたいと思うし、目を背けたくなるものです」


 ヨンギの言う通りだ。クレナは過去から逃げていた。


「でもそのままにしたら、いつまでもその事に縛られて身動きがとれなくなる。前にも進めず、引き返すこともできない……それは止まったまま死んでいるのと同じだと思いませんか?」


「その通りだと思います」


「僕は死んだ側なので、クレナさんには乗り越えてほしいんですよ。そして生きてほしい」


 そっとヨンギが左手をクレナへと向け、優しく頭を撫でた。誰かに頭を撫でられたのなんていつ以来だろうか。なんだか照れ臭さを感じた。


「そういえばクレナさんの瞳はグレーなんですね」


 覗き込まれて、ヨンギと至近距離で目が合う。


「とても綺麗です」


「あ、ありがとうございます」


 ドアップのヨンギに耐え兼ね、クレナは目を僅かに逸らす。


「お母さんがドイツの生まれで」


「お父さんも?」


「いえ、お父さんは日本人です」


「ハーフなんですね」


「はい」


 その返事で、ヨンギの顔と手が離された。ランタンに照らされた顔は、さっき見たようにどこか悲しそうに映った。


「きっと大変なこともあったでしょう。見た目が違う、身分が異なる、そんな些細なことだけで人は時に残酷さを現す」


「ヨンギさん?」


「すいません、知り合いの話を思い出して」


 きっと、彼の実体験だろう。密かにクレナは悟った。ヨンギやアランがどれだけの苦しみを抱えているのかなんて、他人のクレナには想像すらつかない。ただ、この世界から抜け出すのを断念してしまうほどの出来事が彼らを襲ったのだけは確かだ。


「外は冷えますね。そういえばお腹すきませんか? 中で温かいスープでも飲みましょう」


 立ち上がり、コテージへと足を向ける。そんな彼を見て、慌てて口を開いた。


「変なことを聞いてもいいですか?」


「どうぞ」


「ヨンギさんは成仏するのが嫌で護衛隊カンボーイになったんですよね?」


 ヨンギは嫌な顔もせず、そうですと返した。


「なら他の死者は、成仏したらどこへ行くんですか? それから、さっきわたしを襲おうとした人たちはどこに消えていってしまったんですか?」


「先ほどのふたりは、強制的に地獄へ送りました」


「地獄があるんですか!? なら、天国も?」


「もちろんです。しかし、一般的に知られている世界の伝承とは少し違ってます」


 ヨンギはまた、クレナの横に座り直す。


「天国と地獄の本質は“更生”です。天国へ行くことは即ち、成仏し、新しい魂をもらい生まれ変わることです。また人間として生きたいか、または動物や昆虫……本人の希望を聞きながら手続きが行われます」


「なら、地獄は?」


「地獄は悪い行いをした死者に罰を与えるだけではなく、天国へ行くための手助けをする場所なんです」


 地獄は罰だけを与える場所という概念しかなかった。初めて耳にしたことに、クレナは興味津々といった顔付きを相手に向ける。そんな様子に、ヨンギは少しだけ笑顔を零す。


「言い換えれば天国は市役所、地獄は学校みたいなものでしょうか」


「なら、天使は役場職員で悪魔は教師ってことですね」


「そうですね」


 なんだか面白くなってきて、ふたりは笑い合った。

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