ep005.「そして花は咲く」前編
12時も近くなったので、茉莉はアパートの部屋を出てから再度戸締まりをし、鍵を閉めた。有栖は朝の仕込みがあるということで既に部屋を出て店へ向かっていた。
店につくと「茉莉ちゃんはまだ座ってていいよ〜」と言われたので、休憩室で休んで待つことにした。そうしていると「あ、タイムカードだけは押しといてね。『打刻してなくてその分の給料は支払えません』ってなったら労基に怒られちゃうから」と釘を差される。
タイムカードは今となっては旧式の、紙を機械に通して出退勤時刻を印字するという若干アナログな方式だった。紙を渡され、機械に通し、エプロンを着て休憩室に移動する。
茉莉はスマホを開いて、イヤホンを耳にさして周りの物音が耳に入るくらいの音量に絞って音楽を聴き始める。父が筋金入りの骨太な洋楽好きだったため、幼い頃はタワーレコードや下北沢のディスクユニオンによく連れて行ってもらっていた。
今でもその影響で音楽の教養は少なからずあるつもりではある。音楽プレーヤーを開き、仕事に向けて気合を入れるをためにもアップテンポなロック・ミュージックを選曲した。レッド・ホット・チリ・ペッパーズは暴れまわるような乱暴なスラップ・ベースとギターサウンドがあるのにそれらが喧嘩していなくて、不思議とマッチしているから好きだ。中でも’89年の「
音楽を聞きながら休憩室を見回してみた。この喫茶店の在りし日がうかがえる色褪せたフィルム写真やコーヒーコンテストの賞状、洋楽や昭和歌謡のレコード・ジャケットが飾られている。谷村新司からスティング、カーペンターズまであり先代の店主の幅広い趣味が感じられる。
『Higher Ground』が終わり、プレイリストは『Californication』に移っていた。アンソニー・キーディスが中国から来た超能力スパイについて歌っている時に、キッチンの方から有栖が呼ぶ声がした。イヤホンを外して「はーい、今行きます」と茉莉は返事する。
初日の指導は簡単な接客の基本と、コーヒーの淹れ方の基礎についてだった。
分離礼や挨拶、謝り方についてなど30分以上にわたって叩き込まれて、既にヘトヘトになっていた。
「お辞儀は相手が顔を上げた後に、ゆっくりと顔を上げるんだよ」
「いらっしゃいませを言ってからお辞儀するの!」
「謝るときのお辞儀は45度!茉莉ちゃんのそのお辞儀は浅すぎるよ!」
接客態度について指導する有栖は普段からは想像できないくらい真剣だった。
「き...厳しいですね」
茉莉はもうヘトヘトだが有栖は更に発破をかけてくる。
「あまり礼儀がなってないとお客さんに失礼だからね?あとでレジュメのPDFとマニュアルの動画も送るから覚えといてね」
「は、はい」
「『はい』は一回だよ」
有栖は真顔で言う。
「...はい。」
「それでOK」
「よし、少し休憩していいよ、15分くらい。コーヒー淹れてあげるね」
「ほんとですか?ありがとうございます!今日はなんのコーヒーですか?」
「敬語じゃなくていいよ、アタシの方が歳下なんだから。えっと今日はね、メキシコのエル・トリウンフォってとこの豆だよ。昔スペインによって鉱山がひらかれて栄えてたカリフォルニア半島にある街。最近読んだ海外のホラー小説に出てきたんだ」
歳下というのは初めて知った。
有栖はグラインダーで豆を挽き、コーヒー粉をステンレスのドリッパーに放り込む。そして電気式ケトルで70度で保温している軟水の熱湯を粉に注いでいく。スマートフォンでタイマーを一分に設定する。
蒸らし時間を終えると間をおかずに熱湯をジャブジャブ注いでいく。たちまち熱湯はドリッパーに満杯になり、サーバーに勢いよくコーヒーが抽出されていく。抽出時間は短時間で終了し、出来上がったコーヒーをマグカップにうつしていく。
「どう、美味しい?浅煎りのコーヒーは初めてでしょ」
「美味しいけどフルーティーでさっぱりした味ですね...まるで紅茶みたいな」
「でしょでしょ?アタシも基本深煎りが好きなんだけどここ最近の流行りは
有栖は満面の笑顔を浮かべている。
茉莉もご満悦と言った表情で返す。
そうこうしているうちに休憩時間が終わり、カウンターに戻りまた指導を受ける。
有栖はあらかじめグラインドしてあるコーヒー粉を入れたフィルターをセットしたドリッパーとサーバーをHARIOのドリップスケールにのせて待機していた。
「次はコーヒーの淹れ方についてだよ。アタシが淹れてるとこを見てたから少し分かると思うけど、重要なのは蒸らし時間と『の』の字にドリップすること。はいここメモってね」
茉莉はアルバイトに備えて個人経営の文房具店で買ったメモ帳を懐から出して、エナージェルの0.4mmのボールペンでいそいそとメモをする。
「コーヒーの抽出はドームが沈んでいくときをねらって3回に分けて注いでいくの。でもコーヒーは最後まで抽出しなくていいよ。最後の液には雑味やエグ味が残ってるから。茉莉ちゃんも味見してみて」
と有栖はドリッパーを先程まで置いていた台形のコーヒーサーバーから小振りの計量カップに勢いよく移す。最後の液がポタポタと落ちていき、やがてそれも止まる。
「うぇっ、苦っ...」
「絶対お客さんに出すやつでこれはやめてね」
「わかりました...」
◇ ◇ ◇
時計は12時をまわり開店時間になった。
からくり時計の鐘が「ボーン、ボーン」と鈍い音を立てて中央部分と側面から人形の楽団が現れて童謡「小さな世界」を奏で、やがて演奏を止めて引っ込んでいく。
「中々お客さん来ないね」
「仕方ないよ、人目につかない場所にあるんだし」
レコードプレーヤーに付随したBOSEのスピーカーから流れる、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの音楽がひたすら空回りしている。
「あぁ~座ってていいよ。ウチのお店では接客中に座ることを推奨してるから」
有栖が用意してくれたのは、ステンレス製の簡易なチェアだったが立っているより、負担が少なく座り心地も良かった。
雑談に花を咲かせているうちに、ドアをノックする音が聞こえ鈴が鳴り、人が入ってくる。
「いらっしゃいませ~」
「いらっしゃいませ!って、ゲッ....!?」
「ちーっす、
「有栖ちゃん、知り合いなの?」
「知り合いも何も腐れ縁だよ!しかもお墨付きの!!最悪なんだけど」
「そんな事言わずにさぁ、どうせ繁盛してなくて閑古鳥鳴いてるんでしょ?ここ」
飄々とした態度で店に入ってきたのは天然パーマに眼鏡姿という風貌のひょろっとした男性だった。そして背中には頭の高さよりある楽器ケースを背負っている。恐らくバンドマンか何かの類だろうと茉莉は勘ぐった。
「あんたが来るなんて最悪なんだけど。ねぇ?壮馬」
壮馬と呼ばれたそのバンドマン風の男は冷やかしたような態度で「悪ぃ」と平謝りをする。
そして茉莉の方を一瞥し
「ん?見ない顔だな。君バイト?新しく入ったなんて聞いてないけど」
と鼻で笑い、冷やかす。
「あ、あの……そのぉ…」
茉莉はなんと返したらいいか分からずに縮こまる。
「ほら、茉莉ちゃん困ってるでしょ!やめてあげて」
「分かったよ。それよりさぁ、せっかく来たからおやつでも頂いてこっかな〜。あっそうだ、クリームブリュレってまだ提供してる?」
「してますけどぉ〜?」
壮真は適当な席に座り、背中の楽器ケースを開いてアコースティックギターを取り出し、おもむろにギターを弾き始める。
「それでは小沢健二・フィーチャリング・スチャダラパーで『今夜はブギー・バック』弾き語りバージョンでーす。聴いてください」
ノリノリで渋谷系ミュージックを自信満々に歌う壮真を横目に、有栖は舌打ちとため息交じりにクリームブリュレを盛り付けていく。
「はい、濃厚クリームブリュレ。580円ね」
テーブル席に「ドン」と音がたつくらいに八つ当たりよろしく激しく皿を叩きつける。
「うぉっ、高いな」
「インフレのご時世ですから」
「デフレにしてくれ」
「ただでさえお客さん入ってないのにそれじゃ元が取れないので無理でーす」
「ご、ごゆっくり」
壮真はクリームブリュレを鏡面仕上げのカトラリーで一口すくい、口に運ぶ。
「いただきま〜す。おぉ美味いね」
「チッ」
と有栖は壮真の感想を舌打ちで遮る。
食べ終わった壮真はレジで代金を払い
「あざっした~」
「あーあと今度の金曜交流センターでライブするから良かったら来てね〜」
と口にして店を後にする。
「誰が行くもんか!」
「やっとめんどくさいのがいなくなった~。ごめんね茉莉ちゃん、あんなやつの相手なんかさせちゃって」
「いや、全然大丈夫だよ。ただなんか面白い人だなって思った」
◇ ◇ ◇
仕事を終えた2人はアパートに帰る。
部屋に入るが、どこからか大音量の音楽が流れてくるのが聞こえてくる。
音の出どころを2人で探ると、それは隣の部屋からだった。
有栖が勢いよく扉を蹴飛ばすと、部屋の主が扉を開けて出てくる。
なんとその部屋の主は壮真だった。
「あんたが隣の部屋なんて聞いてないんだけど!」
「まぁそう怒るなって。今日越してきたばっかりだから、改めてよろしくっ!」
「はぁ~~~~。もう好きにしたらいいんじゃない?知らないからね!」
と言い放ち、有栖はドアを激しく閉める。
◇ ◇ ◇
茉莉が安神沢に来たばかりでまだ右も左も分からないだろうと言うことで、ちょうど店が休みに当たる日に、安神沢の街を案内することにした。
「安神沢はカフェで有名な街なの。うちのお店もその流れに乗って叔父さんの代から始めた。県道841号にある『cafe
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