ep003.「ようこそ喫茶リリエンタールへ」
格子状の文様がついた木製の扉を開けて入った店内は、寂れた外観とは裏腹にヴィンテージで落ち着いた空間だった。こじんまりとはしているが、喫茶店としての体はしっかりと整えられているようだ。赤いベロア地のソファと大理石のミニテーブルのセットがざっと12席ほど、バーカウンターの前には古いアメリカ映画のダイナーにありそうな座高の高いカウンターチェアが並べてあり、キッチンの上には理科の実験器具のようなサイフォンや電動コーヒーグラインダー、マキネッタのモカエキスプレス、フレア社製のエスプレッソメーカーなどが陳列されている。
花咲里はカウンターに向かって「有栖ちゃん、お客さんが来たよ~」と声を掛ける。そうすると「は~い」と女性の声が聞こえて、少し経ってから珠のれんの奥からエプロンを着た小柄な女性が出てくる。
その女性は髪を頭の後ろで結びポニーテールにしている。背は低く童顔ではあるが、活発な印象も受ける顔立ちをしている。端的に言うとその女性の顔は「サメ」に似ているような気がした。だが彼女の瞳はどこか寂しさをも称えているように見えた。
「お〜、あなたが花咲里さんが行ってた東京から来た子かー」
「はじめまして、一ノ瀬茉莉です」
と茉莉は深々とお辞儀をする。
「七海有栖です、よろしくね」
有栖が手を振りながら答える。
BOSEのスピーカーからはフレディ・レッドの「shades of redd」がエンドレス・リピートで流れている。音の出どころはカウンターの奥にあるレコードプレーヤーからであろう。ドンシャリの効いた重低音とレコード特有のノイズが合わさって、この喫茶店がもつ重厚かつヴィンテージな雰囲気を演出するのに一役買っている。
「あっ、全然座って大丈夫だよ」
と有栖は椅子に手を差し出すようにして座ることを促す。お言葉に甘えて茉莉と花咲里はカウンター席に座る。席に着いて花咲里は腰を少しさする。
「さて、せっかく来たもんだし2人は何か注文する?」
「あの、わざわざ来てまで申し訳ないんですけど私、コーヒーとかよく分からなくて…」
と茉莉は俯いてモジモジする。
「メニュー表見てご覧。おすすめの飲み方とか書いてあるからさ」
有栖はガサゴソとメニュー表を取り出し茉莉と花咲里の目の前に置く。メニュー表は冊子風になっておりエスプレッソ・トニックやアメリカン・コーヒー、キリマンジァロ・コーヒーなどのドリンク名の横に写真が掲載してあり、簡易的な説明もなされている。変に英字や斜体で書くことなく平易かつシンプルで見やすいメニュー表である。
「じゃあ私はアイスのアメリカーノのラテにしようかな」
花咲里は即決だったが、茉莉はメニューを隅から隅まで見回して少し迷っていた。そして、説明欄の「酸味のあるモカの好みが分かれる味を王道のマンデリンで中和、コクと深みのある新体験のブレンドです」との踊り文句に惹かれて、メニュー表を指さして言う。
「あ、私はこのモカとマンデリンのブレンドのアイスでお願いします」
「は~い」
「アメリカーノって名前、何だかかっこいいですね」
「でしょ?でも実はね、アメリカーノの由来って嫌味なんだよ」
「え?そうなんですか?」
「コーヒーの本場ってイタリアなんだけど、イタリアで飲まれるコーヒーはもっぱら苦みの強いエスプレッソなの。それでイタリア兵が米国に渡った際に飲んだコーヒーが薄すぎて、思わず言ったの。アメリカ~ノ!と」
「へぇ~そうなんですね」
「で、このアメリカーノは味が濃いけど量の少ないエスプレッソを水やお湯で割って水増しして飲むの」
「は~い蘊蓄はそこまで!茉莉ちゃん困ってるよ!?」
茉莉は微妙な表情で笑っている。
「じゃあ今そこのマシーンで豆挽いてくるから待っててね」
と調理台に置いてあるマールクーニックのマシーンを指差した。袋から豆を取りだしてマシーンに入れる。ツマミで挽き目を選択しスイッチを押すと、掃除機のような音がして一瞬で豆が挽かれていく。挽かれた豆を円錐形のドリッパーに設置されたフィルター上に放り込む。そして直火で温めて沸騰した熱湯のミネラルウォーターをケトルで慎重に注いでいく。
そして手元に置いてあるスマートフォンでタイマーをセットし、蒸らしを始める。バイブレーションが鳴って一分間じっくり蒸らした後に、またケトルでグルグルとお湯を3回に分けて注いでいく。
「すごい!コーヒーってこういう風に淹れるんですね」
初めて見るドリップ抽出に茉莉は感嘆の声を漏らす。天井でゆったりと回転するファンがコーヒーの濃厚な香りを運んでくる。茉莉がスマートフォンでネットニュースをサーフィンして、千葉で猫が失踪し懸命な捜索の果てに数十キロ離れた茨城の地で死んでいたのが見つかった記事を読み終え、港区のタワーマンションでカップルが自殺したというニュースを扇動的に報道しているタブー誌の記事に移る頃に、コーヒーが出来上がっていた。
出来上がったコーヒーをカップアンドソーサーにうつし茉莉の前に置く。そしてタンピングされた極深煎りのコーヒー粉をエスプレッソマシンにセットし、天然氷をふんだんに投入したグラスに抽出する。その上から硬水のミネラルウォーターをグラスいっぱいに注いでいく。コーヒーに続いて、アメリカーノも完成した。
二人は出来上がったコーヒーを口にする。
「わぁっ、苦い…苦いけどほんのりコクと甘みもあって何とも言えない味わいですね…コーヒーなんて初めて飲むのにどこか懐かしいような感じ...」
「食レポ上手いねぇ〜、君」
「いぇ…そんな事ないです」
「とりあえずこれからよろしく!茉莉ちゃん!そしてようこそ安神沢へ!!」
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