第2話
身体と運動。体幹と、鞭のようにしなやかに動けるというあり方。
腕や脚を自在に、鞭のようにしならせる動きをするというのは主に、スポーツで聞かれる比喩です。体勢や重心の位置、その時の状況といった事のなかで、とらわれることなく、延び延びと変幻自在に最適な形で、“ぴたっ、ぴたっ”とフィットし続ける。
状況が進むなかで、身体の各部位が、それぞれ別の意思を持っているように最適な働きをする。
そうできたら素晴らしい。
ところで、鞭には持ち手で操作して、自在に操るという特性がある。パーツとして、持つところと動くところがある。種類はさまざまですが基本的にそういう風にある。
その上で、“もしも自在に動くはずのところに経年劣化なんかで、固まりが出来ていたらどうなるかという”。当然、弊害で動きが制限されるので本来のポテンシャルを失い、せっかくの自在が損なわれてしまう。
人間の身体でいうと持ち手が、体幹のいわゆるインナーマッスルの各所と、肩関節、肩甲骨、股関節、あるいは腸骨。そこら辺の操作でその先に延びる両腕、両足を操作する。なおかつ、自在に動くためには余計な力が入っていないという条件がある。
つまり何がいいたいかというと、逆に、それが叶わないような現代人の運動形態は生物的に不自然なのではないかと……?
そもそも姿勢というのは、大地に存在する全てのものが、引力という干渉に対する抵抗です。引力という、地球の中心に向かって起こる働き。それに抵抗する働き。
さらにいうと、持って生まれた肉体でそのプロセスにさらされ続けるのが、ある種の宿命。
人類は、二足歩行で活動するという、訳の分からない難易度設定で営みを余儀なくされている、哺乳類の肉体を持つ存在。
であるからして、望むと望まざるとに関わらず、持って生まれた肉体に対する理解を深めるっていうのは必須だと思います。
ここまでお読みの方で、そういう理解を得られる何らかの学問に触れられた方が、どれだけいるでしょう?
自分と向き合うといったら大げさですが、自分の身体の機能性を細分化する。特徴を知って、将来の不都合を回避する努力に取り組みやすくする。もっというなら、自分の身体という哺乳類に肉体を理解する。そういう学び方。
恐らく、この世で一番、長い付き合いになる自らの身体に関する知識。最適な運用。
少なくとも私は、基本的な教育課程で細分化された、自分の身体の運用法というものを習った試しがない。
さらにいうと、そのような取り組みで、脳の認知機能と認識機能の発達に働きかけることが出来るという事実を、学んだこともない。
当たり前の話ですが、我々の肉体は哺乳類です。それに宿る何かが我々です。
身体を鞭のようにしならせる。
あらゆる意味で、“もしも自在に動くはずのところに経年劣化なんかで、固まりが出来ていたらどうなるかという”? 本来、当たり前に出来るはずの運動が出来ないのはいったい、何故なんでしょう?
体質や脳の認知機能を含めた、ここ数百年で起きている生物的な劣化は、いったい何なんだろう?
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