「今日は機嫌がいい。珍しい豆で淹れてみよう。ゲイシャって分かる?」「知ってますよ。酸味と甘味が豊かで、従来のコーヒーのイメージを覆す味わいなんだとか。」

事務所を出て独りぼっちで学校まで向かう道中、私はジョイに向かってひたすら、どうしよう、どうしようって唱えていました。


3人みんなの授業参観をしっかり見届けるために、見届けるための努力はしたんだよと胸を張って言えるように、私は花奈さんとご婦人にヘルプを出してみたのですが、だめでした。


花奈さんはコンビニバイトのシフトが入っており、ご婦人も旦那さんと映画を見にいく予定を入れてしまっており、もちろん探偵さんは役立たずということで、なんと私の人脈は全て使い果たされてしまったのです。


お母さんは1人しかいなくても、お母さんの代わりだったら何人いても別に構わないじゃないですか、という閃きが降ってきた時にはそのアイデアの新鮮さに感動していただけに、そう上手くは行かないという社会の難しさに対する自分の無力さが嫌になります。


「そもそも、親が授業を見に来る意味って、あるのかなあ。」

「もうすぐ学校に着くくらいのタイミングでそれを言うんですか。」

「授業参観の日に親が来ないのとか、私にとっては当たり前だったから。」

「運動会とか、卒業式とかもですか?」

「うん。ずっと仕事で忙しいから。あー、思い出しちゃった。私、親が来るような学校行事がある日、いっつもすっごく憂鬱になってたの。」

「なんでですか?」

「他の子の親さんはみんな来てるのに、私のだけ来てないんだもん。いやじゃん。」

「親さんが来なくて寂しかったんですね。」

「違うし。授業参観に来ない親の子どもなんだなって、可哀想だなって思われるのが嫌だっただけ。」

「でも、恵子ちゃんたちは由加と違って、由加が授業を見に来てくれるのを待っています。楽しみにしているんですよ。」

「そうじゃないかもよ。どうしてそう言い切れるの?根拠は?」

「根拠はないですけど、どうせ学校に行くんですから、そう考えることにしましょうよ。招かれざる客として行くよりも断然、気が楽ですし。」

「それは、そうだけど。まあでも、来ないでって言われたって、私は行くと思う。だって、そうじゃなかったら、私も親と同じになっちゃうから。」

「動機はなんであれ、それでもいいと思います。ところで、由加は誰の授業を見に行くんですか?」

「そこなんだよね。」


 [私は姿を自由自在に変えられるんです。ご希望がありましたら、他の動物にも、世の中のあらゆる無機物にも、形のないものにも変身できますよ。]


「そういえばジョイって、何にでも変身できちゃうんだよね。」

「はい、できちゃいます。象でもライオンでも、車にも変身できちゃうんです。」

「私にも変身できるの?」

「はい、できちゃいます。由加の行動や思考のパターンはしっかりと解析しているので、かなりの高精度で由加の由加らしさを再現することができちゃいます。」


ジョイがそう言うと、まるで私が瞬きをしている間に姿見でも置かれたかのように、私の前には急にもう1人の私が出現してきて、私が私を見つめていました。


同じくらいの背丈で全く同じ服装、そして私の声で話す分身を前にした私は気分が悪くなってきてしまって、もう1人の私を視界に入れないように目を閉じながら、ジョイとの会話を続けました。


「そのままの状態で数を増やすことは可能なの?」

「はい、可能です。増やした分身は、塩をかけても溶けたり縮んだりしません。」

「なに言ってるの?」

「いえ、気にしないでください。こっちの話です。それで、何人にしますか?」

「うーん。私は恵子ちゃんの授業を見に行くから、民子ちゃんたちのクラスとかに行く分身がいればよくて、だから、えっと、3人に増やせばオッケー。」

「分かりました。3人増やせばオッケーですね。」

「それと、ジョイは民子ちゃんと和枝ちゃんのクラスとかを見に行く時に、他の私と鉢合わせたり、分身が集まっているところを他の人に目撃されないように気をつけてね。」

「それは問題ありません、いざとなればまた変身して姿を隠せばいいだけですから。」

「じゃあ、今はまだ、ちょっと隠れててもらえる?」

「分かりました。では、先に向かっていますね。」

「あ、うん。お願い。」


目を開くと、私の姿は目の前から消えていて、何回かジョイの名前を読んでみましたが、返事は帰ってきませんでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「カンダタは、どうしたらよかったんでしょうか?みんなで話し合って考えてみましょう!」


今日の授業は国語、題材は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で、私は恵子ちゃんたちの男女2人ずつのグループに近寄って、ディスカッションの様子を聞いていました。


「カンダタは他の悪い人たちを追い払ったりせずに、いっしょに蜘蛛の糸をのぼっていったら、ちゃんと天国に上がれていたんだと思います」

「でも、そしたら地獄に落ちた人がいっぱい天国に上がれちゃうことになるよ」

「確かに、いくらお釈迦様っつったって、だめだろ、それは」

「クーデターのためなんじゃねえか?実はお釈迦様は天国を乗っ取ろうとする悪い奴で、地獄から拾い上げた罪人たちに恩を売って手下にしてるんだぜ」

「それは違うと思うなあ 普通に、助けてあげたかったんだと思う」

「だとしたら無責任だろ、もしカンダタが登ってこれたとして、やっぱ、後先のこと考えたらマズイわけだし」

「・・・初めから、蜘蛛の糸を切ってしまうつもりで垂らしたんじゃないでしょうか。」

「えっ、だったらお釈迦様って、めっちゃ嫌なやつだな 別に助け出すつもりなんてないのに糸たらして、いちゃもんつけて、糸切って、地獄に落ちたやつはやっぱりダメだって、悲しんでるフリして心の底から馬鹿にしてんだぜ」

「ど、どうしてそんな意地悪なことを思いつけるの・・・?」


さすが恵子ちゃんのグループは頭のいい子たちが揃ってるなあと思いながら、話を聞いているのが面白くて、思わず私も混ざりたくなっちゃって、ついついディスカッションに割り込んでしまいました。


「えっ、由加さん、なんでいるんですか」


恵子ちゃんは、授業を参観するのではなく、参加しに来てしまった私を見て、嫌そうな顔をしました。


「みんなの議論が面白かったから、私も混ぜてほしくなっちゃったの。」

「えっと、お姉さんは・・・?」

「恵子ちゃんのお母さんです。」

「若すぎだろ」

「永遠の17歳だからね。」

「高校生じゃねーか」

「もう、何しに来たんですか、というか、はあ、もう、邪魔するなら早く帰ってください」

「ごめんごめん。じゃあ、さっそく本題。お釈迦様は心の底から、カンダタを救い出したいと思ったんだよ。でも同じくらい、カンダタを助け出すことはできないと分かっていたの。」

「助け出せないって分かっていたなら、どうして蜘蛛の糸をたらしたんでしょう?」

「切るためだよ。」

「じゃあお釈迦様は性格が最悪ってことか」

「結論を急いじゃだめ。お釈迦様にはちゃんと、カンダタを助けてあげたい気持ちはあったんだよ。」

「だったらなんで糸を切っちまうんだよ」

「カンダタを助け出すことはできないから。」

「それならどうして、お釈迦様は糸をたらすんですか?」

「いい質問だね、恵子ちゃん。切るためだよ。」

「切るために蜘蛛の糸をたらしてるって、やっぱ性格最悪じゃん」

「だから、違うんだってば。垂らした糸を切るためには、まず垂らさないとだめでしょ。垂らした糸を切るために、切るための糸を垂らしてるの。」

「どうして、そんなことをするんですか?」

「確認するためだよ。」

「何を確認するんですか?」

「ガンダタを助けてあげることは、やっぱりできないんだって、自分を納得させて、諦めるための確認。もし本当に助けちゃったら、大変なことになっちゃう。それはさっきみんなも話していた通り。あのままカンダタと一緒に数えきれないほどの罪人たちが天国に昇ってくることになるの。」

「そいつはマズイぜ」

「だから、いくらお釈迦様でも、カンダタを助けてあげることは無理。というか、しちゃだめ。でも、お釈迦様はカンダタを助けてあげたかった。この気持ちのぶつかりを、なんとかしたい。どうにか自分の納得がいくように、諦めたい。自分の気持ちを説得する方法を探していたんだと思うよ。」

「あっ!だからお釈迦様は蜘蛛の糸をたらしたのか!」

「その垂らした蜘蛛の糸を切ることで、諦める決心を着けたってこと。このお話は、そういう物語。」


私が話し始める前は賑やかで活発に議論が弾んでいた教室はしんと静まり返って、親さんも生徒さんたちも先生までも全員が私に視線を向けていて、私は授業のいいところを全て横取りしてしまったことに気付いて、とても不機嫌に歪んだ顔をしている恵子ちゃんにごめんねと謝った後に教室から逃げ出しました。


「やっちゃった。またやっちゃった。どうしよう。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


授業参観を途中で抜け出して、無我夢中に全力疾走していたというのに、私は疲れることを忘れてしまったようで、息切れしてない自分に驚きながら事務所のドアを開けました。


入ってすぐの応接スペースの机の上には、結露したアイスコーヒーのグラスが、既にストローがささっている状態で2杯、その内のソファー側のグラスは手つかずの状態で置かれていました。


「あの、探偵さん、お客さんでも来てました?」

「え?いや別に、誰も来てないと思うけど。」

「そうですか。」

「それにしても、本当によかったのかい?」

「え、何がですか?」

「何がって、やっぱり授業を見に行くのはやめて、事務所でのんびり過ごすことにしますって、自分で言ってたじゃないか。」

「うーんと、そんなことを言った覚えはないですけど、まあ、もう、いいかなって。」

「なにもよくない気がしなくもないけど。まあ、そのコーヒー、飲んでみなよ。いつもと違う豆を使ってみてるから。」

「え、飲んでいいんですか。」

「どうしてこの状況であのコーヒーを君が飲んではいけないなんて意地悪なことを僕が言うと思うんだい。」

「・・・前例が、ありますよね。」

「あったね。でも今の君は、たとえ僕に飲むな、カップを持つなと言われたところで、その言いなりにならないことを選択できる強い自由を持ち合わせているはずだ。僕が意地悪なことを言おうと言うまいと、君にはもう関係のない話だ。さあ、コーヒーをどうぞ、きっとびっくりする。」

「・・・このコーヒーを飲まないという選択をする自由も、私は持ってます。」

「それはそうだ。別に飲まなくてもいい。飲んでもいいし、飲まなくてもいい。好きな方を選ぶことだ。」

「・・・それって、私がコーヒーを飲んでも飲まなくても、探偵さんの思惑通りになっちゃったって言えちゃいますよね。」

「言えちゃうね。」

「ああもう、癪ですね!ほんっとうに癪です!」


私はそう言って笑いながら探偵さんにソファーの上の毛布を投げ被せて、そしてすぐに取り払った毛布をソファーに投げて戻して、にゃあ!と猫の鳴き真似をしながら探偵さんに飛びかかって、抱き着くようにして絨毯の上に押し倒しました。


「毛布を仏壇に被せた意味、なんとなく分かっちゃいましたよ。探偵さんは、確認をしたかったんですね。」

「へえ、何を確認するための奇行だったのか、推理を聞かせてもらおうじゃないか。」

「探偵さんは仏壇が、猫の剥製じゃないってことを確かめたかったんですよね。」

「・・・仏壇が猫の剥製とは違うことくらい、見たら分かる。」

「見たら分かることは、見えなければ分かりません。これは探偵さんの言葉ですよ。仏壇に毛布を掛けた時、その毛布の向こうにある仏壇は、もしかしたら猫の剥製かもしれません。猫の剥製ではなく仏壇であることを確認するために、探偵さんはあの時毛布を取り払ったんです。」

「別に仏壇が猫の剥製ではなく仏壇であることを確かめたいだけなら、毛布を被せなくたって観測すればそれで済む話だ。そもそも仏壇が猫の剥製ではないことくらい、別に観測しなくったって分かりきっている。」

「分かりきっているからって、大事な物事を見落としてしまう私を、探偵さんは何度も叱りつけてきましたよね。目を離した隙に仏壇が剥製になっちゃってたら大変です。」

「仏壇は剥製にはならない。」

「それを確認するかしないかでは、自分の心に対する説得力が全然違うってことです。そりゃあそうですよ、仏壇が急に猫の剥製になることはありません。」

「当たり前すぎる。」

「そうです。でもその、当たり前すぎて無視してしまいそうな物事を、敢えて言葉にしていこうとすることは、探偵さんが日頃から大事にしている、結論を急がない姿勢に他ならないと思います。」

「そうだね。結論を急がないことができないのなら、探偵には向いていない。」

「取り払うための毛布を仏壇に被せて、仏壇に被せた毛布を取り払う。そんな意味不明な行動をしたのは、探偵さんが探偵の流儀に則って、自分を安心させるため。仏壇が猫の剥製ではないことを、自分に納得させるため、だったんですよね。」


私は推理を一通り話し終えると、探偵さんの上から退いてソファーに座り、机の上のアイスコーヒーを1口、その酸味と甘味の豊かさに驚かされました。


「なにこれ!コーヒーじゃないみたいです!本当にびっくりしました!」

「ふふふふ。なによりだよ。」

「なんか探偵さん、機嫌よさそうですね。」

「まあ、そうだね。今の僕は機嫌がいい。」

「こんな、特別な豆を使ったコーヒーで、えっと、なんていう品種でしたっけ?」

「ゲイシャだよ。ゲイシャ。」

「へえー。初めて聞きました。」

「ほう・・・。」


絨毯の上に座り込んでいた探偵さんはふと立ち上がり、獲物を見つけた鷹のように、その青い瞳を鋭く、キラリと光らせました。


「・・・ところで探偵さん、私に何か隠していませんか?」

「さあ。僕は隠し事が多い名探偵だから。どれのことか皆目見当がつかない。」


[話題をずらすテクニックは人を騙すのにとても役立つ]


[無意識のうちに自分の願いを隠してしまえるくらい、恵子ちゃんはしっかりしていて、賢くて、強い心を持っている]


[自分の願望や気持ちを抑圧して我慢することに慣れているし、その無理を悟られないように無理をするのが上手]


「恵子ちゃんは確かにしっかりした子ですけど、まだ子どもです。探偵さんが言うように器用に話題を逸らせるほど、大人なわけじゃありません。」

「そうかな。」

「探偵さんとは、プロの嘘付きさんとは違うんですよ。」

「お褒めに預かり、光栄なことだよ。」

「それで、授業参観、さっきまで行ってきてたんですけど、恵子ちゃんに、普通に、すっごい嫌そうな顔をされました。」

「君が変なことをしたからじゃないか?」

「それは、そうかもですけど。」

「というか、授業参観に行ってたのか。あれ、時間的にはまだ授業の途中だろうに。」

「途中で抜けてきたんですよ。話を逸らさないでください。」

「別に話題を逸らしているつもりはない。」

「じゃあ、無意識のうちに話題を逸らしちゃってるんです。話を戻しますよ。私が授業参観に行っている間、事務所には探偵さんが独りぼっちになります。」

「それは、そうだね。授業参観に行っているのなら、君は学校にいなくてはいけないはずだ。」

「やっぱり授業を見に行くのはやめて、事務所でのんびり過ごすことにします、って伝えると、探偵さんは機嫌がよくなったんですよね。」

「ゲイシャだね。」

「話題を逸らさないでください。」

「・・・。」

「探偵さんは、私が授業参観に行かないことを、望んでいたんですよね。」

「そんなことは言ってない。」

「言ってませんけど、顔に書いてあるんです。」

「理不尽だな。」


探偵さんは安楽椅子に腰を降ろし、いつかの事件の時と同じようにカラカラと軽く、でもその事件の時とは違って、とても幸せそうに笑いました。


「そういえば、美雪さんって、私と顔がそっくりなのだそうですね。」


その一言で、探偵さんの笑顔は消え、表情筋が引きつった顔になって、青ざめました。


「・・・花奈から聞いたのか。」


大学生だった時に思いを寄せていた、今でも私と名前を呼び間違えてしまう程の、根深い未練を探偵さんに残していった女の子、それが美雪さんです。


「単刀直入に質問します。逃げずにきちんと答えてください。探偵さんにとって私は、」


私はそこで一旦言葉を切り、ソファーから机の上に乗り移って探偵さんの目の前に正座して、その頭を両手でぎゅぎゅぎゅっと挟んで、鼻がぶつかりそうなくらい顔を近づけてから質問の続きを声に出しました。


「私は、美雪さんの代わりなんですか。」

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